第7話 俺は、俺の音で行く
文化祭が終わり、1週間ほどが経った放課後。
坂の上にある校舎の窓からは、うっすら赤くなった海が見えていた。
秋が深まるこの時期、風は涼しくて、どこか祭りの余韻を拭うようだった。
翔太には、音楽室の空気が少しだけ澄んでいるように思えた。文化祭の熱気や笑い声はすっかり消えて、残っているのは、どこか名残惜しさと静けさだった。
机の端には、自分のノートPCとスマホ。学校の授業でも使っているノートPCには、自分で作ったオリジナルのフレーズや曲の断片が残っている。人に聴かせるにはまだ早い。でも、触れていると落ち着いた。
(……やっぱ、弦さんの曲、ええよな)
最初に聴いたのは、父親の古いCDラック。
ダサいジャケットやな〜とか思いながら、なんとなく再生してみたら、
ベースがやけにかっこよかった。
それからずっと、たまに聴いてる。
──初めてベース触ったときも、その曲やった。
頭の中で鳴っていたのは、音瀬弦──音瀬しずくの父がかつてやっていたバンドの曲だった。文化祭のリハのとき、イントロにあのスライドを混ぜた。
気づいた人はいなかったかもしれないけど、自分にはそれだけで十分だった。
(初めてベース触ったときも……あの人の曲やったな)
そのとき、音楽室の扉が静かに開いた。
「……お疲れ」
2年の白石梓先輩だった。ギターケースを肩に掛けて、
ちらりとこちらを見た。
相変わらず無駄な言葉は少ない人。
翔太は、少し迷いながらも口を開いた。
「先輩……知ってます?
弦さんの曲、今でも聴いてる人、結構いるんすよ」
梓は、一瞬だけ立ち止まった。
「動画サイトとか、昔のライブ映像にコメント残ってたりして。
『今でも聴いてます』とか、『この曲でベース始めました』とか」
その言葉に、梓の目がほんの少しだけ揺れた。
普段はほとんど変わらない表情なのに、その変化は、翔太にはちゃんと伝わった。
「……ええな、それ」
ぽつりと、梓は言った。
翔太は、その言葉を聞いて、少しだけ嬉しかった。
梓先輩みたいな人に、自分が知ってるものを伝えられたことが。
教室に戻る途中、同じクラスの宮坂あかりさんとマリナが廊下で話しているのが見えた。
「あ、翔太ー」
マリナがニヤっと笑いながら近づいてくる。
「今日もベース練習しとったん?そんだけ弾いとったら、音で性格バレるで?」
「うるさいわ」
翔太とマリナは幼馴染で、昔から何となくこんな距離感だった。
宮坂さんは苦笑しながらそれを見守っている。
(中学ではあんま話さんかったけど、高校入ってからまたちょこちょこ喋るようになったな、こいつとは)
そのとき、マリナがふと話題を変えた。
「てかさ、文化祭のときのA組の遠山くんの動画さ、
音ないのにちゃんと伝わってきたの、すごくない?
なんかもう、空気で泣かせにきてたわ。まじ推せるかも」
翔太は、マリナの言葉に、少しだけ心が動いた。
(……あの影の映像に、音つけてみたいな。
自分の作った曲、合わせたらどうなるんやろ)
……文化祭んとき、ギター弾いとった音瀬さんも、おったっけ。
音瀬さんとも同じクラスやけど、別によう喋るわけでもない。
でも、なんか──ちゃんと音が残っとる人やったな。
(……俺も、こんなふうに自分の作品を世に出してみたい)
(……でも、やっぱり、早いんちゃうか)
自分の曲なんか、誰も聴かんかもしれん。
もし、変なコメントとかついたら──多分、立ち直れん。
「こいつやっぱ、調子乗ってたんやな」
って思われるのが、いちばんきつい。
たぶん──そう思う。
おれが、こんなに投稿するのにびびっとるのって、
中学のときのあれ、まだ引きずっとるからや。
軽音部に入ったばっかで、まだ右も左もわからんころ。
練習して録った自作のフレーズ、思い切って先輩に聴かせてみたんよ。
「……悪くはないけど、ちょっと軽いな」
「音は合ってるけど、響いてこん。もっと、ベースとしての“芯”が欲しいっていうか」
先輩は、たぶん悪気なかったんやと思う。
でも、おれには、それが全部やった。
「自分の音って、届いてないんやな」って思って、
そっから録音も人に聴かせるのもやめた。
ちゃんと弾いてるはずなのに、意味がないって思ったら、
