第5話 潜む鬼
月詠静から授けられた術は、湊の感覚をこれまで以上に鋭敏にした。
夜の帳が下りた街は、昼間とは全く異なる貌を見せる。
古都の風情を残す街並みは、闇に沈むと一層深い影を落とし、そこかしこに潜む気配を際立たせる。
湊は、教わった呼吸法を実践し、精神を研ぎ澄ませた。
意識を集中させると、街に漂う人々の様々な《気》の流れが感じ取れる。
喜び、悲しみ、怒り、安らぎ……。
そして、それらに混じって、明らかに異質で、冷たく、粘つくような《気》。
それが、鬼の放つ瘴気だった。
「鬼は、人々の負の感情や、生命力の淀みを好む……」
静の言葉を反芻しながら、湊は闇の中を疾駆する。
屋根から屋根へ、音もなく跳び移り、人目を避けながら、瘴気の源を探る。
古武術で鍛え上げられた身体能力は、闇夜の探索において絶大な効力を発揮した。
しかし、鬼の気配は捉えどころがなかった。
濃密になったかと思えば、ふっと霧散するように掻き消え、また別の場所で微かに感じられる。まるで、街全体を覆う巨大な蜘蛛の巣のように、その存在は街の闇に遍在しているかのようだった。
早く鬼を見つけ出し、止めなければ、被害はさらに広がるだろう。
焦りは禁物だと、湊は自分に言い聞かせる。
焦燥や怒りは、《鬼の血》を刺激し、制御を難しくする。
静から施された鍼と漢方薬の効果は確かにあるが、それも万能ではない。常に冷静さを保ち、感覚を研ぎ澄ませ続けなければならない。
そしてついに、特に濃密な瘴気が、街外れの廃工場地帯から立ち上っているのを感知した。
錆びついた鉄骨が月明かりに不気味なシルエットを描き出す、打ち捨てられたエリア。
ここだ、と湊は確信する。
廃工場に近づくにつれて、瘴気はますます濃くなり、肌を刺すような冷気と圧迫感が襲ってくる。
常人であれば、この場にいるだけで精神に異常をきたしかねないほどの邪気だ。
湊は呼吸を整え、警戒レベルを最大限に引き上げる。
工場の内部は、がらんどうとしていた。
壊れた機械の残骸が散乱し、割れた窓から吹き込む風が、不気味な音を立てている。
そして、その中央の広大な空間。
光と影が最も濃く交錯する場所に、それはいた。
「いる」という表現が適切なのか、湊は一瞬戸惑った。
それは、明確な輪郭を持つ「物体」ではなかったからだ。
まるで闇そのものが凝り固まって意志を持ったかのようだった。あるいは、空間の裂け目から滲み出した、深淵の欠片。
黒い影。
しかし、それは壁に映るような平坦なものではない。
三次元空間に存在しながら、その奥行きや質量が曖昧で、まるで濃度の違う墨汁が水中で混ざり合うように、ゆらゆらと、絶えずその形を不定形に変え続けている。
それは、固体でもなければ、気体でも、液体でもない。物理法則を嘲笑うかのように、そこにあるはずのないものが、確かにそこにあるという、矛盾した存在感を放っていた。
時に人型のように見え、次の瞬間には獣のようなシルエットを描き、さらに次の瞬間には、名状しがたい触手のようなものを蠢かせる。
それは、見る者の恐怖心や認識そのものを映し出す鏡なのかもしれない。
影の中心部、あるいは奥深く――その距離感すら掴めない――。
仄暗い、病的な光が点滅していた。
それは、まるで瀕死の星が最後の輝きを放つかのような、あるいは深海の未知の生物が発する燐光のような、不吉で冷たい光だった。
脈打つように明滅を繰り返し、そのたびに周囲の影がわずかに収縮し、また膨張する。あれが、このえもいわれぬ存在の核であり、意思の中枢であるように感じられた。
鬼の周囲の空気は、重く、冷たく、そして粘ついていた。
息を吸い込むと、肺が凍てつくような感覚と共に、精神を蝕むような微かな囁きが聞こえる気がする。それは、これまで鬼が喰らってきたであろう、無数の人々の断末魔の叫び、絶望、怨嗟が混ざり合った、おぞましい残響なのかもしれない。
実体と幽体の狭間に存在する、形なき悪意の顕現。
湊は、全身の神経が逆立つような感覚を覚えながら、静かに。
しかし、確かな敵意をもって、その存在と対峙した。
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