第4話 ちゃんとしてないところが、逆にいいんよ

 放課後の図書室。

 校舎は坂の上にあって、窓の外には、夕方になると海のきらめきがちらりと覗く。

 7月の陽射しはすこしだけ鋭くなっていて、葉の緑が濃さを増していた。海からの風がときおり窓を揺らして、潮のにおいがほんのり漂ってくる。


 宮坂あかりは、図書室の奥の席で、そっとノートパソコンを開いた。

 ノートパソコンのヒンジがかすかに鳴って、その音が、静けさにすっと消えていく。

 古い木棚に囲まれたこの場所は、ふだんは落ち着くはずなのに、今日は少し居心地がちがった。


 電源プラグをコンセントに差し込む。

 天井近くには、白いWiFiのルーターが静かに点滅していた。

 校舎は古いけど、そういう設備ができたのは、県内でも早いほうだったらしい。

 沙美ヶ丘って、そういう学校だ。

 自由だけどきちんとした誰かの気配が、空気のどこかに残っている。


 でも、その“ちゃんと”に、自分がふさわしいかはわからない。

 そんなふうに思ってしまうから、きっと緊張しているんだ。


 イヤホンを差し込み、ゆっくりと呼吸を整える。

 そっと、オンライン会議アプリのアイコンをクリックする。パソコンの画面に映る自分の顔が、今日は少しだけこわばって見えた。

 画面の向こうの“社会人”に会うのは、これがはじめてだった。


 しずくさんの自宅のカフェを訪ねたとき、アルバイトの夏芽さんが紹介してくれた人。

 麻生理佳あそう りかさん。

 夏芽さんの大学の先輩で、今は音楽投稿サービス「Reafnote(リフノート)」を運営する会社のエンジニア。

 スマホで自分で作った音楽を投稿したり、誰かの曲を聴いたりできるサービスで、名前ぐらいは知っている。


(大人って、もっと遠い存在だと思ってた)


 画面越しでも、どこか穏やかで知的な雰囲気がある人だなって思った。そう感じた自分に、少し驚いた。

 あかりは、自分の進路のことをぎこちなく話し始める。


 理佳さんは、あかりの言葉を遮らず、「うん」「なるほど」と相槌を打ちながら、じっくり聞いてくれる。あかりは、祖父の介護の経験と、そのとき見た介護ロボットに憧れたことを話した。

 「技術で人を支える仕事がしたいんです。でも、それをちゃんと言葉にするのが、怖くて」

 理佳さんは、ほんの少し間を置いてから、やわらかくうなずいた。

「うん、わかるな。それって、すごく大事なことだから、ちゃんと言おうとすると、余計に怖いんですよね」

 それから、少しだけ笑って続ける。

「……でも、わたし、それを“怖い”って思える人の言葉は、信じられる気がします」

(……信じられる、って……)


 理佳さんが、ちらっと画面の外を見て、小声で「ちょっと待ってね……」と言ってふいに画面から外れた。子どもの声がした気がしたけど──。

 しばらくして、理佳さんが戻ってくる。

 あかりは、「失敗したらどうしようって思って……」と話しはじめた。

 理佳さんがうんうんと頷いたあと、やさしく話し始めた……ように見えるけど──声が、聞こえない?


「……あ、あの、すみません、麻生さん……たぶん、ミュート……かも……です」


 その直後、なにかに気づいたような理佳さんが、画面の向こうで照れたような笑顔になった。しばらくして声が聞こえてきた。


「あ……ミュートでした。すみません。子供が話しかけてきちゃって」

「……ふふっ」


「失敗、けっこうしてますよ。ミュート以外でも。ほんとに」

「そうなんですか?」

「うん、バグ出しちゃってお客さんのところに謝りに行ったりとか、領収書出し忘れて経理から連絡来ちゃったりとか。

 大事なデータを扱うこともあるんですけど、そういうときはいつも、失敗したらどうしよう、ってドキドキしながらやってます。」

「それは意外でした……」

「うん。ちゃんとしてるように見せてるだけ、かも。でも、同じチームのメンバーが助けてくれたりして、なんとかなってるんですよ」


 画面越しの理佳さんは、やさしく笑っていた。


(ちゃんとしてないのに、ちゃんとしてる大人って、いるんだ……)