もう、音の出し方までわからんようになってくる。
まだ、あと少しだけ、踏み出せない自分がいるような気がした。
◇
学校からの帰り。
黒いベースケースを背負って海沿いの坂道を下りてきたあと、
翔太は駅前にある小さなチェーン系カフェに入った。
ガラス越しに、ゆっくりと傾いていく夕陽が瀬戸内海を染めていた。
制服姿の高校生が何人か、レジ前で列を作っている。
誰かが買ったドーナツの甘い匂いが漂って、店内はほどよく賑やかだった。
でも、その奥──ガラス窓に近いカウンター席だけは、どこか静かだった。
翔太は、背負っていたベースケースを立てかけたあと、
そこにひとり腰を下ろし、トレイに置かれたアイスコーヒーを口にする。
店のすぐ向こうには、海を挟んで対岸の島影がうっすらと見え、
行き交う小さなフェリーの姿があった。
スマホにイヤホンを繋ぎ、いつものようになんとなくベース演奏の動画を探して、動画サイトのおすすめ欄をスクロールする。
ふと、一本の古い動画が目に入った。
〈【沙美ヶ丘高校軽音部】199x春ライブ/オリジナル曲 〉
タグも少ないし、再生回数もほとんどない。
(……これ、なんで出てきたんや。沙美高の軽音部?20年以上昔の?)
小さな違和感と興味が混ざり合って、指が勝手に再生ボタンを押していた。
動画が始まる。
始まったのは、解像度の低い、ハンディカムで撮ったものを編集せずにそのまま投稿したような動画だった。
たぶん、昔の動画投稿サイト黎明期にアップされたまま、忘れられていたやつ。
画質は360pくらい。色がにじんで、輪郭がぼやけている。
ステージは体育館。
手作り感のある横断幕に、“沙美高スプリングライブ”と読めた。
画面左手、ベースを抱えた男子生徒が、体を小さく揺らしていた。
カメラが動くたび、オートフォーカスが暴れてピントがずれる。
ステージの中央には、黒髪ボブの女子生徒。
やがて、演奏が始まる。
──イントロ。
ギターとドラムが軽く合わせた直後、ベースが一音目を弾く。
リズムのアタマをわざと外して、2拍目からゆるやかに滑り込んでくる低音。
ただそれだけで、空気がピンと張った気がした。
(弾き出しで、空気、変わった……)
ベースは主旋律でもないのに、耳が引き寄せられる。
コードに沿っているのに、ただのルートじゃない。
スライド、ゴーストノート、ハンマリング……でも、“技術”でなく、“流れ”として鳴ってる。
フレーズがまるで呼吸みたいに自然で、
他のパートが少し走っても、モタっても、ベースが真ん中にいて引き戻してる。
(……バンド、まとめてるの、ベースや)
Aメロでは控えめに。
Bメロではコードを滑らかにつなぎ、
サビに入ると──ベースは、ふっと消える。
正確には、音は出てる。
でも、アタックを抑え、音の輪郭を滲ませて、ボーカルを前に出してる。
ステージの真ん中で歌う女子の声は、少しだけ不安定だった。
でも、その揺れを、ベースが下からそっと支えている。
(そっか──この声がきれいに聴こえるの、ベースが支えてるからや)
間奏。再び、ベースが前に出る。
今度は遊び心のあるライン。
上がって、抜いて、戻して、
ちょっとだけハーモニクスを入れて、コードをまたぐ。
──“音を外す勇気”がある。
──“戻せる技術”がある。
それを、さらっと、やってのける。
まるで、ずっとそこに居続けたかのように。
動画が終わる。
翔太は、スマホを手にしたまま動けなかった。
ただ上手いとか、すごいとか、そういうのと違う。
“音楽をちゃんと鳴らす”って、こういうことなんや──と、身体でわかった気がした。
──再生ボタンが止まっても、音が耳の奥に残っていた。
消えそうなノイズと一緒に、胸の奥の、何かがふるえていた。
画面の左下に、小さく名前があった。
Vo. Chiharu / Gt. Hibiki / Dr. Kanade / Ba. Gen
──
音瀬さんのお父さん。あの人も、ここで音を鳴らしとったんや。
翔太は、画面の下に並ぶ、コメント欄に目を落とす。
数件だけ、誰のものともわからないコメントがついていた。
どれもランダムな文字列の、考えもなく適当につけたようなユーザー名。
「ギター走りすぎワロタw」
