契約
「それは自分のアイデンティティを再構築するためだよ。
「アイデンティティの再構築?」
「先程、自分自身が取り戻せず、ボクの精神が限界だという話をしただろう。これは、自分のアイデンティティがまだしっかり構築できてなくて、自分が男なのか女なのか、自分が一体何者なのか。それに一応の決着すらつけていないからこうなってしまっているんだ。そして、アイデンティティを再構築するには、嘗ての自分に倣うのが良い。
「だからボクは、再び探偵に戻る。そして今回の事件を解決し、ボクを探偵として再誕させるんだ」
彼女はこちらに向き直り、その決意を込めた黒玉のような瞳をこちらに向きながら言った。
「そうして再誕させて取り戻した探偵を基準に、新たなボクのアイデンティティを作りあげる。そう――探偵芽生いちしという存在を。」
「これで僕は、自分のアイデンティティは探芽生いちしとして一応の決着はつくはずだ。」
「だから君には、このボクのアイデンティティを取り戻すために、探偵芽生いちしになるために協力して欲しい。」
彼女は、混迷し当惑してしまっている自分を安定させるために、再び探偵に戻ろうとしているのだ。そして、それに俺の助力を求めている。無論、助けるつもりである。
だけどーそれには俺だって条件がある。彼女に力を貸す条件が。後出しではあるけど事情あの時とは事情がちがう。こうなるのも仕方ないのだ。それに、いくつか聴きたいこともあるし。
「所でいくつか質問というか思った事があるんですけどいいですか?」
俺は、彼女の信じがたいが、恐らく真実であろう話に折り合いをつける為に、新たに浮かび上がった疑問をいくつか彼女に質問する事にした。
「答えられる事なら答えるよ。」
彼女は言った。
「では、お言葉に甘えて1つ目、いちしさんは女なんですか?それとも男なんですか?これははっきりさせとかないといけないなって。」
これはかなりデリケートな話ではある。しかし、彼女?いや彼?とのこれからの対応を考えるにあたり絶対に避けられない問題である。だから聞かざるを得ないのだ。
「戸籍上は女だし、生物学的にも女だよ。でも一応、自認的にはまだ男かな。だけど、こんな体だから女として生きていかないとそうも言ってられないだろう。まあ、女の体がついた男。とでも思ってくればいいさ」
彼女は、自分の女らしい体つきを――特にその非常に豊満な胸を――誇示しながら言った。
「男として見られたいとは思わないんですか?」
「思わないね。元々自分の性別にあまりこだわりがあるタイプでは無かったんだ。変装とか仕事柄良くやってた」
本人は男のつもりだけど、女として生きていく事は折り合いはつけていると言う事か。
「次に二つ目、いちしさんは本当に元の姿に戻れないんですか? 仮に今すぐに戻れたら戻るつもりはあるんですか?」
「元に戻れるか否かについては今の所は戻れないになるね。理由は先程の話した通り。研究が凍結されたからね。研究が進んだりすれば分からないけれども。そして今すぐ戻れるなら戻るかと聞かれたら戻らないと答えるかな。こんな男だか女だか探偵だかなんだか分からない状態で元に戻ったとしても、戻れるのは見た目だけだし。記憶も帰っては来ないしね」
確かに彼女は女になった時の影響で自分を喪ってしまっている。こんな状況で見た目だけ戻してもとても元に戻ったとは言えないだろう。なら、一旦探偵としてだけを取り戻すという考えは理にはかなっている。これに性別は関係無い。
「次に3つめ、アオ探偵に家族とかそういった大事な人はいらっしゃないんですか?」
「先程の話した通り、ボクに兄弟姉妹の類いない。母はボクを産んだ後、ボクを父に押し付けて失踪。ボクは父の手で育てられた。その父も5年前に病死した。そして、その他近しい親類もいない。友人もいない訳では無いけれども、そこまで親しい訳ではなかった。だから、竜王蒼が居なくなった所で、心配をかける人はいない。こうして考えると少しさみしいけれどもね」
しまったな。単純に身辺が気になって聞いたが、アオ探偵の身辺は俺の思ったよりも遥かに重かったようだ。
この質問はさっさと切り上げよう。
