この声が届く日まで

早乙女 ゆうき

第1楽章 「始まりの音、揺れる心」

序章 「静寂の幕開け」

第1話 静寂の中、始まる声の物語

 雨音が、途切れなく窓を叩いていた。


 まるでこの町全体を覆い隠すように、しとしとと冷たい音が夜を満たしていた。


蒼森(あおもり)という地方都市の片隅。築二十年を越える木造アパートの一室に、一ノ瀬響夜(いちのせきょうや)は独り、膝を抱えて座っていた。


 部屋の照明は落とし、モニターの光だけが青白く彼の横顔を照らしている。デスクには中古のマイク、安価なオーディオインターフェース、そしてサブスクリプション契約したDAWソフト。録音はさっき終わったばかりだ。


「やっぱ、今日の声、響かないな……」


 つぶやいたその声も、マイクには拾わせなかった。自分の声を聞くのは好きじゃない。けれど、それを他人として聴いてくれる誰かがいるとしたら。


——そのときだけは、ほんの少し、安心できた。


 彼が使っているネット上の名前は「響夜(きょうや)」とだけ。姿を明かさず、素性を伏せて、ただ歌を投稿していた。特別な拡散力もなければ、派手な演出もない。けれど彼の歌には、ときおり“届く”コメントがついた。


《この曲、夜中に聴いて泣いた》


《声に温度があるって初めて思った》


《毎日聴いてます。ありがとう》


 その言葉に何度救われたか分からない。けれど同時に——彼の心の奥には、いつもこんな思いも渦巻いていた。


“この声は本当に、誰かのものになっているんだろうか”


 彼にとって“歌うこと”は、自己表現でも自信でもなく、ただの「呼吸」だった。誰にも話せない感情、口にすれば崩れてしまいそうな想いを、音に変えて流すための唯一の手段。


 それが、変わるはずがないと思っていた。


 ——その日までは。


 午後2時。久しぶりに雨の上がった静かな昼下がり。響夜のもとに、一通のメールが届いた。


[【Re:Aria スカウト担当より】はじめまして。Vtuberプロダクション「Re:Aria」スカウトチームの加々美と申します。このたび、貴殿が数ヶ月前にご提出された“新人エントリーフォーム”を拝見し、ご連絡差し上げました。添付いただいた音源、特に『深海ノイズ』のカバーに深い感銘を受けました。一度、お話させていただけないでしょうか。]


 数秒、思考が止まった。


「……え、なにこれ」


 数ヶ月前の深夜、衝動的に書き込んだ応募フォームが、画面の奥から静かに自分を呼び戻してきた。あの夜は、自分の存在が誰かに見えるのか、確かめたかっただけだった。返信も来ないだろうと、記憶の底に放り投げていた。


 それが、まさか——本当に誰かに届いていたとは。


 もう一度メールを見直し、添付されたURLを開くと、そこには「Re:Aria」の公式ホームページと、スカウト担当者の名刺画像。そして文末には、こう添えられていた。


[なお、先日ご入力いただいたご住所をもとに、書面にて資料をお届けに伺いたく思います。ご在宅の時間帯をお知らせいただければ幸いです。]


「……マジかよ」


 喉の奥が乾いていた。誰かに“見られていた”という事実に、背中がすうっと冷たくなる。けれどその一方で、胸の奥のどこかが、少しだけ熱くなっていた。誰かが、自分を選んでくれた。匿名のままで終わるはずだった声が、どこかの誰かに聴かれた。


「バカだな、俺……ほんとに送ってたんだ……」


 メモ帳の端に残っていた手書きの走り書きが、それを物語っていた。


『Re:Aria 応募済み アドレス/仮名/音源提出済み』


 投げやりな希望だった。けれど、その希望は静かに届いていたのだ。

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