第3話 通り雨みたいな場所

 音瀬しずくの家には──

 うちのお父さん(音瀬弦おとせ げん)は、元プロのベーシストだった。昔は、全国回ってライブしてた人。バンドやってた頃の写真とか、雑誌の切り抜きとか──カフェ「とおりあめ」の奥の、引き出しの中に、こっそり残ってる。

 でも、あんまりそういう話はしない。いまは、この海沿いの街で小さなカフェをやってる。お母さんが夢だった場所。その夢を、お父さんが引き継いだ店。


 坂を少し登ったところ。古い石段沿いにある建物。

 線路をくぐって、お寺へ続く小道の方へ少し登った先。猫の通り道のそばにあるその店は、まばらに観光客が行き交う道沿いに、ひっそりと灯る。

 古い木のドアと、小さなランプが目印の店。

 商店街のにぎわいからは離れていて、ふっと音が静かになる場所。

 瀬戸内海の潮のにおいと、コーヒーの香りが混ざりあって、なんだか落ち着く。

 言葉にしにくいけど──そういう、ちょっと不思議な場所。

 木の看板には、やわらかい手書きの文字で「とおりあめ」と書かれている。


 中は、わりと静か。

 木の床で、本棚には昔の小説が並んでて、壁には古いポスターとか写真が貼ってある。

 小さな音でジャズが流れてて、いつもゆったりした時間が流れてる。


 うちも、週に何回かはここでバイト代もらって働いてる。制服より、こっちのエプロンの方が動きやすくて楽。

 カウンターの中で、カップを拭きながら、お父さんを横目に見る。あいかわらず、寡黙で無骨。だけど、豆の挽き方とか、お湯の温度とか、淹れ終わるまでの時間とか、そういうとこだけは無駄に細かい。


 カラン、とベルの音。

 常連のおじさんが入ってくる。隅っこのいつもの席にゆっくり腰掛ける。

「夏芽さん、今日は来とるんか?就活いそがしそうやけど」

「んー、さっき来とったで。今、裏でなんかゴソゴソやっとるっぽい」

「……そうかぁ」

 おじさんは、少しだけ息をついてから言葉を継いだ。

「うちの娘もなぁ、就活、大変そうにしとったんよなぁ」

 それきり黙って、手元の新聞を広げる。

 ページをめくる音だけが、ぽつんと響いた。

 夏芽さんは、大学3年生で、大学に入ったころから「とおりあめ」でバイトしてくれてる人。最近、就活が忙しくてあまり来られないみたいやけど……こないだ夏芽さん、OB訪問で会った先輩の話、めっちゃ熱く語ってたな。大人って感じするわ、ああいうの。

 うちは、ちょっとだけあの人のこと、うらやましいって思う。ちゃんと、自分で考えて、自分で動いてる感じがするから。


 常連のおじさんが帰って、少し静かになったころ。カウンターのグラスを拭いてたら、入口のベルが鳴った。

 顔を上げた瞬間、ふと見覚えのあるシルエットが目に入った。

(……え、あかりちゃん?)

