第13 話 『ネトラレ宣言、炎上未遂。アイドルの恋は誰のもの?』
物販コーナーは、ステージの余熱がまだ残る薄暗い廊下を抜けた先にあった。
L字に並べられた長机の上には、アクスタ、缶バッジ、チェキ券、るるの私物風ミラー、さらに当日限定の“直筆ありがとうメモ”が並んでいた。
机の裏、簡易カウンターに立った慎吾の手は、すでに汗で滑りそうになっていた。
「お、お一つずつでよろしいですか?」
「……じゃあ缶バッジコンプで。あと、チェキ3枚ね。あ、これ、5秒密着でお願いします」
「か、かしこまりました……!」
差し出された札束の厚みに、喉がひくつく。
受け取る手が震えるのを、バレないようにレジ袋に隠した。
その奥、すでに10人近いオタクが、るるの前でチェキ待機中だった。
「るるちゃん~っ、今日も天使……!」
「ねぇ、今日は俺のこと、覚えてくれてた?」
「うちわ、るるちゃんの笑顔プリントしてきたの、見えた?」
るるは、完璧に対応していた。
目を見て、名前を呼び、笑顔を崩さず、手を重ね、声のトーンすら相手に合わせて微調整する。
シャッターが切られる直前、ふいに小さくつぶやく。
「……目、逸らさないで。今日の笑顔、あなただけだよ?」
その一言で、ファンの心は一撃で撃ち抜かれる。
小道具のハートクッションを抱え、顎を乗せるポーズ。
ファンの肩にちょこんと頭を預ける“甘え角度”。
微笑みのバリエーションは五十を超え、声のトーンと仕草の組み合わせは百を超える。
るるは、ただのアイドルじゃなかった。
——“依存される覚悟を背負った、魔性の女”だった。
(……すごい)
慎吾は物販の釣銭を渡しながら、思った。
笑顔で心を抉ってくる。
あんな“好かれてると錯覚させる笑顔”を、何十人にも、何時間にも渡って続けられるなんて――。
「三宅さん、釣銭遅い」
後ろからメイが低く囁いた。
今日のメイは白シャツに黒スラックス。ジャケットすら着ていないのに、“ただ者じゃない”圧があった。
「はい、すみません……!」
「るるのファンはね、“夢を買ってる”の。現実のノイズを見せた瞬間、離れる」
メイはそう言って、手際よく紙袋に缶バッジとポスターを詰め込んだ。
「だから私たちは、“夢の露店商”なのよ」
慎吾は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「夢の、露店商……」
そのときだった。
客列のざわめきが、明らかに変わった。
「おい……あのスタッフ、慎吾だろ?」
「るるの彼氏……マジで本人来てるやん……!」
——そして、その場の空気を割くように、一人のオタクが慎吾を指差した。
小柄で眼鏡、Tシャツの袖をぎゅっと握りしめた“るる命”のコア勢。頬は赤く、目は潤んでいた。
「……ねえ、あんたが慎吾なの?」
慎吾は、一歩たじろいだ。
「……そうだけど……」
その瞬間、コアファンの目が赤く染まる。
「俺たちはさ……ずっとるるちゃんを応援してきたんだよ。泣いてる姿も、笑ってる顔も、汗だくで頑張ってるライブも、ずっと見てきた!」
怒鳴り声ではなかった。けれど、その言葉には剥き出しの感情がこもっていた。
「俺たちがどれだけ“好き”を積み重ねてきたか、あんたにわかるのかよ……っ!」
その想いは、嫉妬でも独占欲でもなかった。ただ、“愛されている”という立場への苦しさがにじんでいた。
慎吾は黙って、ファンの視線を受け止めた。
そして、言った。
「……わかるよ。わかる。……俺も、同じ気持ちだから」
ファンの目が揺れる。
「……俺も、るるを好きなんだ。愛してる。だからこそ、あいつがアイドルでいる限り、俺はその夢を壊さないって決めた」
「……“表には出ない”って決めてたけど、今日だけはちゃんと答える」
慎吾は、静かに胸に手を当てる。
「俺は、姫野るるを、心から愛してる」
沈黙。
そしてその空気を切り裂くように、るるが現れる。
「……ふふっ。言っちゃったね」
ファンの前に立ち、るるは真っすぐに言葉を続けた。
「私も、慎吾くんのこと、愛してるよ。嘘じゃない。ちゃんと、本気で」
ファンたちの間に、ざわめきと動揺が走る。
「でもね——」
るるは視線を向けたファン一人ひとりに、微笑みかけるように言った。
「みんなのことも、本当に大切だよ。だって私は、みんなに愛されて、ここに立ってる。だから私は、どっちも裏切らない」
そして、にっこりと笑ってこう続けた。
「だから、私、ネトラレ系アイドルに転向しま〜すっ☆」
——沈黙。
ファンたちの脳内が、一瞬でフリーズする。
「彼氏がいても、アイドルやっていいんだよ。だって、私はステージの上では、みんなのものなんだからっ」
るるは、手元のチェキ券を握りしめたコアファンの顔を覗きこむように言った。
「その分、たくさん会いに来てね? ……好きでいてくれますか?」
「……っく……じゃあ、俺も……俺だって……もっと、るるちゃんの支えになりたい……!」
「ありがとう。……その気持ちが、もう十分、支えだよ?」
そう言って、るるは彼の手をぎゅっと握った。
その瞬間、会場の空気が変わった。
怒号はなかった。代わりに、拍手が起きた。
誰かが叫んだ。
「推せるぅぅぅぅぅぅうう!!」
「ネトラレって……逆に尊い……!」
「俺は……俺はるるちゃんの全肯定彼氏になるわ……!」
目を潤ませながら、チェキ券を再び購入しに走る者。泣き笑いの表情で、その場に崩れ落ちる者。静かに手を合わせ、拝む者さえいた。
そこには“裏切られたファン”など一人もいなかった。
その日から、るるのブースには新たな呼称が生まれた。
——“供養所”。
愛と執着と敗北を抱えた男たちが、毎週末、心を清めに来る場所である。
慎吾はその後ろで、自分の胸がひどく痛むのを感じていた。
彼女がファンの前で見せた笑顔は、自分にも向けてくれたものと、同じものだった。
なのに、どうしてこうも違って見えるのか。
それが“アイドル”という存在の正体なのかもしれない。
イベント終了後。
ステージから戻ってきたるるは、タオルで首を押さえながら控えスペースに入るなり、慎吾の顔を覗き込む。
「しんごさ〜んっ! お疲れさまでしたぁ☆」
その声色は、あくまでアイドルのまま。
けれど——その笑顔は、ほんの少しだけ、泣きそうに見えた。
「今日の対応、100点っ☆」
そして、小さな声で——。
「……ありがとう。ほんとに、ありがとう。来てくれて」
その“ありがとう”が、慎吾の胸を貫いた。
(この“ありがとう”があるから――俺はここにいる)
もう逃げない。
営業だろうが、裏方だろうが、やってやる。
アイドル“姫野るる”が、今日もこの世界に立ち続けるために。
慎吾は、自販機の前で冷えきった缶コーヒーを手に取った。
その味は、苦かったけれど——
“現実の味”が、少しだけ、好きになった気がした。
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