第6話 それでも、わたしは、弾き続ける

 秋が深まりはじめた町で、放課後、窓に長い影が落ちていた。

 文化祭を1ヶ月後に控えた放課後の教室には、ざわざわとした空気が満ちていた。


 白石梓しらいし あずさは、軽音部の練習に向かおうとギターケースを背負い、音楽室のドアを開けた。

 そのとき──耳に飛び込んできた声があった。

「音瀬さん、文化祭でギター弾いてみない?顧問の先生から、今年はオープン参加枠を用意するから誰か探してこいって言われててさ」


 1年生の佐久間翔太が同級生の音瀬しずくと話しているのが聞こえる。翔太は軽音部の後輩で、バンドのベース担当。少し不器用だけど、音楽には真面目なやつだ。

(……音瀬しずく。……あの子か)

 しずくとは話したことはなかったが、同じ中学だったから、

彼女のことは知っていた。

 中2になってしばらくして急に派手な見た目になったが、

何があったのかはよく知らない。

 金色の髪。翔太の声に返事をするしずくの声は、いつもマイペースで、

ふわっとした感じで……でも、何か芯があるように見える子だった。


「えー……うち? ムリムリ。人前とか出られんし」

「こないだ音楽室で弾いてたの聴いて、音瀬さんの演奏、

すごくいいなと思ったんだ。別にガチの演奏じゃなくてもいいからさ」

「あのときの?あんなん適当にコード弾いてただけやで」


 梓は、そのやり取りを横目に見ながら、無言で教室を後にした。

(ギター、やるんか……あの子が)

 心の奥に小さなざわめきが残った。


 音瀬しずくが、あの音瀬弦の娘だってことは知っている。

 でも、軽音部には来なかったし、どれくらい弾けるのかは、正直わからない。

 でもそれは嫉妬でも嫌悪でもない。

 ただ、気になる。気になってしまう。そんな違和感だった。



 文化祭の3週間前。

 音楽室。放課後。


 梓は、練習のためにギターを取り出していた。

 静かな音楽室の中、自分の弾く音が心地よく響く。そこへ──


 「……あ」


 扉の向こうに、しずくが立っていた。

 梓は、尋ねた。

 「文化祭、どうするん?」

 「んー、出ることにした。せっかく翔太くんに声かけてもらったし。

 ちゃんと弾けるかどうかはわからんけどね」


 梓は少し構えた。けれど、しずくの表情は穏やかだった。

 (こないだ出るの嫌がってたのに、どういう心境の変化なんやろ?)


 「……どれくらいやってるん?」

 「小学校入るちょっと前かな。お父さんのベースにちょっとだけ合わせたり、昔は、お母さんの歌に合わせて弾いてたけど」


 その言葉に、梓は少し驚いた。そんな環境で育ってきた子が、ほんとにギターを趣味程度で済ませているのか。気になる自分がいた。



 翌日。放課後。


 梓は、音楽室でギターを抱えて、指を動かしていた。

 いつも通りの練習。何百回も繰り返してきたコード、C、G、Am、F──。

 メジャースケールにペンタトニック、スライドやチョーキングのニュアンスまで、ひとつずつ身体に叩き込んできた。

 教則本で覚えたものも、自分で探したフレーズも、全部、身体に叩き込んできた。何年も、何千時間も、この弦の上に自分の全部を積み重ねてきた。


 (……けど)


 それでも、足りない。


 (まだ、全然や)


 自分の出す音が、どこか薄っぺらに聞こえる瞬間がある。

 誰にもわからんかもしれん。でも、自分には、わかってしまう。

 耳が鍛えられるほど、自分のダメさがはっきりする。

 自分が一番、わかってしまう。


 (なんでやろな……)


 ギターの指板が、遠く感じた。

 指は動く。

 でも、そこにある音が、自分の音じゃない気がする。

 まるで他人が弾いてるみたいや。積み上げてきたはずの時間が、

全部、崩れそうな気がする。胸が締めつけられる。

 誰かが言ってくれたらええのに──『よくがんばってるな』って。

 『そのままでええ』って。

  でも、そんな言葉、自分で自分にかけたら負けた気がして。

 甘えてる気がして。怖くて言えへん。

 だから、練習するしかない。必死で弾き続けるしかない。

 こんな思いは、努力でしか消せない。

 そう信じてやってきた。でも──それでも。


 (足りへん。まだ、全然や)


 音が、届かない。心が、追いつかない。自分が、自分に追いつかない。

 梓は、ぐしゃぐしゃになりそうな心を押し殺して、ただギターを弾き続けた。


 ふと、気配を感じる。


 顔を上げると、しずくが、音楽室の入口に立っていた。

 無言で、梓の指の動きをじっと見ていた


 その目は、不思議だった。好奇心とも違う。興味本位とも違う。

 梓には、ただ静かに、真っ直ぐに見られているような気がした。梓の何かを探るように。梓の音を、心を、測るように。


 (……なに見とんねん)


