第2話 鬼を宿す者

 夕暮れの茜色が、古いビルの谷間を染め抜いていた。

 学校からの帰り道、湊は近道をしようと、普段はあまり通らない薄暗い路地裏に足を踏み入れた。壁には稚拙なスプレーの落書きが重なり、ゴミ袋からは生ゴミの酸っぱい匂いが微かに漂ってくる。

 ここだけが、市の穏やかな空気から切り離された澱みのように感じられた。

 その澱みの奥から、品のない笑い声と、何かが壁に叩きつけられる乾いた音が響いてきた。

 湊は眉をひそめ、足を止めようとした。

 面倒事は避けたい。

 それが彼の基本的なスタンスだった。

 しかし、無視して通り過ぎるには、その声はあまりにも耳障りで、空気は不快に粘ついていた。

「おい、そこの兄ちゃん」

 低い、威嚇するような声。

 湊が顔を上げると、路地の奥から三人組の男が出てきた。歳は湊よりいくつか上、高校生といったところか。派手な色の髪、サイズの合っていないだぶついた服。

 そして何より、他人を値踏みするような、濁った瞳。典型的な、時間を持て余した不良だった。

 リーダー格と思しき、金髪の男が一歩前に出る。耳にはいくつものピアスが光り、口元には嘲るような笑みが浮かんでいた。

「オレらボランティア活動しててな、募金してくれよ。世の中の恵まれない人達によ?」

 残りの二人、茶髪と黒髪短髪の男が、じりじりと湊の左右に回り込もうとする。退路を塞ぐつもりらしい。

 湊は軽く息を吐いた。

 やはり、面倒なことになった。彼の内にある《血》は、こういう状況を感知すると微かに疼き出す。それは警告であり、同時に、抑えつけなければならない衝動の予兆でもあった。

「お金はないよ。通して」

 湊は努めて平静に、短く告げた。感情を波立たせてはいけない。それは、自らに課した鉄則だ。

「ああん? 聞こえねぇな。募金活動しろよ」

 金髪が吐き捨てるように言い、茶髪の男が湊の肩を乱暴に掴んできた。

 その瞬間、湊の身体は条件反射のように動いていた。

 掴まれた肩を起点に、最小限の動きで体を沈める。

 古武術の「柔」の理合。

 相手の力を利用し、殺す。

 茶髪の男は、掴んだはずの湊の体がするりと抜け、逆に自分の腕が奇妙な角度に捻り上げられていることに気づいた時には、既に遅かった。

「ぐっ!?」

 短い悲鳴と共に、茶髪の男の体勢が崩れる。

 湊はそのまま、流れるような動作で相手の重心を奪い、路地の地に叩きつけた。

 鈍い音。

 茶髪は呻き声を上げ、地に背を打ち付けたまま動けなくなった。

 一瞬の出来事だった。

 金髪と黒髪短髪は、呆気に取られて目を見開いている。

「て、てめぇ!」

 黒髪短髪が逆上し、拳を振りかぶって突進してきた。

 大振りで、力がこもっているが、素人丸出しのパンチ。

 湊の目には、その軌道がまるでゆっくりと再生される映像のように見えた。

 体を捌き、相手の拳を躱す。

 同時に、空いた脇腹へ吸い付くように掌底を打ち込む。接近戦では拳以上の打撃となる拳形。

 それは、内臓に響くような、深く鋭い一撃だった。

「がはっ!」

 黒髪短髪は、カエルの潰れたような声を漏らし、その場に膝から崩れ落ちた。胃の内容物が込み上げてくるのを必死に堪えているようだ。

 二人を瞬時に無力化され、金髪の男の顔から余裕が消え、焦りと怒りが浮かんだ。

「こ、この野郎!」

 金髪は距離を取り、懐に手を入れた。

 その動きに、湊は眉根を寄せた。

 嫌な予感がする。

 同時に、右の眼の奥が、ズクリと熱を持ったように痛んだ。心臓の鼓動が少しずつ早まっていく。

(まずい…抑えろ…)

