第2話 届かない声と、始まりの誘い

 あれから数日が経ち、土曜の午後。
予告された時間ぴったりに、アパートの呼び鈴が鳴った。玄関のモニター越しに映ったのは、すらりとしたスーツ姿の女性だった。漆黒のショートヘアに、冷静で理知的な印象を与える目元。だがその眼差しは、どこか真っ直ぐで柔らかさを含んでいた。


「一ノ瀬響夜さんで、お間違いありませんか?」


「……はい。どうぞ」


 靴を脱ぎ、静かに室内へ上がる彼女の所作は丁寧で、隙がない。だが、押し付けがましさや営業のような圧は一切なかった。


 名刺を差し出しながら、彼女は名乗った。


「改めまして。VtuberプロダクションRe:Aria所属、スカウトマネージャーの加々美 凪月(かがみ なづき)と申します。先日は突然のご連絡、失礼いたしました」


「……あの、本当に、俺の応募を……?」


「ええ。“深海ノイズ”、あのカバーを聴いた時から、私の中では決まっていました」


 凪月は迷いのない声でそう言った。


「あなたの声には、言葉では表現できない“余白”があります。技巧で聴かせるのではなく、心の空白に染み込んでくるような……そういう声は、そう多くはありません」


 響夜は返す言葉が見つからなかった。自分の歌が、そんなふうに誰かの心に残っていたことに、戸惑いと驚き、そしてわずかな誇らしさが混ざっていた。


「ご住所については、ご自身で入力されていましたので……ご訪問、ご了承いただけたかと」


「……あ、はい。完全に忘れてて……変な人だと思ったらすみません」


「いえ。むしろ、“忘れるくらい自然に声を届けていた”ということですから。私にとっては、その方が魅力的です」


 柔らかな微笑を浮かべながら、凪月は黒い封筒をテーブルに置いた。そこにはRe:Ariaの入所案内、所属予定ユニット「Link Zero」に関する資料、そして初期支給予定の機材リストが入っていた。


「Link Zeroは、今年度の“選抜新人プロジェクト”です。5人の新人Vtuberが、それぞれの個性と才能を持ち寄って、チームとしても、ソロとしても輝くことを目指します」


 響夜は封筒の角に指をかけながら、思わず問う。


「……なんで俺なんですか。もっと、他にすごい人、いると思うんですけど」


 凪月は一拍置いて、まっすぐに彼を見た。


「確かに、技術も人気も備えた方々はたくさんいます。でも私たちが求めているのは、“届く声”です」


 届く声——。


 それは、これまで響夜がずっと信じられなかったものだった。自分の声が本当に誰かに届いていたのか、確証が持てずに、何年も録音と投稿を繰り返していた。けれど今、この部屋に立っている目の前の人間が、それを確かに証明してくれている。


「もちろん、すぐに決めろとは言いません。ただ、これだけは覚えておいてください」


 凪月は立ち上がり、最後にもう一度、彼の目を見つめて言った。


「あなたの声が“自分のため”だけにあると思っているなら、それは違います。——すでに、誰かの救いになっている声です」


 その言葉を残し、彼女は玄関のドアを静かに閉じた。


 残された響夜は、部屋の中心に座り込み、封筒を握ったままじっとしていた。頭の中では、凪月の言葉が何度もリフレインしていた。



「届く声」「救い」「Link Zero」

——どれも、これまでの彼の人生には縁のなかった単語だった。


 けれど、それでも今——
 胸の奥が、微かに音を立てて震えている。


「……俺の声が、誰かを救った?」


 初めて、そう思えた瞬間だった。

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