第2話

 こめかみの傷から血が一筋、頬を流れてゆく。流れながら、氷点下にさらされて冷たくなって止まる。

「帝国主義者め」

 瞼が腫れ、一段と細くなった隙間から殴った男の顔を見つめる。努めて無感情を保っていたが、それでも気に入らなかったのであろう、もう一度殴られた。

収容所の兵舎の窓から、吹雪が見えた。並んだ板張りベッドの、奥まった空間で、制裁が行われている。

 「いったい何が気に入らないのだろう」と心の中で考える。自分のような終戦間際に急遽かき集められたような兵士が、帝国陸軍の何を代表しているのだろうか。理不尽だ、とは思ったが、声には出さない。今この災厄が過ぎ去るのを耐えるしかなかった。心を、意識を飛ばす。

 「おお、タナグラ」と学生時代に読んだ詩の一節を、心に思い浮かべる。また、別の詩の「絶望した天使たちの自殺」というフレーズを思い出しながら、一切の無言で耐え忍ぶ。

 「もうそのへんにしとけ」と野太い声がベッドの上から聞こえ、殴り手たちをたしなめるように「おまえら作業の人数を減らす気か」と声がすると、取り囲んでいた男の一人が舌打ちをして、やがて拘束が解かれた。何か吐き捨てるような言葉が聞こえたが、うずくまって傷を確かめる。まぁ、大丈夫だろうと頬の熱いところを撫でた。男たちが立ち去ると、誰かが近づいてきて立たせてくれた。二人が両脇を抱えて、ベッドまで運んでくれた。

 「災難だったな、Aさんよ」と、隣の男が声をかけてくる。

それには答えず、体をできるだけ小さくして薄い毛布で体をくるむ。この時期の天気は変わりやすいので、吹雪は止むに違いない。明日の作業も過酷だろう。体を休めなければいけない。

 眠りに入る儀式のように、男は心の中で呟く。

 「ここは月の世界。月の法によって統治される」

 そして、第一条を導き出そうとする。


 翌日、雪は止んだ。

 作業大隊が編成され、徒歩で伐採作業に向かった。

 一時間近く歩くと針葉樹の森に到着した。数名で組んで木を切り倒し、馬車が引ける大きさになるまで大鋸で加工した。

切り倒す時は、皆が緊張して作業をした。先月も伐採中の木にぶつかって、死者が出ていた。木の破片が体にあたって大けがをすることもあった。

 木にはまずロープをかけて、倒れる方向を決め、息を合わせて鋸を引く。徐々に倒れる気配を見せ始めると、紐によって倒れる先を誘導する。だが、一度倒れ始めると、誰にも止めることはできない。紐で引いた方向に行くとは限らなかった。

作業大隊には、かつて内地で伐採業に従事していた者がいた。その男の差配によって、作業は進んでいた。ただ、男からすると、ここでの作業ははなはだ効率が良いものではなく、鋸の引き具合や引く人間の配置も不十分であった。


 Aにもなんとなくその理由が察せられた。この国の官僚的性質が、員数や数量の充足についてのみ注がれ、ノルマの達成にために本来の効率を犠牲にしているように感じられた。眼前の作業も、はたからは順調に見えていたが、枝ぶりや鋸の音から、何か違和感を覚えていた。その理由は、まさに巨木が倒れる時に明らかになった。おそらく木の内部にいくらか空洞が生じていたのだろう。伐採時の傾斜によって生じた重量の圧力に、木が耐えきれず、乾いた音が響くと、誘導されるべき方向と全く逆に倒れていった。その方向に数名が立っていた。

 木は一人の男を直撃した。瞬時に頭蓋が砕かれ、衝撃で数間ほど飛んだ。飛んだ先の雪がみるみる赤く染まった。木は地面にたたきつけられた轟音を響かせ、

近くの石にぶつかって止まった。

 死んだ男は、昨日Aを殴っていた男だった。

 男は、収容所内の小さな権力によって作業指揮の立場を手に入れ、そのときも伐採そのものに従事せずに、他の収容者の作業を監督する立場であった。

監視の兵士が直ちにやってきたが、死んだ男の様子を一瞥すると、男を袋に入れるよう指示した。作業から離れた数名が男を収容し、馬車に乗せた。

冬場は地面にスコップが立たないため、夏のうちに埋葬用の穴が用意されていた。男もそこに葬られる。作業大隊の誰もが、無言だった。自分たちが、男と同じように死ぬかもしれない。

「理不尽だな」

とAは思いながらも、先ほどの木の高さや角度から、死んだ男の方向に木が倒れる確率を考えていた。望んでいたわけではなく、可能性の範囲であったが、十分あり得ることだなとも思った。男の取り巻きたちは、その内部でまた権力の調整を行うはずであった。そこに新たな暴力の機会が生じる可能性があった。Aはまだ油断できなかった。

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