月の法律

@takerou73

第1話

 ホテルのドアをたたく音がした。最初は小さく、やがてしっかりとした音に変わった。教授は、音のする方をじっと見た。


 時刻は午後9時。ガイドから現地の治安について、真剣な注意を受けたことを思い出した。一度、音は止み、しばらく途絶えたが、再び確かな大きさで聞こえてきた。足音を消してドアに近寄り、擦り傷だらけのレンズ越しに扉の外を見る。二人の初老の男女が、こちらを縋りつくような瞳で見つめていた。

 応じる必要は全くなかった。彼らの後ろに隠れた大男が現れる可能性も考えられる。教授はもう一度二人のうちの男の方を見た。レンズは傷が多く、鮮明には見えなかったが、男性は、アジア系のようだった。当地にはたくさんのアジア系住民が生活しているため、珍しくはない。女性は金髪で、ロシア系のようである。やがて、男が思い出したように、ポケットから小さな旗を出し、レンズに向かって振りはじめた。教授にとって一番見慣れた旗であった。教授は考え込む。ひょっとすると、彼は当地に取り残された同胞ではないだろうか。かつてこの土地の周囲にも収容所がいくつかあった。抑留期間が終了しても、個人の事情で祖国に帰らなかった人も多かったと聞く。彼もその一人ではないか。意を決し、教授はドアを開けた。

 部屋に入ってきた男は、ひどく年老いて見えた。頭は禿げ上がっており、残った髪も白く細く、耳元で捩れていた。色褪せた防寒具は、袖が擦り切れて綿が出ており、左手には、先ほどよりずっと握りしめていたであろうこげ茶色の毛糸の帽子がくしゃくしゃになっていた。

 鼠のように小さい目に、低く広がった鼻。腰はあまり曲がっていなかったが、背丈は170センチある教授の胸ぐらいの高さであった。

部屋に入れたことに対して、男は非常に驚き、恐縮していた。表情は喜びに変わり、「スパシーバ、スパシーバ」と息せくように言った。

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