第5話 スクリーンの向こうに、優しい影が揺れていた
あれは、中学のときだった。
遠山悠は、夕方の光が、静かに差し込む図書室で、
ノートパソコンを開きながら当時のことを思い出していた。
国語の授業で、「表現って、言葉だけじゃないんだよ」って先生が言って、
参考に流してくれた自主制作の短編映像があった。
クレジットもなかったし、どこの学校のものかも説明されなかった。
たぶん、同年代の誰かが作ったものだったと思う。
映像には、一人の女の子が映っていた。
制服姿の黒髪の少女が、細い坂道をゆっくりと歩いている。
足取りは一定に見えて、どこかぎこちない。
歩くことに集中しているようでいて、どこか、考えごとをしているようでもある。
途中でふと立ち止まり、家並みの隙間からのぞく穏やかな海に目を向ける。
風が吹き、肩にかかる髪がそっと揺れた。
そのまま、ごく自然な流れで、少女はわずかに後ろを振り返りかける。
顔は映らない。ただ、首筋の角度と、その場にしばらく留まった沈黙が、
何かを語っていた。
やがて、何事もなかったように、少女は歩き出す。
夕陽の光が、少女の髪にそっと触れ、一房だけをやさしく染めた。
セリフはなかった。
カメラは一定の距離を保っていて、顔もはっきり映らなかった。
だが、わずかに揺れる画面の奥で、静かにその姿を見守る気配があった。
──ページをめくる音が、図書館の静けさに戻ってくる。
悠は、ふっと息を吐いて、画面に視線を戻した。
なんでか、ずっと忘れられない映像だった。
(……自分も、いつか、ああいうふうに撮ってみたい)
それが、自分の原点だったと思う。
窓の外では、夕陽の角度が少しだけ変わっていた。
◇
文化祭1ヶ月前。
校内はどこか賑やかで、浮き足だっているようにみえた。
図書館の廊下の外から、模擬店の準備の音や誰かの笑い声が、
かすかに届いている。
机の上には、撮影計画と絵コンテ。それらをまとめたスケジュール表。
でも、マウスカーソルは止まったまま。
胸の奥に、言葉にならない重さだけが残っている。
(……本当に、彼女に頼むのか)
何度も考えた。映像のイメージは固まっている。
影の役は、彼女以外に考えられなかった。
(ちゃんと話したことなんて、ないのに)
図書室では何度か顔を合わせていた。
いつもふらっと現れて、好きな本を読みながら静かに過ごす人。
遠くの席から、「あ、来てるな」と思うだけだった。
名前は──知っている。
最初に出会った次の日、クラスメイトからそう呼ばれていた。
「音瀬しずく」
どこか透明で、でも強い響きがあった。
(……向こうは、オレの名前、知らないかもしれないな)
(ずっと前から、タイミングを見てた気がする。
でも──今日だけは、言えそうな気がした)
断られるかもしれない。それでも──
(言わなきゃ、何も始まらない)
足が自然と動く。
図書室の棚の間を抜け、奥の窓際に目をやると、そこに──しずくがいた。
制服のリボンはゆるく、髪は肩にふわりとかかるように、
やわらかいウェーブが揺れていた。
本を閉じ、ぼんやりと窓の外を見ている。
「……あ、あのさ」
しずくがゆっくり顔を上げる。
そして、ふっと笑った。
「やっほー、ユウくん。なんか、久しぶりやん?」
「……なんで、オレの名前……」
つい、声に出していた。
しずくは、少し笑った。
「え、だって──絵コンテに、“Yuu”ってサイン書いとったし」
(……あ)
悠は、小さく息を呑んだ。
たしかに、自分の名前を書いていた。
でも、それを見て、覚えていてくれたことに驚いた。
なんでもないように言う彼女に、なんだかこそばゆい気持ちになる。
「どうしたん?なんか話でもあるん?」
しずくが、軽く言葉を返す。
悠は、決めてきた言葉を、ゆっくりと口にする。
「文化祭で、ひとつ映像を出そうと思ってて──
もし、出てもらえたら……うれしいなって」
しずくは、目を丸くするでもなく、ゆるい口調で返す。
「え〜、ムリやって。演技とか、そんなんできんし。……恥ずかしいやん」
「あのさ……螺旋階段で撮ろうと思ってて」
ふいに、しずくのまつげが揺れた。
その言葉だけ、何かを揺らしたみたいに。
彼女は、そっと目を伏せた。
「……螺旋階段?」
悠は、少しためらいながら、続ける。
「顔は映さなくていいから。
影だけの出演で……“あの影の絵”を映像にしたいんだ」
しずくは、窓の外を見る。
陽が少し傾いていて、木々の間に光がちらちらと揺れていた。
──そして、微笑んだまま、いつもの調子に戻った声で。
「……うん。ま、いけるやろ。だいたい」
悠は、思わず肩の力が抜けた。
でも、胸の奥に確かに何かが灯った気がした。
◇
文化祭3週間前。