 ちょっとだけ目が合って、あっちも気まずそうにこっち見た。

「え、マジ来たん?」

 つい声が出てしまって、我ながらちょっとテンション上がってた。

「てか、うちがここでバイトしてんの、よー覚えとったな〜」

 あかりちゃんは静かに席に座ったあと、小さく息を吐いてから言った。

「……この前は、ありがとう」

「んー、別にうちは何もしとらんけどね」

「なんか……この前、話したこと、ちゃんと聞いてくれてる人がいるって思ったら……ちょっと、会いたくなったんだ」

「ありがと。……ま、好きなだけゆっくりしてって」

「注文、なんにする?」

「……えっと、その……チョコレートラテ、お願いします」


 夏芽さんが、カウンターの奥から顔を出した。

「ん?しずくちゃんの友達?友達が来るってめずらしくない?」

「うちだって、友達ぐらいおるし」

 それを見ていたあかりちゃんが、小さく笑って話し出す。

「このあいだ、進路のことで、話を聞いてもらったんです。やりたいことはあるんですけど、自信がなくて」

 あかりちゃんの不安な声に、夏芽さんの顔がふっとやわらかくなった気がした。

「あー、それだったら、うちの先輩に、おもしろい人いるよ〜。たぶん、そういう話、得意。よかったら、今度連絡先渡すよ」

 自分も就活でいろいろあるはずなのに、そういうこと言うときの夏芽さん、やたら自信ありそうに見える。

 でも──そういうとこが、夏芽さんのええところやと思う。

 なんか、うちの周りって、そういう“ちょっとだけ先に進んどる人”がおる気がする。


 夜。もうすぐ閉店。

 いつのまにか雨が降り出してた。雨がぽつぽつ窓に当たる音が聞こえてる。

 ちょうど片づけが終わりそうなころ、またベルの音がする。

 ふらっと現れたのは、久遠響くおん ひびきさん。

 お父さんと高校のときからの友達で、一緒に軽音部でバンドやってたらしい。いまは「リフノート」って会社の社長やってる人。

 自分の作った曲や歌を、スマホで投稿できるサービスやってる会社みたいで、音楽好きな子には、けっこう人気らしい。クラスの子が「昨日Reafnoteにアップされた曲、やばすぎ」とか言ってたな。


 響さんは、カウンターの奥にいるお父さんに軽い調子で声をかける。

「閉店間際でもブラックは頼んでいいって聞いたけど?」

「……聞いたの誰だ?」

「千春さん。ってことにしとく」

「……そういえば、そんなこと言ってたな」

 うちは、響さんとお父さんがそんなふうに話しているのを聞きながら、黙ってドリッパーにゆっくりお湯を落としてく。

 響さんは、うちから見ると、ちょっとズルい大人。……いい意味で。喋りすぎで、適当で、でもなんか本気で生きてる感じがする人。


 浅煎り豆で淹れたブラックコーヒーをカウンター越しに差し出す。響さんは、何も言わずに受け取ると、

 少しだけ視線を向けて、ふっと笑った。

「しずく、お前さ、前はもっとおとなしめじゃなかったっけ?」

「えー、今もおとなしいやん?」

 響さんはコーヒーをひとくち口にして、窓の外に視線を流す。

「……じゃ、そういうことに、しとこか」

 それ以上、特に何も言わない。

 でも、それがちょうどよかった。

 いつもの静かな空気が、また戻ってくる。

「ここ、変わんないよな。雨の音が似合う空気、ちゃんと残ってる」

 ……それ、ちょっとズルい言い方。でも、そう思う。

「お父さん、昔はもっと喋ってたん?」

「さあね」

 少しだけ、カップの音が響いて。

「でも、音はちゃんと残ってる。そういう場所だから、ここは」


 夜。雨はいつのまにか上がってた。

 響さんが帰ったあと、お店の片付けを終えてアコースティックギターを取り出す。

 お母さんが昔よく弾いとったやつ。ギターはあまり上手じゃなかったけど、楽しそうに歌ってて、声がとてもきれいやった。そんな姿を、なんかよく覚えとる。

 うちは、小さいころからちょっとずつ音楽に触れてきた。

 お父さんは、何も言わないけど、チューニングが違うとすぐ気づく。

「チューニング、半音ずれてるぞ」

「……やっぱ細かい」


 苦笑しながら、ペグをほんの少し回して、音を直す。

(……そういうとこ、まだプロやん)


 カフェ「とおりあめ」の静かな夜。

 ランプの灯りがテーブルをぼんやり照らして、窓の外には、通りをゆっくり通り過ぎる風と、海のにおい。チューニングを合わせたギターの音が、空間にじわっと溶けていく。

 この店は、通り雨みたいな場所。ふっと降って、ふっと止んで──でも、何かがちゃんと残る。


 そんなこの場所が、うちはけっこう好き。



  ──次は、またあかりちゃんの話です。

 ある人との出会いが、彼女の進路に、あたたかい風を吹かせます。

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