第9話 変わることの、そばにいる
昼休み。冬の光が斜めに差し込んで、窓際の机に淡い影を落としている。
音瀬しずくは、頬杖をつきながら、教室のざわめきをぼんやりと聞いていた。
マリナの明るい声が、ひときわ耳に届く。
「えー、あかりちゃん、数学ガチすぎん? まじ推せるんやけど」
あかりは、ノートを見つめたまま、小さく口を開いた。
「……うん。やるって決めたから」
その言葉に、しずくはふと手を止めた。
その声は、小さくて、でもしっかりしていた。
まっすぐノートに向かう姿勢。
万年筆の持ち方は丁寧で、手元に迷いがない。
肩にかかる髪が、揺れずに落ち着いている。
あのときの、うつむいていた姿とは違った。
何かを飲み込もうとしていた、あの目とも。
──変わった、と思った。
紙を走るペン先の音が、ざわめきのなかで、静かに響いている。
その音が、しずくには、少しだけ遠くの波の音みたいに聞こえた。
「あかりちゃん、ノートきれいすぎじゃない?エモすぎん?」
マリナが言うと、あかりは小さく笑った。
その笑い方も、少しだけ変わっていた。
前より、言葉に力がある。
でも、それは無理に大きくなったとかじゃなくて。
自分で選んだ道を、自分の声で言えるようになった感じ。
それが、しずくには、ちょっとだけまぶしく思えた。
「てかさ、あかりちゃんが勉強がんばっとるの、うち、ずっと見てたし。
応援したくなるんよな〜。まじで。」
マリナがふっと笑って言ったその言葉に、あかりが目を丸くする。
少し間をおいて、ゆっくりと口を開いた。
「……マリナちゃんが、声かけてくれたからだと思う」
ふいに、あかりがぽつりと言った。
「最初の頃、わたし、すごく緊張してて。何話していいか分からなくて。でも……マリナちゃん、いつも明るくて、優しくて。だから……」
そこまで言って、あかりは少し恥ずかしそうに目をそらす。
でも、その頬には、ちゃんと色がさしていた。
「……ありがとう」
マリナは、ぽかんとしたあと、耳まで赤くなって、あわてて笑った。
「え〜なになに、急に! そんなん言われたら照れるやん〜……でも、うちも、あかりちゃんおってくれて、ほんま助かってるし」
しずくは、そのやりとりを横目に、ふわっと息を吐いた。
(……うちも、誰かに、そうやって支えになっとったこと、あったんやろか)
窓の外に目をやると、冬の陽射しが斜めに差していて、遠くの海がきらりと光っていた。乾いた空気のなかで、風が静かに吹いている。
そういう空気の中で、マリナの声が自然に届いてきた。
「しずくー、今日さ、帰りどっか寄らん?」
「んー……どうしよかな。気分次第」
「まじマイペース〜。ま、それがしずくやけど」
マリナは身を乗り出して、目をキラキラさせながら笑った。
そのとき、ふとマリナがあかりの手元をのぞきこむ。
「それってさ……万年筆? え、かわいすぎん?」
「あ……うん。おじいちゃんにもらったやつ」
あかりちゃんは、少し照れたように答える。
「“好きな道、ちゃんと選べる子になれ”って……言ってくれてて」
「え〜〜なにそれ、めっちゃ素敵やん……そういうの、キュンとくるわ〜」