 梓は、心の中でそう呟いたが、声には出さなかった。

 しずくは、そのまま音楽室に入ってきて、窓際に座った。

 少しだけ迷うように、自分のギターを抱えながら。


 しばらく沈黙があって──しずくが、ぽつりと呟いた。


 「……うちの父さんさ、昔ベースやっとったんよ。プロで」


 その声は、ほんまに、たまたま出たみたいに自然だった。

 でも梓には、わかった。

 あの目で見られたあとに、これを言うってことは──しずくなりに、

何かを見抜かれたからこその言葉だ。


 「父さんの友達が言っとったんよ。『あいつはプロになる前、同じフレーズを一晩中何時間も繰り返してた』って。毎日、同じとこ何回も何回も。

 ……その話、なんか、うちは好きで。

 誰も見とらんときの音のほうが、届くことあるんやなって」


 梓は、胸が痛くなった。その景色、想像できてしまう。積み重ねの風景。

 「でも、うちが物心ついたころには、もうプロやめとってさ。今はカフェやっとる」

 (やめたんか……)

 しずくは、そう言って少し笑っていた。

 寂しそうでも、悔しそうでもなく、ただ、淡々と話している。

 「それでも、今でもベース触っとるんよ。音楽、たぶん好きなんやろな。

プロやってた頃より今のほうが上手くなってるとか言うんよ」

 しずくはそう言ってふっと笑う。


 梓は、それが妙に当たり前のように聞こえて、崩れ落ちそうになった。

 胸の奥が、ぎゅうって縮こまって、痛いくらいに震えた。

 (……努力したって、報われんこともあるんや)

 (でも、それでも、音楽と生きとる人がおる)

 (そんなの、ほんまに、すごいやんか……)

 目の奥が熱くなった。でも泣きたくなかった。ここで泣いたら、全部壊れてしまいそうで。梓は、ぐっと唇を噛みしめた。

 (まだまだや。まだまだ全然足りん。でも──)


 (それでも、弾く。わたしは、弾き続ける)



 文化祭2日目。ライブ当日。

 

 秋晴れの空の下、坂の上の校舎は熱気と人の声に包まれていた。

 校庭に並んだ模擬店からは焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが漂い、

装飾された窓越しには、ゆっくりと色づく山の木々が見えた。


 体育館からは笑い声とギターの音が重なり合い、秋の陽に溶け込んでいく。


 梓は、その喧騒の中にいながらも、いつも通りギターケースを背負い、ステージ裏に向かっていた。

 軽音部のメンバーが準備を進めている。翔太がベースアンプの調整をしている。

 1年生らしい女子がステージ前でわいわいと話している。

 男子がカメラを構えて動き回っている姿も視界に入った。

 

 そして──

 しずくが、静かにギターを抱えてひとつずつ音を確かめるようにチューナーを触っている。

 その姿は、他の誰よりも浮き立っていないのに、

自然と目に入ってしまう存在感があった。


 (あの子は、やっぱり……不思議や)


 ステージに立つ。


 客席には、大人たちの姿も見えた気がした。知らない誰かの顔が並ぶ。

 でも、それが悪くないと思える自分が、少しだけいた。

 ステージに立った瞬間、しずくの存在がふっと遠のいた。

 いまは、自分の音だけに集中したい──そんな気持ちが、自然に湧いた。


 演奏が始まる。


 カウントのあと、梓は深く息を吸って、最初のコードを鳴らした。

 ローコードのG。ストロークがちょっと強めになったのは、

 緊張のせいかもしれない。


 歌い出しの瞬間、しずくのギターが重なってきた。


 音は梓より高いポジション──たぶん、ハイポジションでのコード。

 同じ和音なのに、まるで別の景色みたいな響きが重なってくる。


 軽く爪弾くようなアルペジオ。

 強く主張しないのに、ちゃんと届いてくる。

 その音が背中を押してくれるみたいで、梓は自然と声をのばせた。


 ときどき、しずくが裏拍でそっと入れてくるコードが、

 リズムの浮つきをぎゅっとまとめてくれる。

 梓の歌が走りそうになると、いつもそれが足元を整えてくれた。


 (……すご)


 練習で、何度も音を合わせてきたけど、

 今日の音は、たぶん特別だった。

 なんていうか、音で会話してるみたいで──

 

 (わたしの歌を、しずくの音がずっと受け止めてくれてる)