「では、これで最後の質問です。あなたは事件に探偵として関わると言っていました。それで、被害者の無念を晴らす等のそういった被害者の事を考えているのですか?」
それを聞き、彼女一瞬狼狽える。
「それは、中々厳しい質問だね。」
そして呟くように答える。
「無いとは言わないが、あると言えば嘘になる」
「何故ですか?」
「そう、ボクは被害者の無念を晴らすというの前に、一つ影が入る。私情がね。ボクは、君の思うほどの善人では無い。ということさ。失望したかい?」
思うほどの善人では無い。か。
俺もさして変わらないんだよな。多分。
「いえ、良かったです」
「良かった?」
「あなたが思うほど善人だと、俺は協力しきれないと思いますから」
俺は答えた。
「それなら、ボクの正体を知った君はボクに改めて協力してくれるというの認識でいいのかい?」
彼女は、その黒玉のような目で真っ直ぐ見つめながら確認を促した。
「それなら。後出しで悪いのですけれど。」
「俺があなたに協力するのに3つの条件を提示させて下さい。それが守れるなら俺はあなたの助けになります。」
「3つの条件?それはなんだい?今のボクでも受けられるものなのかい?まあ言ってみたまえ。」
「1つ。俺が協力するのはあくまでも俺ができる範囲で、です。俺自身、これ以上できない。と判断したら、それ以上は手伝いません。」
俺にも手助けすると言っても流石に限界がある。
家族や友達を犠牲にしろなど言われたら流石にできない。
「わかっているよ。君にも君の都合がある。と言う事だよね。君は協力できる事までのことしかしない。それは当然に事さ。」
「2つ。俺はあなたの思うような人間ではない、あなたのいう善人では無い可能性を頭の片隅に入れて置いて下さい。」
俺もさっきああは言ったものの、別に被害者の無念を晴らすだとかいったそういう高尚な事を考えて事件に関わったわけではない。だから、彼女とさほど変わらない。
「君もボクと同じような人間だと言いたいのかい?それならむしろ歓迎さ。むしろそっちの方が色々とやりやすい」
「3つ。俺はあなたの事情はわかりました。だけど、俺はあなたを基本女として扱います。男の時のあなたを知らない以上どうしても男扱いの対応は無理がありますから」
上2つの条件を彼女はすんなり呑んだ。だが最後の条件を聞いた所で、彼女は黙った。
本当は、本人の自認に合わせた方が良いのかもしれない。だけれども、男の時のいちしさんの事を全く知らない。それで男扱いで対応しようとした所で間違いなく無理が出る。俺といちしさんの両方に。だから、恐らくはこれが最善だろう。
彼女黙って考えてる間、俺はそう思っていた。
「仕方ない。君がそうすると言うならそれでいいよ。元々ボクの方が無理言っているしね。君はボクを基本女扱いして構わない。事情を知ってくれたなら本当は男扱いしてほしかったのだけれどもね」
彼女はそう言って不満ながら同意した。
「わかりました。貴方を探偵として再誕させるために協力します。俺のできる事でなら」
俺は、それを聞いて、自分の覚悟を示すように頷いて同意した。そして続ける。
「それで俺はどのように協力すればいいんです?」
彼女はそれを聞き、少し考えて、そして答えた。
「そうだね。今までとおなじように君は探偵の『助手』としてボクに協力して欲しい。お願いできるかな?」
「はい。喜んで。俺は探偵である貴方の『助手』として協力します。よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしく。今思ったけど君には、お願いしてばかりだ」
彼女はばつの悪そうな感じで申し訳なさそうに答えた。
「気にしなくて良いですよ。苦しんでいる人は見捨てては置けない。それが助けられる人ならば。情は人のためならずです」
「そうか……ならボクは君の情に喜んで甘えるとしようか。」
いちしさんと俺は、そう言ってお互いの決意を確認し合った。
「ああ、そうそう君はボクの事を女だと見る。そういったね。」
彼女は、そういいながら俺にその黒玉のような目で見つめ、独特な威圧感を放ちながら近寄って来た。
「そうですけどそれが何か?」
彼女の威圧感に負けて俺は、後退りする。
そうやって俺を壁に追い詰めた事を確認してから彼女は続けた。
「なら。」
