最終話 図書室で、また会おな
放課後の図書室。
遠山悠は、いつものように図書室の窓際にある席に腰を下ろし、次の発表会に向けた新しい絵コンテを仕上げていた。
坂の上にある校舎からは、乾いた風にかすむ港と、ゆるやかな斜面に並ぶ家々の屋根が見えていた。窓の外はすでに薄暗く、夕暮れの光が遠くの海を冷たく照らしている。
文化祭が終わって、しばらく経つ。
それなのに、あのとき流れていた空気が、まだどこか身体の奥に残っていた。
自分の作った映像が、あの日の空気ごと、どこかに残っていたら──そんなふうに思う。
(……届いてたのかもしれないな)
そう思ったとき──背後から、声がかかった。
「……あのさ」
静かな図書館の空気が、すっと揺れた気がした。
振り返ると、ギグバッグを背負った男子生徒が立っていた。
佐久間翔太。
同じ中学だったけど、話したことはなかった。
でも──文化祭ライブのとき、軽音部でベースを弾いているのは知っていた。
「文化祭の、映研の動画。──あれ、よかったで」
その言葉が、思ったより真っ直ぐに届いて、少し驚いた。
「……あ、ありがとう」
素直に言葉が返ってきたことも、
わざわざ図書館まで言いに来たことも、ちょっとだけ意外だった。
「音瀬さんから、『ユウくんなら、よう図書館におるで』って聞いて、ちょっと来てみたんよ。
なんか、音なかったのに、胸にきた。……ちょっと、ぐっときた」
翔太は、視線を逸らすように言った。
悠は、小さく笑って言った。
「……それ、すごく嬉しい。
“音がないのに伝わった”って、言われたの初めて」
「……そうなん?」
「“なんで音つけなかったの”って聞かれたことは何回かあるけど……
“それでもよかった”って言ってくれたの、君が初めて」
翔太は、その言葉に少しだけ眉を動かしたあと、ぽつりと口を開いた。
「……俺、ああいう映像に、音つけてみたいなって思ったんよ。
……なんかさ、あれはあれで、音なくてもめっちゃよかったんだけど、
でも、逆に、音つけたらどうなるんかなって──
ちゃんと考えて、やってみたくなったっつーか」
「……え、そうなんだ。」
悠は、ノートを閉じて、ゆっくりと立ち上がった。
「よかったら──映像のコピー、あるけど、いる?」
「え、くれるん?」
「うん。配信用に書き出してたデータがあるから。
……USBとかで渡せばいい?」
「……あ、ありがとう。」
翔太は、そう言って、少しだけ迷ったような顔で首をかしげたあと──
何かを思い出したように、口を開いた。
「……あ、Reafnote、使ったことある?」
悠は少し考えてから、小さく首を振った。
「音楽投稿のサイトだよね? アカウントだけは持ってるけど……」
「うん。あれって最近、映像もやりとりできるようになったんよ。
まだベータ版やけど、“とどけノート”っていう機能が増えてて──
音楽作る人と、映像作る人が、コラボできる仕組みになっとる」
「へえ……」
「俺も、まだ試したとこなんやけど。
あの映像……アップしてもらったら、俺の方で音つけてみるから。
もし、よかったら──招待コード、送るけど」
悠は、その言葉に少し驚いて、
それからゆっくりと、表情を緩めた。
「……ありがとう。
使ってみる。招待、もらえる?」
「うん。あとで、Reafnoteのアカウント、教えてくれたら送るわ」
「“Yuu”でやってる。まだ何も出してないけど……」
「じゃあ、あとで招待送っとくわ。……その映像、上げたら、また教えてな」
「うん」
窓の外では、夕陽が図書館の窓をオレンジ色に染めていた。
初めてちゃんと交わした言葉たちが、静かにその空間に滲んでいた。
◇
──それから数日後。
放課後の図書室。
遠山悠は、迷いなく、いつもの席に座る。
高い窓から差し込む西日が、机の上に細長い影を落としていた。
向かいの席には、音瀬しずくがいる。
今日も、先に来ていた。まるで、それがいつものことのように。
ゆる巻きの髪に、お母さんからもらったという小さな桜の髪飾り。特別な日だけにつけているらしい。
ニットのカーディガンの袖口からは、ネイルの先がひときわ鮮やかに浮かび上がっていた。
ただそこにいるだけで、落ち着く。何度も見慣れた、“しずくのいる風景”だった。
沈黙がふたりのあいだに流れる。けれど、その静けさはとても穏やかだった。
(……彼女には最初に伝えたい)
悠は、自分の中の迷いに終わりを告げるために、ここに来た。
小さく息を吸い、口を開く。
「決めたよ」
しずくは、顔を上げることなく、ノートをぱらりとめくる。
その指先が、ほんの一瞬だけ止まり、そしてまた動き出す。
「ふーん、けっこう保留長かったじゃん」
その言い方に、からかい半分、安心半分のようなものが混ざっていて、悠の胸の奥にあたたかいものが灯る。
しずくは、ゆるく笑顔を浮かべながら続ける。
「もう迷子じゃないじゃん」
悠は、少し苦笑したあとで、しずくに話す。
「そうだね。あと、バイト……っていうか、いま映像関係の会社の人と話してて。親が許してくれれば、たぶんすぐ始められると思う。機材とか学費とか、けっこうお金かかるしね」
「お、えらいじゃん」
悠は、ゆっくりと立ち上がる。