雨が止んだのは、放課後のチャイムが鳴ってからしばらくしてだった。
校舎の裏にある螺旋階段は、まだ濡れていて、
ところどころに水たまりができていた。
手すりの雫が、夕方の光を受けてきらりと光る。
沈みかけた太陽が、ゆっくりと雲の切れ間から顔を出しはじめていた。
風が木々を揺らし、葉のすれる音が柔らかく聞こえてくる。
遠くでカラスが一声鳴き、さらに奥の方からは、グラウンドの掛け声やホイッスルの音もかすかに響いていた。
悠は、三脚を立てたまま、空を見ていた。
焦ってはいない。ただ、できればこの光を逃したくない、そう思っていた。
「……待っててよかったかも」
傘をたたみながらそうつぶやいたとき、背後に足音が近づく。
しずくがいた。傘をたたみ、鞄を肩にかけたまま立っている。
少しだけ濡れた前髪の先で、雫が光っていた。
悠はちらりとその横顔を見る。
しずくはいつもと変わらないように見える。
でも、雨の日の彼女は、少しだけ静かだ。
声の調子も、目の奥の表情も、ほんのわずかに落ち着いている気がする。
気のせいかもしれない。でも、なんとなく、そんなふうに思えた。
「雨、止んだね」としずくが言った。
悠はうなずいた。「うん。……影、出るかな」
それを合図にしたように、雲の切れ間から光が射す。
鉄柵が、しずくの足元に長く、くっきりと影を落とした。
夕陽の色が、濡れた地面ににじんでいる。
鳥の声が近くの電線から聞こえ、どこか遠くでドラムの音が小さく鳴った。
悠は、小さく息を飲む。
「──お願い、していい?」
しずくは少し笑って、小さくうなずいた。
「……うん」
悠がカメラを構える。しずくは、すっと踊り場に立った。
録画ボタンを押すと、ピッと音がして、小さな赤いランプが点いた。
ただ、風が抜けていく音と、葉の揺れる気配だけがそこにあった。
しずくは、ゆっくりと一段ずつ、螺旋階段を上がっていく。
途中で、ふっと手すりに指先が触れる。何かを確かめるみたいに。
静かに、でも確かに。コンクリートの壁に、その影がゆっくりと伸びていく。
影だけなのに、ちゃんとそこに人がいるように見える。
悠は、カメラを覗きながら思った。
(……この人は、やっぱり──)
それ以上の言葉は、なぜか出てこなかった。
しずくの影が、光の中に静かに溶けていく。
その姿が、どうしようもなく美しかった。
◇
そして、文化祭当日。
視聴覚室。上映開始まで、あと15分。
悠は、視聴覚室の前方でプロジェクターのケーブルを確認していた。
何度もテストしたはずなのに、コネクタを触る指先は妙に落ち着かない。
(……誰も来なかったら、どうしよう)
自分の撮った映像が、誰にも届かなかったら、どうする──
そんな不安が、配線の間から漏れ出してくるようだった。
外からは、模擬店の呼び込みやライブの音がにぎやかに届く。
窓の向こう、下校坂の街路樹が赤く染まりはじめていて、
時折吹き抜ける風がカーテンの端をそっと揺らした。
視聴覚室の中は、それとは裏腹に、静かで冷たかった。
ひんやりした空気。蛍光灯の明かりが白くて、硬い。
その光に、スクリーンが無音で照らされている。
ドアが開く音に、悠は振り返った。
同じ学年、1年B組の、橘マリナ、宮坂あかり、佐久間翔太。
マリナは、中学の頃から有名だった。目立つ子で、いつも誰かと笑っていた。
話したことはないけれど、名前も顔も、自然と覚えていた。
あかりのことは、登校のときにフェリー乗り場から歩いてくるのを何度か見かけたことがある。
髪も制服もきちんとしていて、どこか控えめな雰囲気だけど、まわりに流される感じはない。
静かだけど、自分を持っているような――そんな印象が残っている。
翔太は、音楽室の前で何度か見かけたことがある。
よく、大きな楽器ケースを背負った姿を見かけることがあるが、
ギターなのかベースなのか、自分にはよくわからなかった。
廊下ですれ違っても、特に話すことはなかった。
三人とも、違うクラスで、名前と顔を知っている程度の関係だった。
3人は、空席の多い視聴覚室の、後方に座る。
マリナがぽつりとつぶやいた。
「しずくが、“ちょっと観にきて”って言うからさ。
なんだろって思ったけど……あの子、めっちゃ真顔でさ。
あんまそういうこと言わん子やのに」
あかりは、ふっと笑った。
「うん……ちょっと、かわいかったかも」
翔太は、ややふてくされた顔で言う。
「おれ、マリナに無理やり引っ張られて来たんやけど」
マリナは、すかさず返す。
「うっさいな。どーせ、見たらグッとくるやろ思て連れてきたんやって」
悠は、ケーブルをまとめる手をふと止めた。
思わず顔を上げて、3人のほうに目をやる。
(……しずくが、自分から……?)
