第8話 あの人みたいになりたいって思った
放課後のカフェ「とおりあめ」は、いつもよりすこし賑やかだった。
坂の途中にあるそのカフェで、しずく、マリナ、あかりの三人がスイーツをつついていた。
窓の向こうには、午後の光にきらめく瀬戸内海。
海の向こうには、島影がかすかに揺れていた。
「しずくのとこ、毎日この景色なん?
めっちゃ映えるんやけど。やばすぎん?」
マリナがガトーショコラをひと口食べて、
なんかちょっと興奮ぎみに言った。
「んー、まあ、見慣れとるけど……今日みたいな日は、
ちょっと特別に見えるな」
しずくはカウンター越しに外をちらりと見て、ふっと微笑んだ。
あかりが、アイスティーのグラスを持ったまま、
目を細めて外を見つめていた。
潮風がゆるくカフェの中に入り、髪をやさしく揺らしている。
「……なんか、落ち着くね。ここ」
その声を聞いた瞬間、胸のあたりがふわっと静かになる気がした。
「せやろ? そういえば夏芽さん、
またあかりちゃんとお話ししたいって言ってたで。
大学にめっちゃおもろい先生いるらしくて」
「えっ、それはちょっと興味あるかも……」
そんな話をしているうちに、空の色はじんわりと変わりはじめていた。
マリナがスマホを見て、ふいに立ち上がる。
「やば、今日夜から雨やって!そろそろ行こっか〜。
坂、滑らんように気をつけてな」
その言葉に、しずくはふと空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
(……雨か)
胸の奥が、すこしだけ静かにざわついた。
雨の予報を聞くと、いまだに心が動く。
「とおりあめ」のドアを開けると、坂の下に街並みが広がり、
その向こうに瀬戸内海がちらりと見える。
マリナが「今日も記念に撮っとこ!」とスマホを取り出す。
カフェの前、石畳の坂道。瀬戸内海を背に、三人が肩を寄せる。
「はいチーズ〜!」
シャッター音が、空の色と混ざってひとつ鳴った。
マリナが画面をのぞき込んで、「わ、めっちゃいいやん!」と声を弾ませる。
あかりがその隣でふっと笑って、「……うん。きれい」
しずくも、少しだけうなずいた。
マリナとあかりが手を振って坂を下っていく。
二人の制服の裾が、夕風になびいていたのを、
しずくはなんとなく目で追った。
夜。
天気予報のとおり、静かに雨が降りはじめた。
カフェ内はいつもの景色。
いつものカウンター。
でも、今日は──少しだけ、胸の奥がざわついていた。
(あのときも、雨が降っとったな……)
雨の音を聞いていると、胸の奥が、あの春へと引き戻される。
中学二年──まだ「音瀬しずく」になりきれてなかった頃の話。
◇◇
──音瀬しずく。中2の春。
(今日も、誰とも話さんかったな。クラス替えで、
ぜんぜん友達できんで。ひとりで帰るの、
ちょっとだけ、さみしかった)
放課後、うちは昇降口の前で足を止めていた。
坂の町に、しとしとと春の雨が降っていた。
石段を濡らした雨は、細い路地をゆっくり流れ、
海のほうへと消えていく。
制服の袖口に落ちた雨粒が、じわりとにじんだ。
カツン、と自分の靴音だけが響いて、思わず足を止める。
(……あーあ)
帰れば、お父さんはいる。
でも、あの人も、たぶん──まだ、元気にはなれてない。
話さなくてもわかる。
台所の音も、カップを置く音も、前より静かになった。
家の中は、雨が降ったあとの空気みたいに、しんとしてる。
……うちも、たぶん、同じ。
だから、今日は遠回りして帰ろうと思った。
昇降口を抜けて、螺旋階段の途中に座り込んだ。
誰も来ないこの場所で、ふと、涙がこぼれた。
ひんやりとした冷たさが、制服の背中越しにじわっと伝わってくる。
がまんしていた感情が、胸の奥でぐしゃぐしゃになって、
声にならんままの嗚咽に変わっていく。
そして──ひときわ強く、胸を締めつけたとき。
「……さみしい」
ぽつりと漏れた声は、雨にまぎれて消えた。
