第3話 月詠静

 週に二度、湊はこの疼きと衝動を鎮めるため、街の外れにある古びた医院を訪れる。

 看板には、掠れた墨文字で「月詠医療院」とだけ記されている。

 そこは、現代的なクリニックとはまるで違う、時が止まったかのような場所だった。引き戸を開けると、独特の薬草の香りが満ちている。

 受付には誰もいない。

 奥の診察室へと続く廊下は薄暗く、歩くたびに古い木の床が軋む音が響いた。

「……湊か。入りなさい」

 奥から聞こえたのは、女性の声。

 低く、静かだが、有無を言わせぬ響きを持つ。

 診察室の奥、簡素な木の椅子に、白衣を纏った女性が音もなく腰を下ろしていた。まるで、初めからそこに在った風景の一部であるかのように。

 月詠つくよみしずか

 それが彼女の名だった。

 年の頃は二十代後半に見える。

 しかし、その肌は血の気を感じさせないほど白く、滑らかな陶器を思わせた。整いすぎた顔立ちは、まるで能面のように感情の起伏を映さず、ただ、深く澄んだ黒曜石の瞳だけが、訪れた湊の存在を寸分の狂いもなく捉え、射抜くように見つめていた。

 その瞳には、若さとは裏腹の、幾星霜を経たかのような深淵な静けさが宿っている。人間特有の揺らぎや温かみといったものが削ぎ落とされ、代わりに、研ぎ澄まされた刃のような怜悧さと、どこかこの世ならざるものに通じているかのような、底知れない冷ややかさが漂っていた。

 彼女の周りの空気だけが、まるで密度が違うかのように張り詰めている。それは、侵し難い聖域のようでもあり、触れれば凍てつきそうな絶対零度の空間のようでもあった。

「そこへ」

 静は言葉で案内し、湊は慣れた様子で診察台に座る。

 問診はない。

 静はただ、湊の手首を取り、脈を診る。

 その指先は冷たく、乾いていた。

 それから、瞳の奥を覗き込み、湊の身体と力の状態を精密に把握する。

 しばらくの沈黙の後、静は傍らの棚から数本の銀の鍼を取り出した。

「昂ぶっているわね。何をしたの?」

 詰問する口調は、湊を責める。

「ケンカを、少し……」

 その答えに静は呆れ顔を見せたが、すぐに元の無表情に戻る。彼女は、感情の起伏がほとんど表に出ないのだ。

「つまらないことはしないでと言ったハズよ」

「……すみません」

 湊は謝る。

「脱いで、横になって」

 言われるまま、湊は上半身裸になり、ベッドに仰向けになる。

 静は湊の身体の幾つかの経絡に、淀みなく銀鍼を打っていく。

 鍼治療に用いる鍼の素材には、ステンレス、金、銀、銅、チタン、水晶、プラチナなどがある。日本では主にステンレスが使用されているが、月詠では銀を用いた。

 銀鍼は、刺激が柔らかく、痛みが少ないという特徴がある。

 また、免疫力を高め、自然治癒力を促進する効果も期待できる。

 静は無言で、湊の首に鍼を打つ。

 痛みはない。

 鍼は、髪の毛ほどの細さ(0.1~0.25mm)で、鍼先は瞬時に皮膚を通過するので、細胞の破壊は最小限に抑えられ、痛さを感じないのだ。

 次いで、胸の中央やや左にもう一本の鍼を打つ。

 それも同じく、身体の中心を通る太い動脈の上に。

 これで、経絡と呼ばれるエネルギーの通り道は一通り押さえることができた。

 最後に、右足の内側・内踝の上辺りに最後の一本を射つ。

 それは単なる鍼治療ではない。

 血の巡りと気の流れを調整する。

 それは、鬼の力の暴走を抑え、激痛を和らげるための生命線だった。《血》の流れを制御し、力の暴走を抑え込むための特殊な施術だ。鍼が打たれるたび、身体の疼きが和らぎ、精神を覆っていた靄が晴れていくような感覚がある。

 しかし同時に、全身の力が抜けていくような、奇妙な脱力感も覚える。

 鍼を刺すことで、筋肉の緊張が緩み、血液やリンパの巡りが良くなり、新陳代謝も高まり老廃物が流れやすくなる。

 また、脳内で鎮痛物質の放射が起こり、身体の痛みや不調が緩和されて気分が良くなるのだ。

 施術が終わると、静は苦い匂いのする黒い丸薬を差し出した。

 特殊な漢方薬。

 それは、《血》の力の暴走を抑え、激痛を和らげるための生命線だ。

「……近頃、街の空気が妙よ。気をつけて」

 湊が丸薬を服用していると、静は忠告をした。

「……空気、ですか?」

「鬼は、淀んだ気を好むの。そして、同胞の気配に敏感よ」

 静の言葉は、いつも謎めいている。彼女がどこまで知っているのか、何を考えているのか、湊には分からない。

 ただ、この医療行為が、自分の命を繋ぎ止めると同時に、自分をこの血の宿命と、月詠家の管理下に束縛し続けるものであることだけは、嫌というほど理解していた。

 この女性は、治療者であり、監視者。

 そして、自分という存在を「利用」するための調教師でもあるのだ。

「いい、湊。君が日々励んでいる古武術の修行も、この治療の一環よ。力を制御し、正しく使うための、最も高度な医療なの。決して、力を野放図に振るうためのものではないわ」

 静はいつも淡々とした口調で、有無を言わせぬ響きでそう告げる。彼女の言葉は、湊の心に深く刻み込まれ、彼の行動原理を形作っていた。

 湊は、自分の意志で強くなろうとしているのか、それとも静によって「そうさせられている」のか、時折分からなくなることがあった。

 逃れられない血の束縛と、月詠静という名の管理。

 それが神楽湊の日常だった。

 医院を出ると、空は深い藍色に染まっていた。

 街灯がぽつぽつと灯り始め、家路を急ぐ人々の影が足早に過ぎていく。

 日常の風景。

 だが、静の言葉が耳の奥で反響する。


「街の空気が妙よ」


 それは、嵐の前の静けさなのか。

 それとも、ただの杞憂なのか。

 逃れられない血の束縛。

 そして、忍び寄る不穏な気配。

 彼の平穏に見えた日常は、既にその足元から、静かに崩れ始めていたのかもしれない。

 気のせいだと打ち消そうとしても、身体の奥底で、《鬼の血》が微かに、確かにざわめくのを感じていた。

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