そのやりとりを、教卓のあたりでなんとなく聞いていた鶴見先生が、ふっと笑ってつぶやいた。
「……自分の道を選べる子ってのはな、簡単そうで、いちばんむずかしいんよ」
「でも、そういう子がちゃんと育つ学校であってほしいって、ぼくは思っとる」
教室のざわめきにまぎれて、誰が返すでもなかったけど──
あかりは、その声を、ちゃんと聞いていた。
マリナは、ころころと話題を変える。
「そういやさ、あかりちゃん、最近なんか観とるアニメあるん?」
あかりは、少しだけ考えてから小さく答えた。
「……うん、『白黒ランド』、ちょっとだけ……」
「えー意外! あかりちゃん、ああいうギャグ系いけるん!?」
目を輝かせるマリナに、あかりは照れたように笑う。
「……ギャグだけど、ちょっと考えさせられるっていうか」
「わかるわかる! あれさ、笑えるけど、ちょっと沁みるよな! 今期の覇権やと思うんやけど!」
マリナは机に突っ伏しそうな勢いで共感を示す。
しずくも、ぼつりと会話に入る。
「白黒ランド、うちも全巻持ってるで。あれ、まじで名作」
「えー、しずくもー」
そんな他愛もない会話をしてる放課後の時間、しずくは、なんだかとっても好きやな、と思った。
教室を出ようとしたとき、あかりが少しだけしずくの袖を引いた。
「……あの、ちょっとだけ」
しずくが振り返ると、あかりは目を伏せたまま、声を落とした。
「こないた……理佳さんにラインしたんだ。これからのこと……ちゃんと、自分で言ってみた」
それだけ言って、あかりは小さくうなずいた。
しずくは、そっと笑って返した。
「……そっか。ええやん」
何気ないやりとり。でも、その一言のなかに、確かに伝わるものがあった。
◇
放課後。
西日が差し込む廊下には、うっすらと赤みが射していて、誰もいない空気が冷たく透き通っていた。
昇降口の横、自販機の前で佐久間翔太とすれ違った。
「あ、音瀬さん。最近さ、またちょっと投稿しとるんよ」
翔太は、自販機から取り出したばかりの缶コーヒーを両手で包むように持ちながら言った。
「へー、リフノート?」
「うん。ベースもちょっとマシになってきたし。……この前、梓先輩にも、ちょっと褒められてな」
いつもより少し早口だった。話しながらも視線は缶のふちに落ちていて、でも、唇の端はわずかに上がっていた。
「ふーん。ええやん」
「……あの人、全然そういうの言わんかったのに。相変わらず厳しいけど。でも、ちゃんと見てくれとるって思った」
言ったあと、翔太は缶コーヒーを軽く振るようにして、肩の力を抜いた。
それから、ちょっとだけ照れたみたいな顔で、しずくの横をすり抜けていく。
(続けとるんやな、ちゃんと)
(それに、ちゃんと、誰かに届いとる)
ほんの少し前まで、下を向いていた背中。
今は、缶コーヒーを片手に、まっすぐ前を向いて歩いている。
しずくは、その背中を目で追いながら、静かに歩き出した。
◇
学校からの帰り道。
坂の途中、古い石段の脇にある、小さなお寺の庭が見えた。
夕暮れの光が、境内の瓦屋根を静かに照らしている。
その下で、ひとりの人影が、三脚に据えたカメラの前にしゃがみ込んでいた。
──ユウくん?
