第2話 わかんないまま、進んでもいい

 定期テストが終わったばかりの教室。1年B組。

 校舎は、坂の上のほうにある。

 教室の窓からは、天気のいい日には、海がちらっと見える。

 遠くの島の影が、かすかに揺れていることもある。そのあいだを、小さなフェリーが、ゆっくり横切っていくのが見える日もある。

 木々の新緑が、陽射しを受けて、まぶしく揺れていた。


 宮坂みやさかあかりは、そんな風景には目もくれず、

机にノートを広げたまま静かに文字を書き込んでいた。


 県立沙美ヶ丘けんりつさみがおか高校は、わりと自由な学校だ。

 服装や髪型の決まりとかも、ほとんどない。

 昔から進学実績がある学校で、先生たちもあまり細かいことは言わない。

 文化祭も、生徒が自分たちで考えて、動かしてる。

 近所のおばさんが「いい学校よねぇ」ってよく言ってるし、親もなんだかんだ、ここに通ってることを喜んでる気がする。


 中学のときの友達で、他の高校に進んでいった子が、言ってた。

「沙美高って、自由でいいよねー。うちなんか校則厳しくってさ」

 前髪の長さとか、カーディガンの色とか、持ち物の指定まで決まってるらしい。

 そのときはじめて、「ここって自由なんだな」って、ちゃんと気づいた気がする。


 自分で考えて、自分で決めるのが当たり前──そういう空気が、なんとなくここにはある。

 だからこそ、誰かの正解をなぞるだけじゃ、ここでは居場所を作れない。

 まだ、自分の答えが見つかってない私には、少し息が詰まるときもある。

 まわりは、友達同士の賑やかな声。進路の話や、試験の結果、何気ない笑い声が飛び交っている。

 でも、その輪の中に自分は入っていない。入れないわけじゃない。入らないだけだ。自然と、そうなっている距離感。


(……わたし、本当に理系に行けるのかな)


 行きたい理由はある。

 でも、それを誰かに言うのが、なんだか怖かった。

 万年筆を持つ手が止まる。インクを補充したばかりのペン先が、細い光を受けて鈍く光っていた。

「理系ってさ、向いてる子とそうじゃない子いるよね」

「なんか男子って、そういうの得意そうなイメージない?」

「理系クラス行ったら、男子ばっかりになりそう」

「え〜、それちょっと無理かも〜」

 隣の席の女子たちが、何気なく話す声が耳に入る。

 あかりは、小さくうなずいた。胸の奥に、ざらりとしたものが引っかかっていた。

(向いてるとか、向いてないとか……そんなの、どうやって決めるんだろう)


 テストが終わった教室の空気は、なんとなくだらっとしていた。

 黒板にはもう何も書かれてなくて、担任の鶴見先生が机の上のプリントをゆっくり揃えていた。

「“正しい答え”ってやつは、時々息苦しいんよ」

 ぼそっとつぶやいた先生の声に、何人かが笑い声を上げる。

「また名言っぽいこと言ってる〜」と声を飛ばす生徒もいた。

 でも、先生は続けた。

「この学校、昔からそうなんや。戦後すぐにできてな。“上から管理せず、自分で考える子を育てよう”って──当時の先生らが、そういう方針にしたらしい」

「だからやろな。服装も、髪型も、ほとんど何も言われん。文化祭も、生徒が勝手に動かす。……でも、自由ってのは、楽なことやないんよ。ぜんぶ、自分で考えて、自分で責任取るってことやけんね」

 先生はプリントの角を軽く揃えると、そのまま何も言わず、ゆっくりと前を向いた。

 周囲の生徒たちは、なんとなく流していたけど、あかりはその言葉を聞いた瞬間、ふと手元のペンが止まった。


 ふと、少し離れた席のマリナちゃんの声が耳に届く。

 マリナちゃんは、いかにも陽キャなギャルって感じ。テンション高めで、わたしとは別の世界の人みたい。

「ねーしずく、今日の英語マジむずくなかった?」

「んー、ざーっとしか読んでない」

「逆に強すぎ」

「でも模試はガチるからね、うち」

 二人はあっけらかんと笑っている。

(……すごいな、この子たち)

