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 婦人科にまで赴いたのだから、そのことも知られていて当然。紗良さんの反応はなかった。誠司さんは、目を開いたらその瞳の奥から真相をえぐり出されてしまうおそろしさに震えて、まぶたを閉じたまま歯を食いしばっている。こうなってくると、もう父親よりも母親の方が強い。

 それでも、紗良さんの乾燥した唇も震えていた。言葉を発するために動く舌が、歯が、吐息さえも振動して。


「そうです」


 その強さもすべては、わが子のためにあった。わが子亡き今、紗良さんが自らを覆っていた強さは虚像の母の強さだった? そんなことはない。だって、二人は本気でこの子を思っていた。与識先生が、二人と同じ、人の親目線で教えてくれたのだ。

この人たちは、本気で子どもを思っているって。


「この子は、あのロッカーから拾ってきた子どもなんですね」


 香山総合病院婦人科病棟には、扉が三つある。一般入り口と緊急外来、そして事情があって育てられない赤ちゃんを病院に置いていくためのロッカー。その扉は外側から開いて赤ちゃんを預けて、病院側の職員が赤ちゃんを引き取るために内側の扉を開いて預かる。まれに、後ろ髪を引かれた母親が預けた赤ちゃんを取り戻しにやってくることもある。


「そのとき止めることもあれば、病院側でも忙しくて、止めきれないことがありました」


 赤ちゃんがポストに入れられた。その話が秘書や専属の看護師に届かないうちに、母親が取り戻してしまった場合は、手間を惜しんだ事務員や職員が通達しないこともあった。果たして親子関係がそれでよかったと言えるのならばいいけれど、後にどうして助けてくれなかったのかと嘆かれたケースの方がつらい。看護師の常駐、不可能なら秘書が駆けつける。徹底していたつもりではあった。

 今回も、漏れてしまった一例だ。


「引き取った母親が、捨てた母親と別だったようですけど」


 捨てる神あれば拾う神あり。心人さんのつぶやきに、そんな奇特な神も多くはいないと私は返した。だってあそこは、どうしても自分の遺伝子を残したい人たちが多くやってくる病院だから、他人の子どもに目をくれる人なんてそうそういない。他人の子どもを養子として育てるのは、不妊治療がどうしても報われなくて、それでもいいから親になりたいと強く願った人たちだけ。


「すごく静かだったんです。お腹から、あの子が出て行った感覚があったのに……産声がなくて、本当に、静かで……おかしいって、いくら初めての出産でも思いました。そうしたら、先生と看護師さんたちが慌ててあの子を抱いて出て行ったら、あとはもう、会わせてもらえなくて……」

「子どもを返してもらえなかった?」


 与識先生は目を丸くして驚いた。いくら死んでしまったとはいえ、子どもを親元に還さないなんてケースは、先生も、その病院にかつて勤めていた私だって知らない。


「病院は、なんて?」

「感染症対策とか……お腹の中で、臍帯が首に巻きついて、窒息していたとかで……わたしのお腹の中でもう、死んでいたから……もう、もう、腐敗が始まっていたから、はやく引き離さないといけなかったって言われて……」


 よくある話ではあった。母胎内でへその緒が赤ん坊の首に絡まってしまう。誰のせいでもなく、本当に、ただ運が悪かったとしか言いようがない出来事だ。それでも母親の多くは自らに責任を追及し、悲しみ、自分の中で生まれ育ち、命を絶たせてしまった子どもに、申し訳ないと何度も何度も自分を苦しめる。

 紗良さんは目元からあふれる涙を袖で拭い始めた。体を揺らすほど、しゃくりあげる。それで、少しでも悲しみを体内から追い出して、楽になってもらえたらいい。


「ちゃんと、お葬式でもしてあげられたら、ちゃんと、わたし、区切りつけられたのかもしれない……でもお骨も何もなくて、わたし、まだどこかで、わたしたちの子が生きてるんじゃないかとか、どこかにいるんじゃないかって思って……退院してから、何回か病院に行っていて」


 その矢先、不意に二人の前を歩いていた女性がいた。腕にはタオルを抱いていた。


「ただの、本当にただのタオルだった。見る人によっては、看護師がタオルを持って移動しているだけで……でもわたしには違って見えたんです」


 そのタオルには子どもが包まれていて、その子どもはわたしたちが失った大事な子どもに違いない……そう思いこんでしまった。望んだ子どもを失い、その姿かたちさえ手元に何一つ残せなかった身の上では。


「バカみたいでしょう」


 ほら笑ってよ、なんて、そんなふうに苦笑いを伝染させないで。バカみたいだなんて、少しも思わない。腕を切断した患者は、その事実を知ってもなお腕がある錯覚に見舞われるという。それなら、十ヶ月も同じ体で過ごした子どもが、今もまだ生きているかもしれないなんて幻想に踊らされるのは、笑い話なんかじゃない。

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