 理佳さんは、少し笑って言った。


「夜は、子どもが寝たあとにちょっと作業することもありますけど、無理な日はもう潔く寝ちゃいます。

 夫もテレワークなので、朝の対応はそっちに任せたり。

 まあ、いつもバタバタだけど、なんとか回してるって感じですね」


 肩の力が抜けた言い方だった。

“ちゃんとしてない”のに、まっすぐ立ってる――そんな感じがした。


 あかりは、思わず口を開いた。


「……わたし、理系に進みたい気持ちはあるんです。

 でも、ずっと迷ってて……自信がないというか……」


 言いながら、ふと気づいた。

 なにが不安だったのか、自分でもうまく言えない。


 少し間を置いて、あかりは目を伏せたまま続ける。


「……自分で言うのも変なんですけど、“理系女子”って呼ばれるの、あんまり好きじゃないんです。

 特別なわけじゃないのに、特別でないといけないというか、ちゃんとしてないといけない、と思ってしまって、ちょっと……」


 理佳さんは、ふわっと笑った。


「わかります。

 わたしも“ママさんエンジニア”って言われるの、なんか、くすぐったいんですよね。

 ただの“エンジニア”でいいのに、って。

 みんな、悪気がないことはわかってるんですけどね」


 画面越しなのに、その笑顔がまっすぐ届いた気がした。

 あかりの中で、なにかが静かに剥がれた。


「……なんか、思ってたよりずっと現実的でした。

 理佳さんみたいな人が、本当に働いてる世界があるって知れて、ちょっと、安心したというか。

 遠い場所じゃなくて、自分の延長線にあるのかもしれないって思えたんです」


 あかりは、祖父にもらった万年筆をぎゅっと握りしめた。

 小さな音がした。それは、何かが始まる前の音のようだった。


「わたし、やってみたいです。そっちの世界。

 まだ全然わかってないけど、それでも──やってみたいと思いました」


 理佳さんは、まぶしそうに微笑んだ。

「うん、それでじゅうぶんですよ。──最初は“やってみたい”だけで、ぜんぜんいいんです。わたしも、大変なこともあったし、最初からうまくいってたわけじゃなかったけど、ユーザーからのうれしそうなコメントを見たら、“あ、ちゃんと届いたんだ”、って思って、頑張れるんです」


 あかりは、小さくうなずいた。

 その言葉が、胸の奥に静かにしみていくのを感じた。

 理佳さんは、少しだけ間を置いて、照れたように笑った。


「……そういえば、うちの会社、社長もちょっと変わってるんですよ。リフノートっていう会社で、音楽系のウェブサービスを運営してるんですけど──」

「あの人、昔は軽音部でバンドやってたらしくて。開発チームと話してるときに、

“そのプロジェクト、もっとグルーヴできるんじゃない?”とか平気で言うんです。

 エンジニアの仕事も、音のバランスみたいに見てるんだって。

 わたしたちは、いつもポカーンとしてるんですけど」


 あかりは、思わず画面越しに小さく笑ってしまった。


 「……いまはね、制度もしっかりしてて、働きやすい会社になってますけど」

 理佳さんは、どこか懐かしそうに笑った。

 「昔はけっこう大変だったみたいですよ。資金ギリギリとか、人が大勢辞めちゃったりとか。けんかも多かったらしくて」

 一拍置いて、言葉を足す。

 「それでも、社長はずっと、夢だけはあきらめなかったんですよね。

 なんか、そういうのっていいなって思ってて。いまでも、新しいことをやりたいって、よく私たちに話してくるんです」

 

