風はどこかで眠っている
空付 碧
全て眠っている
何もかもが嫌になった、火曜日の16時53分。私はコンビニでありったけのお菓子とお茶を買って、リュックに詰めて、家に帰った。
「ステファニー」玄関から名前を呼ぶと、こちらに向かって全力で愛犬が走って迎えてくれた。
「おかえりご主人!」
「ただいま。ちょっと出掛けるよ、準備しよう」
「えっ!?散歩!?」
ステファニーはその場でクルクル回りだす。リードを持ってつけてあげると、ちょっとお行儀よくなった。そういう意味では、この子は賢い。
ステファニーは雑種だ。「なんでステファニーって名前なの?」と本犬に聞かれた時、「君の毛並みが灰色で綺麗だからだよ」と答えた。すると、嬉しそうにしっぽを振って「僕は灰色なんだね!!」と言っていた。どうしてそこで喜んだのか、未だに分からない。
愛犬は私の横を並んで歩く。決して先導しない。そして時々私を見上げる。
「今日はどこまで行くの?」
「行ける所まで」
「じゃあ、長い旅路だ」
本当にその通りだった。私は、正直ほんの少しだけこの子と心中したかった。桜の並木を歩きながら、しっぽを振って調子よく歩くこの子は、いつも健気に生きている。
「夏が来る前の、いい匂いだね」
「そうかな」
「うん。初夏の匂い」
ちょっと空気を意識して吸ってみる。排気ガスの匂いしか分からなかった。と、犬が立ち止まる。
「ご主人、あの人優しそう!」
向かってきてたのは、目上そうなご婦人だった。ステファニーはひとつ吠えた。しっぽを振って、上機嫌で吠えた。
「すみません」
私は謝って、そそくさと歩き出す。相棒も一緒に歩き出す。
「なんで謝ったの?」
「君が吠えたからだよ」
「僕は挨拶しただけだよ、こんにちはって」
「でもね、犬が吠えたら人間はびっくりするよ。何か自分に攻撃するんじゃないかって」
「人間同士は挨拶するのに?」
「それはコミュニケーション」
「納得できないな」
てくてく歩きながら、呟いている。
「言わないと、どう思うかなんて誰にもわかんないよ」
びっくりして、愛犬を、ステファニーを見た。小さな生き物はこちらを見上げてくる。
「だって、僕らの考えてることと誰かが考えることは一緒じゃない。憶測で進むのは、僕は嫌い」
「ステファニー、何言ってるの?」
愛犬はちらりとこちらを見る。
「ご主人、今日嫌なことがあったでしょ?なんでこんな事言われないといけないのかって、どうして私がって、思ったでしょ」
「……うん」
「ご主人に物を言った人の考えが、必ずご主人の受け止めた考えが一緒かなんてわかんないよ。だから、憶測なんかで悲しまないで、元気だして」
この犬は、愚直で、賢かった。私よりずっと、賢い。
「ご主人、泣かないで」
「泣いてたら変かな」
「ご主人の泣く理由はわかんないけど、変だと僕は思わないよ。でも、泣いてたら前が見えないから、ベンチでお茶を飲もうよ。僕も喉が渇いたんだ」
そう促されて、近くのベンチに座る。ステファニー用のお菓子を出して、私もクッキーをかじる。
「風が気持ちいい」
私がぼそりと言うと、犬は鳴いた。ふむ、とお菓子をもう少しあげる。
「ご主人は、風は何色だと思う?」
「色?匂いじゃなくて?」
「匂いで色ってわかるでしょ?」
「無色に見えるけど」
ステファニーは、自分の鼻をよくよく舐めた。
「僕は、いっぱい見える。歩く度に色が変わるよ。それがとっても好きなんだ」
そして私の顔を見た。
「でも僕は、ご主人から吹いてくる、今の灰色が好き」
「……こんな汚れた気持ちに色が見えるの?」
「うん。僕は、ご主人が汚れた気持ちって言った色がそんなに悪い色じゃないと思う」
そしてしっぽを振る。
「僕は灰色って、いい色だと思うよ。だって僕は灰色だからね」
なんだか、よく分からないけど、愛犬を抱きしめた。犬特有の、獣のような匂いがする。
「ご主人はきっと、僕がいなくても、自分が今どの色の中にいるかわかるようになるよ。それまで、僕が教えてあげる」
「君はいつもおばかさんなのに」
「ご主人の相棒は、僕じゃないとね」
答えになっていなかったが、顔を上げると涙をぺろぺろ舐められた。
「私が最初に知ったのは、悪くない灰色ってことだね」
「ステファニーだね」
「ステファニーではないよ」
「どうして!?」
頭を撫でて、誤魔化す。
私の生きて見えてる世界の色は、悪くないなと思えてきて、ちょっと気分が良くなって帰ったのは、火曜日の20時8分だった。
「晩御飯!!」
「お菓子食べたでしょ」
「えぇ!?」
足を拭いてやってる愛犬の色が少し見えた。
「でも、僕は食べたいよ!!」
ふわりと浮き上がった色は藍色で、風のように私に届いた。
「バナナでも食べようかね」
「最高!」
僕らはそうやって、生きることにした。
風はどこかで眠っている 空付 碧 @learine
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