12
「すぐに追いかけて、わたし、病棟の裏側へ行ったんです。でもその人の姿は見えなくなっていて、たぶんロッカーの隣の扉から中に入っていったんだろうって……そのとき、赤ちゃんの泣き声が聞こえて、わたし、胸が、痛くて」
「この子が入っていたんですか」
「わたしが産んだ子じゃなかったし、体がこんなことになっていたけれど……わたし、この子を育てるって決めたんです。わたしが産んだ子じゃないけれど、でもこの子はわたしの子どもにするって決めたんです。この子が、自分は幸せだって言えるような子にしようって、この子に幸せになるための材料をあげようってわたし思って」
「勝手に連れ出したんですか」
私の言葉に、紗良さんの熱情は一気に引いていった。自分のしたことが何か、改めて思い知ったのだろう。
「けれど、この子は連れてこなかったら死んでいたでしょう」援護射撃のように、誠司さんが紗良さんの肩を抱いた。「病院側で適切な処置が、何かできたってでも言うんですか」
「それについてはオレも同意してやろう。この子どもはあんたたち夫婦が引き取らなければ確実に死んでいた」
まさか身内から裏切られるとは思わなかった。
横目で見たつがるはまた文章をつづっている。
「話を聞け、嬢。この子どもは母親に抱かれていると呪いが軽減し、他人が抱くと悪化する。その理由もこれで解決する」
「どういう理屈で?」
「母親の愛情がこの子どもの呪いの進行を止めたんだ」
つがるのその文字列が、紗良さんの表情を温和な母親へと戻していく。
「まずこの赤ん坊を見ろ。言っちゃ悪いが、呪いの痣は気持ちが悪い。それでもこの母親は子どもを抱く手に迷いなんかない。母親じゃなけりゃそんなのできない。病院に引き取られていたら、腫れ物扱いされて誰からも愛情なんて受け取れずに、そのまま命は散っていたに違いないんだ」
「見逃せっていうの」
「じゃあお前はこの赤ん坊が実の母親に捨てられて、病院でも誰一人愛情をわけてくれることなく無駄な治療をされながら、ひっそりと死んでいった方がよかったとでも言うのか」
そこまでは言っていないけれど、ニュアンスとしてはそうなるのか。つがるの文字が端正でありながら、一文字一文字の書き終わりが少し乱雑な部分を見ると、この男も憤っているのが読みとれた。
「愛理、お前の言い分も分かる」
敵対する形になっていた私と、つがると園田夫妻の因縁を、与識先生はたった一言で表してくれた。
「お前はこの二人に、自分たちの死んだ子どもとこの子どもを同一視しているんじゃないかって考えているんだろう」
香山総合病院で聞いてきた。夫妻が亡くしたのは男の子で、その子の名前も永真くんと言っていた。
死産の場合、出生届と死亡届を同時に処理しなければならない。死んだ子どもに名前をつけるという苦行を二人は味わった。そのことがどんなにつらいか、私には理解できない。でも、その死んだ子どもの代わりにこの子を育てていくというのは、なんていうか、どうしても腑に落ちなかった。
「この子は、二人が亡くした永真くんの生まれ変わりでもなんでもないんですよ。代理でもないんです。クローンでもないし、一卵性双生児でもないんです。別な赤ちゃんなんですよ。それなのに、死んだ子どもが生き返ったみたいに言っちゃったら、二人の死んだお子さんは、すごく悲しんでいるんじゃないんですか」
死んでしまった永真くんにとっての両親は、二人だけなのに。
ぼくのことを忘れてしまうの。新しい赤ちゃんが来てくれたら、ぼくのことはもう忘れてしまうの?
他人の勝手な妄想。でも、私はそれだけがどうしても気がかりで。
「そんなのもわたし、気づけなくて」
――バカみたいでしょう。
気が済むまで泣いた紗良さんは目が干からびるくらい袖で涙を拭ってから、改めて、自分たちの子どもを助けてくださいと、与識先生とつがる、珠貴さんと円花さん、それから私に向かって頭を下げてくれた。
「名前を、二人でまた考えて……警察に相談して、いろいろあると思いますけど、わたしたちちゃんとした親子になりますから、どうか、この子を助けてください」
誰とも知れぬ、呪われた子どもだけれど、わたしたちの子には違いないから。
紗良さんを受け入れた与識先生がつがるに頼み、赤ちゃんの呪詛返しをしてもらった。幼子の全身に現れていた気色悪い痣は見る見るうちに消え去って、呼吸も正常に変わっていく。そのうち目をぱっちりと開いて、紗良さんを見て笑ってみせてくれたらもう、ああ、大丈夫だ。
一番星が窓の向こうでまたたく時刻、紗良さんは赤ちゃんを抱いて、今一度親になれた喜びに身を浸していた。
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