 2コーラス目の入り。

 少しだけ間を空けたとき、しずくがそれを待ってたみたいに音を差し込んできた。

 その一音だけで、「うん、大丈夫やで」って言われた気がして、

梓はまた声をのせた。


 ただの文化祭のステージではなかった。

 この音は、自分たちの音楽だった。


 曲が終わると、一瞬だけ静寂。


 そのあと、どっと拍手が広がった。

 誰かが「やば……」ってつぶやいた声が、はっきり聞こえた。


 梓はギターを抱えたまま、横目でしずくを見る。


 「……めっちゃ、よかったよな」


 しずくは肩をすくめて、「ふつうやって」と返した。

 でも、目線だけが、ちょっとだけやわらかくて──

 たぶんそれが、しずくの“うれしい”だったんやと思う。


 演奏が終わったあとの拍手。笑い声。

 ステージから見えた、誰もが楽しそうにしている景色。

 しずくは、ふわっと微笑み、客席に軽く手を振っていた。



 演奏が終わってステージを降りたところで、

 ひときわ大きな声が飛び込んできた。


 「──っヤバッ!!マジで神なんだけど!!」


 勢いよく駆け込んできたのは、ポニーテールの1年生の後輩──マリナ、だったと思う。

 名前と顔は知っている。

 陽キャで、クラスの中心にいそうなタイプ。


 マリナはそのまま突っ走ってきて、しずくの肩をバンバン叩いた。


 「しずく、なにあれ!? ガツンと来る感じじゃないのに、音が沁みすぎてヤバかったんだけど!?

 え、ちょ、控えめなのに、めちゃくちゃ印象残るとか……なにそれズルい!エモすぎん!」

 「……マリナ、もしかして、うちのことめっちゃ褒めてくれてるん? 珍しいな?」


 しずくが苦笑しながら言い返す横で、

 マリナは急にピタリと立ち止まり、こっちを向いた。


 そして、まっすぐにこっちを見て、言った。


 「梓先輩──あの、マジで……今日の歌、めっちゃよかったです」


 え? と声にならない声が喉に引っかかった。


 マリナは、急に表情を落ち着かせて──

 さっきまでと全然ちがう声のトーンで話し始めた。


 「わたし、先輩の声……なんか、ずっと心に残ってたんです。

 朝の教室とか、音楽室の前とか、ふと聴こえてくるあの感じが。

 うまく言えないけど──今日のライブ、ほんとに刺さりました」


 言いながら、マリナはちょっとだけ頬を赤くして、すぐ視線をそらした。

 あの子が、こんなふうに話すのを初めて見た。


 「え、あ……ありがと。わたし、全然知らんかったわ。

……マリナちゃんが、うちの歌聴いてたとか」


 「すみません、こっそり聴いてただけなんで……」

 そう言って、マリナはポニテを照れ隠しみたいに指でくるくるしながら、

 「でも、ほんとに感動しました! ふたりともマジ最強でした!」と一気に言い切って、ぱっと背を向けた。


 ……でもそのあと。マリナはふと立ち止まって、もう一度だけ振り返った。


 「先輩、今日のステージ……かっこよかったです」


 ──そのひとことが、

 演奏の音よりも、じわっと胸に残った。



 片付けの時間。

 音楽室でギターケースを片付けながら、梓は、しずくに声をかけた。


 「……お父さんの話、ありがと。……あかん、泣きそう」

 「……泣かれたら、うちも困るけんね」

 と、しずくは冗談っぽく言って、ふわっと笑った。


 梓は、何気ないふりで、しずくの手元に視線を落とした。

 弦に触れる指の先。薬指と中指の側面が、少し赤くなっている。

 うっすらと皮がめくれ、まだ新しいような小さな傷。


 (……こりゃ、相当弾いとったな)


 「あんたさ──」

 梓はギターケースのバックルを締めながら、ぽつりと漏らした。


 「あのコード、ぶっつけで出せる音じゃないよな」

 しずくは、カチリとケースを閉める音と一緒に、ふわっと笑った。

 「なんの話か、ようわからんけど?」

 その声には、ちょっとだけ照れがにじんでいた。


 梓は肩をすくめて、続けた。

 「しかもこの数日、ネイルしてへんかったやろ。いつも指先に色つけとるのに。……まあ、うちは気づくけどな」

 しずくは目線だけ逸らして、少し早足で部屋を出ていった。

 「知らんしー」


 あの子と特別に仲がいいわけじゃない。

 でも、同じ音の中にいられたのは、悪くなかった。


 梓はギターケースを背負い、騒がしい校舎の中へ歩き出す。


 (まだまだや。まだまだ足りん。でも──それでええ)


 (わたしは、わたしの音で行く)



  ──次は、梓先輩としずくの演奏を見て、何かが芽生える翔太くんの話。

 はじめて自分の“音”を、誰かに向けて鳴らしてみようとする回です。

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