信じられないような、でもどこかで期待していたような。
胸の奥が、不意にぐっと熱くなった。
数分後、もう一度ドアが開いた。
悠はプロジェクターの位置を微調整しながら、自然なふりで入り口に視線を向ける。
しずくが立っていた。
そして、その後ろに、二人の大人の男性がいた。
ひとりは、無精髭でラフなシャツ姿の男性。
しずくがその人を見て、ふわっと笑う。
「お父さん、ここで観てって」
その声に、悠は(ああ、この人が──)と察した。
もうひとりの男は、黒のTシャツにチャコールグレーのジャケット。
腕にはアップルウォッチ。ベルトはレザーに替えてある。
肩から掛けた黒いトートバッグには、控えめな『Reafnote』のロゴが見えた。
悠は、そちらの男にも目を向けた。
知らない人。だけど、なぜか遠くから来たような気配をまとっている。
視線が柔らかくて、でもどこか鋭かった。
……しずくは、なぜか中には入ってこなかった。
廊下の壁にもたれたまま、誰かを見送るように佇んでいた。
なぜ彼女が入ってこなかったのか、理由はわからない。
でも──なんとなく、その姿が“しずくらしい”気がした。
(……やっぱり、観ないんだ)
少しだけ、胸がきゅっと縮む。
でも、それは寂しさというより、静かな納得だった。
彼女は、映像の中に“全部”を置いていった。
だから、あとは自分の役目だと、悠は思った。
二人の男性が中に入り、静かに席に座る。
部屋の明かりが落ちる。
ファンの音だけが残った。
悠は、一度深呼吸してから、マウスを握り直した。
息を吸って、もう一度吐いて。それでも、指がすこし震えていた。
スクリーンにうっすら映る再生ボタンに、カーソルを重ねる。
クリック音が、部屋の中に小さく響いた。
◇
スクリーンに、階段が映し出される。
映像が静かに流れていく。
薄暗い螺旋階段。誰もいないはずの場所に、ひとつの影が現れる。
画面の奥から差し込む夕方の光が、コンクリートの壁を静かに照らしている。
少女の影は、ゆっくりと階段を上がっていく。
壁に沿って、細く、揺れながら、長く伸びていく。
ときおり立ち止まり、何かを探すように手すりに触れ、
角度を変えた影が、一瞬だけ別の形になる。
息づかいすら聞こえない空気の中で、
わずかに風が吹いたような気配だけが、画面に揺れる。
足音もなく、ただ光の粒だけが、時おりカメラのレンズをかすめる。
螺旋の途中、少女の影はふと寄りかかるように止まる。
その壁際には、誰かがかつて立っていたような、温度が残されていた。
影は、その余白に静かに重なり──しばらく、動かない。
まるで、何かを思い出しているようだった。
そしてまた、一歩ずつ、階段を上がりはじめる。
最後の踊り場にたどり着いたとき、影はふっと力を抜くように、
画面の端へとゆっくりと滲むように消えていった。
音楽もなく、台詞もない。
ただ、空気と光と影だけが、確かにそこにあった。
映像が終わり、スクリーンにゆっくりと明かりが戻る。
◇
静かな余韻。生徒たちの間に、小さなざわめきが生まれる。
そのとき、後方の席から、ぽつりと声がした。
「……いいね。影、ちゃんと残ってる」
その声の主は、ジャケットを着た男──
さっき、しずくの父親と一緒に来た、もうひとりの男だった。
悠はその横顔をちらりと見て、息を止めた。
悠は、その人の目がまだスクリーンに向いているのを見た。
悠は思わず背筋が伸びるような気がした。
胸の奥に、小さな熱のようなものが残っていた。
(影だけなのに、ちゃんと届いたんだ)
◇
視聴覚室を出た廊下。扉を出た瞬間、遠くから吹奏楽部の演奏がかすかに聞こえてきた。
誰かの笑い声。呼び込みのマイク。
ドアの外、廊下の壁にもたれていたしずくが、誰かと話している声が聞こえた。
さっきのジャケットの男だった。悠は自然なふりをしながら、そっとそちらに耳を傾ける。
