第4話 鬼狩り
月詠医療院を出た湊の足取りは、鉛を引きずるように重かった。
静から受けた施術は、確かに身体の疼きと衝動を一時的に霧散させてくれたが、代わりに精神には別の種類の重石が乗せられたようだった。
彼女の言葉――
「街の空気が妙よ」
「鬼は、同胞の気配に敏感よ」
――が、耳の奥で不快な反響を続けている。
空は深い藍色に染まり、星々が瞬き始めていた。
街灯が点々と道を照らし、家路を急ぐ人々の影が足早に過ぎていく。
見慣れたはずの日常の風景。
しかし、湊にはその全てが、どこか薄っぺらな張りぼてのように感じられた。穏やかな水面のすぐ下で、得体の知れない何かが蠢いているような、そんな気配。
静の言葉は、気のせいでは片付けられない確信めいた響きを帯びていた。
(杞憂であってくれ……)
そう願わずにはいられない。
自分の中に潜む《鬼》だけで、もう十分すぎるほど厄介なのだ。これ以上、面倒なことに関わりたくない。ただ静かに、目立たず、この忌まわしい血の衝動を抑え込みながら生きていければ、それでいい。
そんな願いを嘲笑うかのように、それは起こった。
湊は、気分転換にと、少し遠回りをして川沿いの遊歩道を歩いていた。
川面を渡る夜風が心地よく、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。虫の声と、遠くを走る車の微かな音だけが聞こえる。
その静寂を、唐突に引き裂いたのは、短い悲鳴だった。
「!?」
湊は弾かれたように顔を上げた。
音は、遊歩道から少し入った、木々が茂る小さな公園の方角から聞こえた気がした。
胸騒ぎがする。
先日の不良との一件が脳裏をよぎるが、今度の音はもっと切迫した、嫌な響きを含んでいた。
《鬼の血》が、警告を発するように疼き始める。
それは、人間の悪意だけではない、もっと異質な、冷たい気配への反応だった。
湊は躊躇わなかった。
踵を返し、音のした方角へ駆け出す。
鍛え上げられた脚力が、闇の中を疾走する。
公園の入り口が見えてきた。ブランコや滑り台が、月明かりに不気味な影を落としている。
そして、彼は見た。
砂場の近く、月明かりに照らされたその光景に、湊は息を呑んだ。
人影が二つ、無造作に転がされていた。
どちらもまだ若い女性。
しかし、その姿は無惨という言葉すら生ぬるいほどだった。
一人はうつ伏せに倒れ、背中のブラウスは何か巨大な爪で引き裂かれたかのように無残に破れ、白い肌が覗いていた。その肌には、赤黒い筋のような痕跡が幾筋も走り、まるで生命力を根こそぎ吸い上げられたかのように、皮膚は生気を失って蝋細工めいている。
肩口からは、じわりと血が滲み出し、砂に黒い染みを作っていた。
もう一人は仰向けだった。
目を見開いたままだが、その瞳には何の光もなく、ただ夜空の闇を映しているだけだ。着ていたワンピースの胸元は大きく引き裂かれ、痛々しいほど白い喉元には、獣にでも噛まれたかのような鬱血した痕跡がくっきりと残っていた。
口元は苦悶に歪んだまま固まり、唇は血の気を失って薄紫色に変色している。顔色は死人のように真っ白で、まるで一瞬にして全ての熱と生命を奪い去られたかのようだ。
彼女たちの周囲には、鉄錆のような血の匂いと、例の粘つくような冷たい気――瘴気が濃密に漂っていた。
それは単なる衰弱や失神ではない。明らかに、圧倒的な暴力と、人知を超えた存在による残虐な蹂躙があったことを物語っていた。
服の乱れ、生々しい傷跡。
そして何より、魂ごと奪われたかのような生命力の欠如。
これは、人間の仕業ではありえない。
「……っ」
湊は、喉の奥から込み上げてくるものを必死に堪えた。