突然耳元で轟音が鳴り響いた。
何が起こったのか?驚いた俺は音の方を目で追った。
信じられない事に、彼女の右手が壁にめり込んで、壁の下地の木が見えていた。
おそらく、壁ドンの要領で彼女が右手を壁に叩きつけたのだろう。
俺が状況を理解したのを見てから彼女は見せつけるように手を引いた。
壁に彼女の手のひら型の跡が残っていた。
どうやら木の壁であったらしいのだが…。
「襲い掛かるだとかいった変な気は起こさない方がいいよ。ボクには今見せたような人並み外れた力を持っている。信頼する君にこの力を振るいたくはないからね」といい最後に「まあ常夜君はそういう性格じゃないからす必要は無かっただろうけどね」にっこりと笑いながら言った。
「善処します……」
彼女の警告に、俺はヘナヘナとその場に座りながら答えた。
俺は男だ。だけど、そこまでの力は、男でも出せない。
そして、少し間をおいて落ち着いてから聞いた。
「前からそんな力だったんですか?」
「いいや、違うね。この姿になってからだね」
「多分、薬の影響なんだと想う。力だけではなく。視力とか聴力とかの感覚器官も人並外れて優れているんだ。」
「人並み外れてるってどれぐらいなんですか?」
「人間の限界は超えてない。具体的に力はプロレスラー位だと思う。視力は、2.0を容易に超えている。」
「不便は無かったんですか?」
「勿論、不便だった」
「不便だった?」
「この体になりたての頃は、死にかけた事や薬の後遺症かの影響で全く動かず、制御できずに大変だった。他にも、毒に対する抵抗力も上がっているのか薬のききも悪く、治療も難しかった。けど、さっきも言った通り、もう慣れて制御できる。少なくとも、力に関しては、自分の意思で自由自在に調節できるよ。薬の効きは相変わらずだけど。」
そういえば
彼女のんだという薬は、人体改造薬といっていたっけ?
もしかしたら、体の能力が上がる方がメインで、性別が変わる方がサブ、あるいはたまたまなのかもしれない。
「貴方にできないことはあるんですか?身体的な方で」
「人間にできる事なら、多分ほぼ全ての事ができると思う。逆に、ボクができないことは人では普通できないと思うよ。ただしスタミナ以外なら」
「スタミナ以外?」
「体のバランスが悪いせいか、薬の後遺症かはわからいけれども、ボクはスタミナがなくてすぐにバテてしまうんだ。少し激しい運動をすすると、すぐにいきがあがってしまうのだよ」
確かに、胸にあんなに大きい重りを2個もつけていたら、重心がおかしくなって、バランスが悪くなるのもとうぜんだ。
彼女の体を見ながらそう思った。
その視線に、彼女は気がついたのか彼女は俺にものいいたげな目を向けた。
それをごまかすために、おれは質問をする。
「その体になった後、後天的に何処かいじったんですか?」
「いいや。この姿になったときから何いじってないね。精々髪切ったとかそんなものだよ。それは勿論君がさっきからジロジロ見ているこの胸もね」
あきらかに墓穴を掘った。
バツが悪くなったおれは、彼女から目をそらした。
「ボクの中身は三十路のおっさんであること忘れないでくれたまえよ」
動揺が走る。
たしかにそうである。
相手は竜王蒼という中身が三十路のおっさんなのだ。記憶は喪っているけど。
なんとも言えない悲しさが出てきた。
「さて」
「ボクの事ある程度わかってくれたみたいだからそろそろ事件の続きろうか」
「続きってなんの続きです?」
「何を言っているだ?きみは。事件の操作に決まっているだろう。君はボクの助手なのにそんな事も分からないのかい?」
彼女はそういいながら俺に手を差し出した。
ああ、そうだ。おれはこれから彼女の助手なのだ。
「そうでしたね。じゃあ行きましょうか」
俺は彼女の手を掴んで立ち上がった。
それを確認した彼女のは、部屋の鍵をあけて外へ飛び出し捜査へ向かった。探偵として、事件を解決するために。
俺も続いて部屋から飛び出して捜査へ向かった。
彼女の助手として、彼女の力になるたに。
いちしさんが壁につけた手跡をどうしたものかと考えながら。とか
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