けれど止まらなかった。
「さみしい……めちゃくちゃ、さみしい……!」
もう誰に聞かれてもかまわんと思った。
声は震えて、涙で途切れたけど、それでも何度も、何度も、
「さみしい……さみしいよ……!」
ひとりぼっちの螺旋階段で、うちは声を上げて泣いた。
声に合わせて、制服が震えた。
胸の奥でなにかがほどけて、そこに冷たい雨が入り込んでくる。
◇
中学一年の冬──お母さんがこの世からいなくなった日。
あの日も、雨が降っていた。
冷たい雨だった。
傘をさしていても、足元からじんわりと冷えがのぼってきて、
うまく呼吸ができなかったのを覚えてる。
いろんな人が声をかけてくれた。
「かわいそうに」とか、「元気出してね」とか、
「千春さんの子じゃけぇ、きっと大丈夫よ」とか。
……でも、うちは、そういうのが、いちばんつらかった。
なんでかわからんけど、自分のことを決められるのが怖かったんやと思う。
「大丈夫」って言われたら、「大丈夫」にならんといかん気がして。
ほんとは、全然そんなふうに思えてなかったのに。
それ以来、うちは──雨が嫌いになった。
ふいに降り出すだけで、胸の奥がざわついて、涙が出てくる。
自分でも理由がわからんまま、勝手に泣きそうになる日が、
ぽつぽつと増えていった。
◇
あの日も、そんな雨の日だった。
昇降口を抜けて、濡れた螺旋階段に座り込んだとき、
うちはたぶん──もう限界やったんやと思う。
自分の中のなにかが、静かに崩れていく音がした。
そのとき。
「……あーあ、降ってきたじゃん」
ふいに、声がした。
顔を上げると、キャラメル色の髪の先輩が、
缶コーヒーのプルタブを開けながら階段を上がってくるところだった。
あとから聞いた名前は、
髪は明るくて、ネイルもしてて、見た目だけならギャルやった。
でも、その動きも、声も、空気も。 どこか、静けさをまとっていて。
……ちょっと、不思議な人やなって、思った。
先輩は、うちが泣いてるのを見ても、何も言わずに、
そのまま隣に腰を下ろした。
「……顔、上げとき」
「ちょっとだけ、楽になるけん」
その声は、強くもなく、やわらかすぎるわけでもなく、
ただ自然に耳に入ってきた。
うちは、そっと顔を上げた。
目の前に、温かい缶コーヒーが差し出される。
「飲める? 甘いやつ」
無言で受け取って、手の中の温度を感じた。
沈黙。
でも、その沈黙が、不思議と苦しくなかった。
ひと口、口に含んだコーヒーは、少しだけ苦く、
ほんのり甘くて、とてもやさしい味がした。
あのとき。
あの人は、何も言わんかった。
慰めもしなかったし、理由も聞かなかった。
ただ、隣に座ってくれた。
それだけで、うちは、すごく救われた。
人のやさしさって、大きい声や強い言葉じゃないんや。
そばにいてくれること。何も言わんでいいから。
そこに、おるだけで。
誰かを励ますための言葉じゃなくて。 かっこつける声でもなくて。
うちは、静かでも、ちゃんと伝わる人になりたかったんよ。
今、思い返しても──あのときのことは、ちゃんとは説明できない。
でも。
あの人みたいになりたいって思った。
誰かの隣に、ただ静かにいられる人。
言葉じゃなくても、ちゃんと伝えられる人。
誰かを、ちょっとだけ守れる人。
その想いは、今も胸の奥に、じわじわと残ってる。
◇
るい先輩は、そのあとも何度か遊んでくれた。
ラインも交換してくれて、たまにカフェ「とおりあめ」にも来てくれたっけ。
あるとき、「上映会で使うから」って言って、
大きなカメラで動画を撮られたことがあった。
どこで上映されて、どんな人が観たのかはいまでもわからない。
ちょっと恥ずかしかったけど、
「後ろ姿しか映さんけん、大丈夫」って言ってくれて。
撮られてる間、なんとなく背中があったかかったのを覚えてる。
不思議やけど、背中だけでもちゃんと“見られとる”って、わかった。
るい先輩は、やがて東京に引っ越した。