レンズの向こうにあるのは、咲き残った山茶花の花。
その手前には、苔むした石灯籠。冷えた空気の中で、空と影がゆっくりと色を変えていく。
気配に気づいたのか、悠が振り返った。
目が合うと、少し驚いたように笑う。
「……音瀬さん」
「たまたま通っただけ。ここ、よく来るん?」
「うん。夕方の光が、きれいだから」
しずくは、石段の途中に腰を下ろした。
眼下には、ゆるやかな坂道と、その先に広がる静かな町並み。
家々の屋根が、茜色の光に淡く染まっている。
しばらく沈黙が続いたあと、しずくは口を開いた。
「ユウくんは、なんで……動画、撮るの好きになったん?」
風の音が、枝の葉をそっと揺らした。
悠は、しばらく黙っていたけど、やがてぽつりと語り始めた。
「……小さいころに父親を亡くしてさ。で、しばらくして母が再婚したんだけど……家の空気が、少しずつ変わっていった。新しいお父さんは優しい人なんだけど、俺のほうが、距離を置いてしまってたんだ」
「中学の途中で、母の実家があるって理由で、急にこっちに引っ越してきて……でも、どこにも馴染めなくてさ。家でも学校でも、ずっとよそ者みたいな感じだった」
「そんなとき、担任の先生が“君、こういうの好きかもね”って言って──一本の古いビデオを見せてくれたんだ」
悠は、手にしたカメラの液晶画面を見つめながら、静かに続けた。
「そこに映っていたのは、一人の女の子が、静かに歩いているだけの映像で。
セリフも、音楽もなかった。ただ、日常の音と、歩く足音と……そういうのが、淡々と続いてて」
「でも不思議と、寂しくなかったんだ。その映像からは、なんだか……優しさが伝わってきて。
見ているうちに、自分の孤独がすこしだけ、和らいでいくような気がした」
しずくは、頬にかかる髪を風で押さえながら、その言葉を静かに聞いていた。
「それで、思ったんだ。自分も──こんなふうに、誰かのそばにそっといられるような映像を、撮れる人になりたいって」
茜色の空が、少しずつ群青へと変わっていく。
町の影が長くのびて、瓦屋根の端が光に縁取られていた。
しずくは、空を見上げた。
そして、ぽつりとつぶやく。
「……なんか、ちょっとわかる気がした」
悠が、すこしだけこちらを見る。
しずくは、言葉を継いだ。
「うちも──似たようなこと、あったから」
風が吹いて、山茶花の花びらが一枚、石畳に落ちた。
その音はなかったけど、しずくにはちゃんと聞こえた気がした。
「その景色を、大事に思っとる人が、ここにもおるって……なんか、ええなって思っただけ」
悠は、目を伏せて、でもほんの少しだけ、照れたように笑った。
その横顔を、しずくは静かに見つめた。
沈んでいく夕日が、カメラのレンズに最後の光を映していた。
あの光も。
あの静けさも。
たしかに、ちゃんと残ってる。
しずくは、立ち上がって、軽く手を振った。
「……ばいばい、ユウくん。またな」
悠は、カメラをかかえたまま、ちょっとだけ手を振ってくれた。
坂の下には、夕暮れの街と、その向こうに広がる静かな海。
水面に、金色の残光がちらちらと揺れている。
しずくは、その光の中を、ゆっくりと歩き出した。
◇
日が暮れる少し前、しずくは自分の部屋に戻った。
カーテンを閉める前、窓の外にちらりと目をやる。
空はすっかり群青に染まりかけていて、向こうの山の輪郭が、静かに夜に沈んでいく。
遠くの町灯りが、小さく瞬いていた。
しずくは、そのままベッドの端に腰を下ろした。
机の上には、途中で置いたままのノートとペン。
その隣には、いつもどおり、アコースティックギター。
母の形見として残されたもの。
弦の一本一本に、しずくの毎日が少しずつ染み込んでいる。
帰ってきたときも、気づけばケースから出して、何気なく音を鳴らす。
今日も、指先が自然とそのネックに触れそうになるけれど──
今はただ、そばにあるだけでよかった。
スマホを手に取ったとき、画面がふるえた。
──るい:元気にしてる? またどっかで会えたらいいね。
少し、間があった。
名前を見たとき、胸の奥で何かが静かにゆれた。
たった一行。
でも、それはちゃんと、自分に向けられた言葉だった。
何かを求めるでも、確かめるでもなく。
ただ、「思い出してくれた」ことが、しずくにはうれしかった。
(……ちゃんと、残っとるんやな)
あの光も。
誰かがくれた静けさも。
そして、うちの中にある優しさも。
ふと、目線がギターの方へ落ちた。
弾いていなくても、そこにはたしかに、音の気配が宿っていた。
スマホを胸元にそっと抱える。
気持ちを言葉にしなくても、それでも──わかるときはある。
しずくは、小さく、笑った。
スマホのぬくもりだけが、胸の奥に残っていた。
──次回、最終話です。
世界は、静かに変わっていく。
そしてきっと、誰かがちゃんと見てくれている。
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