椅子の脚がわずかに床をこすった音だけが、図書室に響いた。
「……じゃ、また」
しずくは顔を上げなかった。
ページをめくる手が、一瞬だけ止まる。
それから、ふと小さく笑うように息をついて、言った。
「……だいじょうぶ。きっと伝わるけん」
その声を、悠は黙って聞いていた。
あのとき言われた、「見せようとしてないとこが一番伝わる」──
その言葉が、今も胸の奥に残っている。
図書室を出るとき、悠はもう一度だけ、足元を見下ろした。
静かな午後の光の中、どこかでページをめくる音がまた響いていた。
◇
夜。悠の自宅。
リビングに、父と母の姿がある。何気ない夕食後の空気。
その場に立つ自分の心臓の音が、妙に大きく響く。
悠は視線を落としたまま、言葉を探すように唇を動かした。
「俺……映像制作の道に進みたい。そういう学校に進学したいんだ。」
父は驚いたように顔を上げ、母は、どこかわかっていたように、静かに微笑んだ。
悠は、自分の想いを語る。
「……ただの趣味で終わらせたくない。あの文化祭で、映像を流したとき、
観ている人たちの表情が変わるのがわかった。 ちゃんと伝わってるんだって、あのとき思った。
だから、映像を通じて、多くの人を励ましたり、勇気づけたりしたいんだ」
「……怖いし、不安もある。でも、やってみたいんだ」
父は、しばらく黙っていた。
ずっと、どこか他人行儀な距離があった。
……血のつながらない父に、こんなふうに向き合われるのは、たぶん初めてだった。
父はやがて、少し息を整えてから、ゆっくりと言った。
「……そうか。自分で決めたんだな」
言葉は短かったけれど、その声には、どこか安堵の色が滲んでいた。
けれど、それを悟られまいとするように、父は淡々と続ける。
「やりたいことがあるのは、すごくいいことだと思うよ。ちゃんと向き合って考えた上での決断なら、僕は何も言わない」
「ただ──夢ってのは、楽しいだけじゃない。うまくいかない日もあるし、思ったより地味で地道なことも多い。それでもやるっていうなら……ちゃんと覚悟して、続けていってほしい」
悠が何か言いかける前に、父は小さく笑った。
「なんてな。えらそうに言ってるけど、僕も大してわかってるわけじゃないからさ。ただ、応援はしてる。いつでも」
母が、そっと言葉を添える。
「前から、なんとなくそんな気がしとったよ。最近の悠、ずっと楽しそうじゃったもんね」
その言葉に、悠はうつむいて、小さく息をついた。
それきり誰も何も言わなかったけれど、不思議と気まずさはなかった。
父はそっと立ち上がると、台所に向かいながら、ぽつりとつぶやいた。
「……コーヒー、淹れるけど。飲むか?」
その声は、どこか少しだけ、軽くなっていた。
悠は少し迷ってから、肩の力を抜いたようにうなずいた。
「……うん。ありがとう」
やがて手渡されたカップを手に取って、そっと口をつける。
舌に残るのは、少しだけ苦くて、でもちゃんとあたたかい味。
……まるで、まだぎこちないけど、確かに向き合おうとしてくれた父の声みたいだった。
◇◇
──翌日。
午後の光が、校舎の窓を淡く染めている。
音瀬しずくは、赤く染まりかけた海を遠くに見ながら、静かな廊下を歩いていた。
冷たい風が窓の隙間から入り込んで、制服の襟をかすかに揺らした。
中庭のベンチでは、翔太がイヤホンをつけて、ノートPCに何かを打ちこんでいる。
リズムを取っているように、ときおり肩が揺れている。
顔はまっすぐ、どこか遠くを見ているみたいだった。
その横を、マリナとあかりが歩いていく。
マリナは、あいかわらず笑いながら、あかりに何か話しかけている。
あかりは、理系クラスの分厚い資料を抱えている。
歩き方は前より少し軽くて、前より、目つきがやわらかくなった気がした。
もう、大丈夫だと思った。
二人の笑い声が、風に混ざってふわりと流れていく。
昇降口の掲示板には、小さな貼り紙。
「軽音部ライブ動画 公開中」
「Reafnote 新着投稿あり」
何気ない放課後。
でも、それぞれの時間は、ちゃんと前に進んでいる。
まだ指先は少しかじかむけど、
冬の終わりの足音が、ほんのり近づいてきている気がした。
昇降口を出て、螺旋階段の途中で足を止める。
誰もいない、風の通り道。
その真ん中に、しずくはそっと腰を下ろす。
缶コーヒーのぬくもりが、まだ指先に残っている。
飲み終えた缶を、隣に静かに置いて、
手のひらのスマホに目を落とす。
スマホの黒い画面に、通知バッジが、ひとつだけ残っていた。
それを見たとき、しずくはふと、ある言葉を思い出した。
最初は、悠に言おうとしていた言葉だった。
でも、あとから、こう思った。
たぶん、あかりにも、梓にも、翔太にも、マリナにも、
そして、しずく自身にも──
夢を追いかけている人たちに、ずっと言いたかった言葉かもしれない。
「だいじょうぶ。知らんとこで、誰かがちゃんと見とるけん」
「世界って、そういうふうにできとるんよ。だいたい」
──物語はここで、ひとつの終わりを迎えます。
そして──
次回は、静かに時間が流れたあとの“エピローグ”を、お届けします。
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