「……しずく、画面の中でも、そのまんまやったな」
どこか落ち着いた声だった。穏やかというより、静かに何かを見つめるような響きがあった。
しずくが、ふっと笑った気配がした。
「だって、そうしかできんし。ていうか、ヒビキさん今日来る思わんかったわ」
“ヒビキ”という名前だけが、悠の耳に引っかかる。
誰だろう。しずくがそう呼ぶくらいだから、ただの来客ではなさそうだった。
「たまたま時間が空いてな。ちょっと、昔を思い出したくなっただけだよ」
男の声は、そう言って軽く笑ったようだった。
だがそのあとの一言には、どこか違う響きがあった。
「そうか。……ああいう絵か」
少しだけ間を置いて、男は静かに続けた。
「──どう残るんかなって、こういうの。見た人の中に」
会話はそれで終わった。
男はそれ以上何も言わず、静かに中へ入っていった。
足音も、目線も、どこか柔らかく、それでいて何かを測っているような気配があった。
悠はそっと息を吐いた。彼が誰なのかはわからない。でも、何かを見に来た人──そんな印象だけが、妙に強く残った。
父親が、しずくに声をかけた。
「……今日はお母さんの髪飾り、つけてるんだな」
「……うん。桜の時期じゃないけど」
「よく似合ってる」
「……ありがと」
しずくは髪に手を添え、すこしだけ目をそらした。
父親は、誰かを思い出すように、しずくの横顔を、静かに見ていた。
──少し間を置いて、父親がぽつりとつぶやく。
「……ライブ、いよいよ明日だな」
しずくは、うなずいてから、
「……うん。教えてくれて、ありがと」
ほんの一瞬だけ、手のひらを見つめてから、
「まだ指がちょっと痛い」
そう言って、ふっと笑った。
父は何も言わず、軽くうなずいた。
少し離れた場所では、マリナ、翔太、あかりが賑やかに話している。
マリナは手を叩いて笑いながら言った。
「え〜、遠山くんって中学一緒やったけど、あんな動画撮る人やって知らんかった〜!」
翔太は、ぼそっと言葉を落とす。
「……なんか、音がないのに、音が聴こえた気がした」
あかりは、小さくうなずいた。
「うん……すごかった。本気でやってる人って、映像だけでもわかるんだなって」
そんな中で、マリナの声が弾んだ。
「そういやさ、あした軽音部のライブあるんだよね。
梓先輩出るんだよねー、超楽しみ!」
マリナの隣にいた翔太が、わざとらしく肩をすくめる。
「それ、おれも出るんだけどさ」
「え、あんた出るんやったん? 知らんかったんやけど」
「なんでやねん。知っとけよ、せめて」
ふたりのやりとりに、あかりが小さく笑った。
その笑い声が、ほんの少しだけ、柔らかく感じた。
悠はそのやりとりを遠巻きに聞きながら、
ノートパソコンの電源を落とし、静かにケースにしまった。
にぎやかさの中に、どこか温度のある空気が流れていた。
(……知らないところで、誰かが見てくれてる)
(それって、ちょっと不思議で、悪くないかもしれない)
悠は、プロジェクターの蓋を閉めながら、スクリーンの方をちらりと見た。
そこに、しずくの影がまだ優しく揺れているような気がした。
廊下の奥にしずくの背中が見えた。
悠は、反射的に数歩、足を向ける。
しずくが振り返り、ほんの一瞬だけ目が合った。
「……ありがとう。やっぱり、君でよかった。」
しずくは、少し笑った。
「……なんか、昔のこと思い出したわ。
……こういうの、やっぱええなって思った」
声は軽くて、どこか照れていた。
しずくが何を思い出したのかはわからない。
でも、悠には、何かがちゃんと届いた気がした。
──次は、ギターをずっと続けてきた梓先輩の回。
積み重ねてきた音と、しずくとの出会いが、彼女の中でなにかを変えていきます。
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