目の前の光景は、彼の想像を遥かに超える鬼の凶悪さを突きつけていた。これは警告だ。この街に現れた鬼は、単に生気を啜るだけの存在ではない。獲物を嬲り、恐怖と苦痛を与え、その上で命の根源を喰らい尽くす、まさしく悪意の化身なのだと。
足元の砂が、まるで血を吸ったかのように重く感じられる。
湊は固く拳を握りしめた。
体の奥底で、疼きが怒りへと変わっていく。目の前の惨状に対する、人間としての抑えきれない憤怒だった。
犯人の姿はない。
しかし、この場に残された凄惨な痕跡と瘴気が、その存在の恐ろしさを雄弁に物語っていた。
まるで、見えざる捕食者がすぐそばの闇に潜み、冷たい舌なめずりをしながらこちらを窺っているかのような、肌を刺すような悪寒が湊を襲う。
既に立ち去った後なのか、あるいは……。
湊は周囲に鋭く視線を巡らせる。
だが、見えるのは揺れる木々の影と、静まり返った遊具だけ。
しかし、あの冷たく重い気配は、まだこの場に色濃く残滓のように漂っている。まるで、見えない何かが、すぐそばの闇に潜んでこちらを窺っているかのような。
湊は、携帯電話を取り出し、震える指で緊急通報の番号を押そうとした。
だが、その時、背後から声がかけられた。
「……その必要はないわ、湊」
ハッとして振り返ると、いつの間に現れたのか、白衣の女性がそこに立っていた。
月詠静だった。
彼女の黒曜石のような瞳は、倒れた女性たちと、湊の動揺した顔を交互に見つめていた。
「月詠さん……。どうしてここに」
「私は監視者よ。そして、この気配……やはり鬼が」
静の声は淡々としていたが、その言葉の内容は衝撃的だった。彼女は、この状況を既に予期していたのだ。
「月詠さん。この人たちは?」
「魂を喰われたのでしょう。鬼の糧としてね」
静は冷ややかに言い放ちつつ、女性たちの脈を取り、ペンライトで瞳孔反応を確認する。
「このままでは、意識は戻らない。やがては朽ちるだけ」
「そんな!」
湊は絶句した。助ける方法はないのか。
静は、湊の心の叫びを見透かしたように、続けた。
「助ける方法は一つだけ。鬼を滅し、喰われた魂を取り戻すこと」
その言葉は、死刑宣告のように湊の心に突き刺さった。
鬼を、滅する。
それはつまり、自分が、この忌み嫌う《鬼の血》の力を使わなければならないということだ。
「……僕が、やるしかないと?」
湊の声は掠れていた。
「他に誰がいるというの?」
静は静かに、有無を言わせぬ力強さで言った。
彼女は湊に一歩近づき、その瞳を真っ直ぐに見据えた。
「君が道場で積み重ねてきた修行も、私が施してきた治療も、全てはこの時のため。力を制御し、鬼を狩るための準備だった。理解できるわね?」
静の言葉は、冷たい刃のように湊の心を切り裂いた。
これまでの日々が、全て仕組まれたものだったと改めて感じられる。自分は、ただこの瞬間のために生かされ、育てられてきた道具なのだと。
怒りと、反発と、深い絶望感が込み上げてくる。
だが、目の前には生気を奪われ、死の淵にいる人々がいる。この街を脅かす、目に見えない邪悪な存在がいる。
(逃げられない…)
それは、諦めとも、覚悟ともつかない、重い認識だった。この血からは、この宿命からは、決して逃れることはできないのだ。
「神楽湊」
静が、彼の名を呼んだ。
「君に、神楽家に代々伝わる使命を命じるわ。この街に現れた鬼を狩りなさい。それが、君が存在する理由であり、逃れることのできない、君自身の束縛なのだから」
その言葉は、呪詛のように湊の魂に絡みついた。
治療者であり、監視者であり、調教師である月詠静によって、彼は今、正式に「鬼狩り」という名の、見えない鎖に繋がれたのだ。
夜風が、血の匂いと瘴気を孕んで吹き抜ける。
湊は、固く拳を握りしめたまま、ただ立ち尽くすしかなかった。
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