 わたしとは、違う。少なくとも、そう見えてしまう。

 髪は明るい色に染めてて、リボンも制服もゆるめに着崩してて。

 そういうのが、ちゃんと似合ってる。迷いがなくて、自分の言葉で笑っている。

 わたしなんか、どこにでもいる、普通の女子高生で。きっと、向こうから見たら、目立たない存在なんだろうな。


 中庭のベンチ。古い石畳と、少し年季の入った校舎の外壁。

 そこに、やわらかい木漏れ日が風にゆらゆらと揺れていた。

 近くにはツツジが咲いていて、甘い香りがふわりと風に乗っていた。

 あかりは万年筆の試し書きをしていた。少し強めの風が、メモ用紙をふわりとめくる。

「あ、それ飛んでくかも」

 誰かが、紙をそっと押さえてくれた。

 指先だけが、袖の長いカーディガンから少しだけ覗いている。

 淡い色のネイルが、光を拾って小さくきらっと光った。

 見上げた先にいたのは──知っている顔だった。

 クラスメイト。音瀬おとせしずくさん。

 クラスでも、ちょっと目立つ人。


 金色の髪は、ゆるくウェーブがかかっていて。カーディガンをくしゅっと羽織っていた。

 どこか“ちょっと昔のギャル”みたいな雰囲気。

 なのに、変じゃない。むしろ、似合ってた。


 でも、声をかけられたのは、これが初めてだった。

(……こんなふうに話す人なんだ)


 しずくさんは、紙を拾って差し出してくれる。

「……ありがとう」

「字、きれいじゃん」

「え、そんなこと……ないです」

「いや、あるある。うち、けっこうそういうの見るの得意」

 しずくさんは、あかりの隣に腰を下ろす。少しだけ距離をあけて。

「……それって万年筆?好きで使ってるん?」

「うん……これは、祖父にもらったもので。……小学生のとき最初は全然字が上手く書けなくて。おじいちゃん、けっこう厳しかったから、何回も練習させられた。泣きそうになったこともあるけど……でも、気づいたら好きになってたんだ、書くの」

 言葉に詰まりながらも、あかりは静かに語り始めた。


 祖父が入院していたとき、母や看護師さんが大変そうに世話をしていた。

 毎日、当たり前のように。でも、やっぱり大変そうだった。

 そんなとき、介護用のロボットが導入された。動きはぎこちないところもあったけど、それでも、祖父は嬉しそうにしていた。

 母や看護師さんの負担も、少しだけ減った気がした。


 技術って、人を助けることができるんだ──そのとき、そう思った。


「だから、わたし、技術で人を支える仕事がしたい。……けど、それをちゃんと言葉にするのは、なんか怖くて」

 進路のことを考えすぎて、わからなくなる。理系に進みたい理由も、もっとちゃんと言いたいのに。


 しずくは、木漏れ日の向こうに目を細める。

「いいと思う、そういうの」

 少し間をおいてから、ぽつりと続けた。

「わかんないままでも、動いとると、なんか拾えることあるけん」

「え……?」

「止まっとるより、ちょっと進んでみたらいいんよ。だいたい」

 しずくは空を見上げて、まぶしそうに目を細めた。

 その目に映っていたのは──あかりには、わからなかったけれど。


 あの言い方、なんでだろう。力が入っていないのに、胸の奥に残った。

「どっかで読んだ。悩んでる人の方が、見てる景色が多い、って。……うろ覚えだけど」

 ふいに視線を感じて、顔を上げると──しずくさんは、あいかわらずぼんやりしているように見えた。でも、たしかに、今はこっちを見てくれてる気がした。

 わたしの目には、まばたきの動きが、ほんの少しだけ、ゆっくりに映った。

(この人、きっと……わたしの“気づいてないこと”まで、見えてる)


 また、話したいな──

 ふと、そんなふうに思った。

 言葉にできないことでも、何かをわかってくれるような人。

 今はまだうまく話せなくても、また会えたら、もう少し、自分のことを話せる気がした。

 放課後の光の中、風がそっとページをめくった。



 夕方。坂をくだる帰り道。

 街並みのむこうに、ゆっくりと光が傾いていく。風が少しだけ潮の匂いを運んでくる。軒先に干された洗濯物がゆれて、猫が細い路地の向こうをゆっくり横切っていく。

 あかりは一人で歩きながら、バッグから万年筆を取り出し、ペン先に滲んだインクをそっと見つめる。

 それが、自分の中にある“まだ言葉にならない何か”の形を映しているような気がして。


(……わたし、本当は──ちゃんと理由があって、理系に行きたいって思ってる。でも、それを言葉にするのが、ちょっとだけ、こわい)


 あかりは、ペン先のインクに光が反射してゆらめくのを、じっと見つめた。

 それは、自分の中に眠っている“輪郭のない思い”のようにも見えた。


 ふと空を見上げた。夕陽に照らされた雲が、薄くオレンジに染まりながら、ゆっくりと色を変えていた。

 あかりは小さく息を吐き、歩き出す。

 誰にも気づかれないけど、きっと、今日は昨日と違う。


 ……それでも、ちゃんと前に進める気がした。


  ──次は、しずくの家のカフェでのお話。

 しずくを取り巻く大人たちの姿が描かれます。そして、あかりがしずくのお店を訪ねることで、ある出会いのきっかけが生まれるお話です。

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