 湊は内心で自分に言い聞かせる。

 だが、目の前の敵意と、迫る脅威が、血の疼きを増幅させていく。

 金髪が懐から取り出したのは、ギラリと鈍い光を放つ。

 重ねの厚いサバイバルナイフだ。

 ナイフのブレードの厚さは、その性能やさまざまな作業への適性に大きく影響する。厚すぎる刃は肉や野菜が切りにくいが、重ねの厚さは、そのままナイフの堅牢さに繋がる。曲がったり壊れたりせずにより多くの使用に耐えることができ、刃が肉厚なほどクサビ効果で薪を割りやすく、タフな使い方もできる。

 夕暮れの薄明かりを受けて、その刃が冷たく光る。

「殺されてぇか、コラァ!」

 金髪はサバイバルナイフの切先を湊に向けた。その顔は恐怖と虚勢で歪んでいる。

 ナイフ。

 鋭利な刃物。

 常人ならば恐怖で足が竦む状況だろう。

 しかし、湊の心に恐怖はなかった。それよりも強く感じたのは、右目の奥で脈打つ熱と、口の中に広がる鉄のような味だった。

 湊は左手で、自分の右顔を覆う。

 路地の隅にあった水たまりに、自分の顔が映る。

 そこに映ったのは、右の瞳だけが、まるで血のように、あるいは内側から発光するように赤く染まっている自分の姿だった。

 そして、唇の端から覗く右の犬歯が、僅かに、しかし明らかに長く鋭く伸びている。

「……っ!」

 湊は息を呑んだ。

 まただ。

 この忌まわしい力の兆候。

 人間ではないものに、自分が変貌していく証。

 激しい嫌悪感が胸を突く。

 だが、今は感傷に浸っている場合ではない。

 金髪の男は、湊の様子に優位を感じた。

 左手で顔を覆う湊の姿は隙だらけに見えたのだろう。チャンスとばかりに飛びかかってくる。

「うおおおっ!」

 金髪は、恐怖を振り払うように叫びながら、サバイバルナイフを振りかざして突っ込んできた。滅茶苦茶な突きだ。

 湊の思考は、驚くほど冷静だった。

 血は疼き、体は異変をきたしている。

 だが、長年の修行で培われた武術家の精神は、土壇場でこそ冴え渡る。

 サバイバルナイフの切先が迫る。

 湊は、半身になって最小限の動きでそれを躱す。

 瞬間、サバイバルナイフが飛んだ。

 銀の煌めきが舞う。

 金髪男は、ナイフを落としたのかと思ったが、手にはサバイバルナイフの柄がしっかり握られている。

 では、何だ?

 それは、ナイフのブレードであった。

 サバイバルナイフは鍔元から1cmを残して、先端が消失していた。

 金髪が驚いていると、湊はサバイバルナイフを持つ相手の右手首に、吸い付くように左手を添えた。

 指先が、腱と関節の位置を正確に捉える。

「!?」

 手首を掴まれた金髪は、動きを止められたことに驚愕する。

 しかし、湊は力を込めて捻るのではない。

 関節の理合に従い、力を流すように手首を返す。

 乾いた、嫌な音が響いた。

「ぎゃあああああああっ!!」

 金髪の絶叫が路地に木霊する。

 手首をあらぬ方向に曲げられ、ブレードを失ったサバイバルナイフが音を立てて地面に落ちた。激痛に顔を歪め、金髪はその場に蹲る。

 湊は、相手の戦闘能力を完全に奪ったことを確認すると、ゆっくりと距離を取った。

 荒い息をつきながら、自分の右目にそっと触れる。

 まだ、微かに熱を持っている。

 口の中の、伸びた犬歯の感触も確かだった。

 路地裏には、呻き声を上げる三人の不良と、静かに佇む湊だけがいた。

 夕闇が深まり、街灯が頼りない光を投げかけている。

 湊は、蹲る不良たちに一瞥もくれず、静かにその場を後にした。

 背後で聞こえる呻き声や罵詈雑言は、彼の耳には届いていない。

 ただ、自分の内に巣食う《鬼の血》の兆候と、それを御しきれないかもしれないという、冷たい恐怖だけが、彼の心を重く支配していた。

 人間であり続けたいという願いと、否応なく目覚めようとする血の束縛。

 その狭間で、湊は今日も一人、戦い続けなければならなかった。

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