もう、こっちでは、あんまり会えんくなったけど──
それでも、うちの中には、ずっとおる。
◇
──そして、少しだけ時が過ぎて。
うちは、髪を染めた。
最初は、鏡に映った自分の姿が、ちょっとだけ他人みたいに見えた。
でも、それでよかった。“ちょっとだけ他人”の自分が、
今の自分を守ってくれとる気がした。
ゆるめたリボンも、ネイルも──ぜんぶ、るい先輩のまね。
似合うかどうかなんて、わかんなかった。
でも、「そのままでいい」って言ってくれた先輩と、
同じ姿で歩いてみたかった。
それだけで、ほんの少しだけ、強くなれた気がした。
……そして、不思議と、少しだけ、自分らしくなれた気もした。
誰かの真似をすることが、“自分じゃなくなる”ことだとは思わんかった。
むしろ、そうやって少しずつ選び取っていくことが、
うちの“自分らしさ”になっていった。
お父さん、最初はびっくりしとったけど、何も言わんかった。
ただひと言、「最近、元気出てきたな」って。
そのとき、ちょっとだけ笑っとったのを覚えてる。
──それ以来、雨が降るたびに、しずくはそっと空を見上げるようになった。
母のこと。
るい先輩のこと。
ふたつの面影が、静かに重なるように、そこに浮かんでくる。
雨はもう、怖くない。少しだけ寂しくなるけど、優しい。
◇◇
──ふっと意識が、今に戻る。
高1の秋。カフェ「とおりあめ」。
カップの湯気がふわりと揺れて、目の前のカウンターに視線が戻った。
外ではまだ雨が降っていた。
カウンターに手を置きながら、しずくはゆっくりと視線を窓の外に移す。
──雨は、いつも何かを連れてくる。
昔の自分。
そして、大切な誰かの気配。
だから、しずくは雨の日だけ、少しだけ静かになる。
湯気の向こう、静かに流れる雨を見つめながら、
しずくは、そっとカップに口をつけた。
店内の照明の光が、カップの縁にやわらかく反射していた。
カウンターでは、弦がお店の後片付けをはじめている。
しずくは、カウンター席に腰掛け、ぼんやりと蒸気を眺めていた。
「……お父さんとお母さんが、軽音部でバンドやっとったって話、さ」
弦は、カウンターでカップを拭く手を止めた。
「うん」
「こないだ、同じクラスの翔太くんって子から、
お父さんとお母さんが軽音部の時の動画見つけたって言われて」
「ほう。そんなの残ってたのか。下手くそだったから恥ずかしいな」
「翔太くんはめっちゃ上手かったっていってたで。
うちもその動画で、そのときのお母さんの歌声聞いて。
ライブのときの歌声は聴いたことなかったから」
少しだけ間を置いて、しずくは尋ねた。
「……お母さんの歌、どうだった?」
少しだけ目を細めて、弦は遠くを見るような声で言った。
「のびやかで、優しいけど、芯がある声だったな。
自分から前に出んけど、気づいたら、真ん中におるような」
しずくは、小さく笑った。
「……そっか。そんなん、ちょっとだけ……うちも、そうなれたらええな」
「なってるだろ。気づいてないだけだろ」
しずくは少しだけ眉をひそめたが、何も返さずにカップに口をつけた。
「──お父さん、お母さんの歌、今でも覚えとる?」
「忘れるわけないだろ。いちばん、好きな声だった」
その声の温度に、しずくは少し目を伏せた。
湯気のむこう、ガラスの外に風が流れていく。
「──うちも、自分の声、ちゃんと持たなあかん気がした」
「そうだな」
しずくは、そっとカップを置いた。
湯気の向こう、雨の音がすこしだけ強くなった。
カップを置いた指先が、ほんの一瞬、震えた。
「……お母さん。いま、ちょっとだけ、うち頑張れとるよ」
心の中でそう呟いて、誰にも聞こえないように、微笑んだ。
──次は、現在のしずくたちの日常に戻ります。
しずくという存在が、少しずつ誰かの中に“残っていく”──そんな物語です。
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