「ドラムの人、手数多いのに全然合ってない。リズム隊()乙」
「ボーカル緊張して声うわずってんの聴いてこっちが恥ずかしくなったんだがw」
「ていうかベース空気。いた?って感じw」
「まぁ高校生のお遊びバンドに多くを求めるのが間違いw」
昔のネットでは、こんな言い方流行ってたんやろなという言葉が並ぶ。
どれも、煽って書き捨ててるだけのコメントで、別に、腹も立たなかった。
わかったふうな言葉を並べてるのに、どれも薄っぺらい。
あのベースが鳴らしていたものに──誰ひとり、気づいてすらいなかった。
あれが曲を支えてたし、なによりみんな、すごく楽しそうに演奏してた。
コメント主の人たち、いったい何を見て、何を聴いてたんやろ。
でも──
弦さんたちも、多分、そんなのどうでもよかったんやろな。
誰が見とっても見とらんでも、自分の音、ちゃんと鳴らしとった。俺には、それが届いた。
俺、評価とか、数字とか、気にしすぎとったんやな。
だから、俺も、弦さんみたいに──出す。自分の音を。
翔太は、ふぅっと息を吐いた。
(……俺も、やってみたい)
イヤホンを外してスマホを置き、アイスコーヒーに口をつけたときだった。
カウンターの奥の方から、聞き覚えのある声が聞こえた。
「しずくちゃん、それ二個も頼んだん?」
「うん。ポン・デ・リングとエンゼルフレンチ、どっちかなんて選べんって」
「……すごいね。甘いの、そんなに?」
「いや、むしろ今日は“甘い日”なんよ。バランス大事」
「……しずくちゃんの言う“バランス”って、けっこう独特だよね」
(……音瀬さんと、宮坂さん?)
翔太はそっと顔を上げる。
店内奥のボックス席──やわらかい照明に包まれたその角に、しずくとあかりが向かい合って座っていた。
あかりがチョコファッションを小さくかじりながら、ふっと目を伏せる。
しずくは、ストローをくわえてジンジャーエールをひとくち飲んだあと、
トレイの上のドーナツを見つめて、ぽつりと言った。
「……やっぱ、甘いのとサクサクの組み合わせ、最強なんよ」
「うん……しずくちゃんが言うと、なんか説得力あるかも」
「え、どういう意味?」
「……褒めてるつもり、たぶん」
しずくが「たぶんて何なん」と言って、あかりをちらっと見ながら笑う。
「でもまあ、うちの中ではバランス取れとるんよ。カロリーの帳尻、心で合わせとるから」
ふたりとも制服姿のままで、でもどこか放課後の緩やかな空気をまとっていた。
翔太はなんとなく、二人の距離が縮まっているように感じて、目を細める。
何も声はかけずに、ベースケースを背負い直して、店を出る。
(……あのふたり、なんかええな。ちょっとずつ前に進んでる気がする)
(……俺も、前に進みたい)
夜。翔太の家。
窓の外では、坂を下るバイクの音がひとつ遠ざかっていった。
潮のにおいに、ほんのり冷えた風が混じっている。
カーテンがわずかに揺れて、翔太は深く息を吸い込んだ。
ベースをしばらく弾いたあと、ノートPCを開く。
作りかけの曲。下書きみたいなフレーズが、いくつも並んでいる。
ひとつ、再生してみる。
不器用な音。でも、自分で作った音だった。
文化祭で重なった音たち──梓先輩のギター、音瀬さんのコード、誰かの声。
……音瀬さんのお父さんが弦さんだと知ったのは、文化祭ライブに誘った少し後だった。ギターうまいなと思ってたけど、ちょっとびっくりした。
でも、だからって何かが変わるわけじゃない。
弦さんの音は弦さんの音。
音瀬さんの音は、音瀬さんの音だった。
自分の音は、自分で出すしかない。
(誰かに届かんでもいい。けど、いまの音を、どこかに置いておきたい)
翔太は、Reafnoteの画面を見つめた。
(俺は、俺の音で行く)
指先が、そっとマウスを動かす。
Reafnoteの投稿ページが開く。
ちょっとだけ躊躇って、それでも──
「カチ」
マウスのクリック音が、夜の部屋に小さく響いた。
その音だけが、確かに、残った。
──次は、しずくの中学時代の回想です。
誰かの静かな優しさが、今のしずくをつくった──そんな原点の話。
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