 画面の向こうで、小さな声がまた何かを話しかけている気配がした。

 理佳さんは、そちらに目をやって、やさしい声をかける。

 「うん……もうすぐ終わるからね」

 それから、あかりの方へ向き直って、静かに続けた。 

 「大人だって、ちゃんとしてるわけじゃないんです。みんな、迷いながら進んでるだけで」


 あかりは、ふと目を伏せたまま、ぽつりとつぶやいた。

 「……そういうの、いいなって……わたしも、思いました」



 数日後の夕方。


 カフェ「とおりあめ」では、窓から柔らかい光が差し込んでいた。

 坂を少し登った場所にあるその店からは、石段越しに街並みの屋根が見渡せて、遠くに海がきらきらと揺れていた。

 潮風と夕立のなごりの湿気が入り混じるような、夏の匂い。


 あかりは、夏芽さんと再会する。夏芽さんは、就活が一段落したような雰囲気で、しずくと談笑していた。


「この前、リカさん……麻生さんと話したんです」

「おお、どうだった?」

「……すごく優しかったです。……そういえば、あのときミュートになってました。あれが、噂の──」

「……ミュート芸ですか?」

 夏芽さんが吹き出す。

「そうそう、それでこそリカさん、って感じよね。あの人、ちゃんとしてないところが、逆にいいんよ」

「社長さんのことも聞きました。このお店によく来られてるって聞きました」

「ヒビキさんのことか──そういえばこないだヒビキさんとゲンさんが話してたんだけどさ──」


 夏芽さんがふと思い出したように言う。


「音楽とか映像とか、技術が人の世界をちょっとだけ変える瞬間があるんだって。そういう場所を作りたいって。昔から言ってるらしい」

「……世界を変える、場所……」

「まあ、口に出すとちょっと恥ずかしいけどね。でも、そういう人みたいよ、ヒビキさんって」

「リカさんのことも、凄く信頼してるみたい。あの人がいなくなったら会社をたたむ、とか言ってたな。半分冗談っぽかったけど半分本気みたいな感じだったな」

 夏芽さんは、ちょっとだけ憧れ混じりに言った。


 しずくさんがカウンターの奥から、ちらっと顔を出す。注文を取るでもなく、でも不思議と、そこにいるのが自然に見える。そんな存在だった。

 しずくさんは、いたずらっぽく夏芽さんに声をかけてかける。

「夏芽さん、就活の話また誰かに語っとる〜?」

「語ってないし」

「うち、聞いとるだけでおもろいし〜」

 あかりは、そのやりとりを少し羨ましそうに見ていた。


 しずくさんは、少し体を乗り出して、にっと笑った。


 「うちも、いっつも迷っとるけどさ……」

 「……迷いながら歩くのも、けっこう悪くないで?」

 少し照れたように笑ったあと、ふいに視線を逸らす。

 その笑いは、どこか“自分にも言い聞かせるような”響きがあった。 


(……そうなんだ。迷ってる人にしか見えない景色が、あるのかもしれない)

 だからこの人の言葉は、少し優しくて、ちょっとだけ強いんだ。


 帰り道。


 石畳の坂道をゆっくりと下りながら、あかりはバッグから万年筆を取り出した。

 遠くに海の気配がして、風が少しだけ潮のにおいを運んできた。

 あかりは、ペン先に光をすべらせるように見つめた。

 迷っていた輪郭は、もうどこかへ消えていた。

(わたしも、自分の言葉で書いていきたい。ちゃんとしてなくても、それでも、わたしのままで)

 景色は変わっていないはずなのに、見え方だけが違っていた。

 あかりは小さくうなずいて、万年筆をしっかりと握り直した。



  ──次は、文化祭に向けて動き出す悠くんのお話。

 映像研究部に入部した悠くんは、しずくにあるお願いをします。彼の才能が静かに明らかになっていくお話です。

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