ネトラレ文化構築とビニール手袋レベルアップ


 朝五時。ライブハウスの裏搬入口には、すでに数台のワゴンとダンボールが積み上げられていた。


 照明が点いていない裏路地はまだ薄暗く、湿ったコンクリートの匂いが肌にまとわりつく。慎吾は、肩にタオルをかけて、物販セットを詰めたケースを引きずっていた。


 「搬入完了、ステージ裏2番へ配置しました」


 「はい。るるの出番は3組目だから、バミリはAラインで」


 無線を片手に、メイが静かに指示を出す。その声に迷いはない。顔にはノーメイク、白シャツと黒スラックスというシンプルな装い。それでも、その場にいるすべての運営が、彼女に視線を向けていた。


 慎吾はそっと一歩引いて、ケーブルバッグを肩にかけ直す。


 彼は場違いだった。明らかに年齢も、気配も、場の熱量も。


 「……彼氏、らしいよ」


「えっ、マジ? あのオッサン?」

「うわ、それ本当だったんだ……」


 小声のヒソヒソが背中を撫でる。聞こえなかったふりをする。毎度のことだ。るるの“ネトラレ宣言”以降、慎吾の立ち位置は明確に“見える存在”になってしまった。


 だが、それでも彼は逃げなかった。


 るるが「公然と愛している」と言った以上、自分もその覚悟を持たねばならない。そう、彼女は“ネトラレ系アイドル”として、この地獄のような地下業界を登ると決めたのだ。


 慎吾の背中をメイが軽く叩いた。


 「この業界で年齢は武器になるわよ。“年季”を感じるスタッフがいるって、それだけで説得力あるから」


 「……俺は背景でいいんで」


 「だから“背景のままじゃ済まない”って話でしょ、これは」


 メイは皮肉でもなく、事実として言った。


 会場の設営が進む中、慎吾はふと、舞台袖の隅を見た。そこに、ステージ用のメイクを終えたるるがいた。


 ツインテールを束ね直し、リップを軽く引き直す。その手付きは、アイドルというより、戦場へ出る兵士に近かった。


 「……今日、何人泣かせられるかなぁ」


 鏡を見つめるるるがぽつりとつぶやいた。誰に聞かせるでもなく、それは祈りだった。


 彼女はすでに“ネトラレ系アイドル”として完全に覚悟を決めていた。慎吾という恋人がいること。それを隠さないどころか、武器にして、自分を最も“愛してくれない者”すらも、振り向かせてやるという気概。


 それが、今のるるだった。


 開場後。観客がぞろぞろと入りはじめ、フロアの空気が熱を帯びる。


 物販ブースが設営され、チェキ券やアクスタが並ぶ横に、1枚ずつパックされた透明の“ビニール手袋”が置かれていた。


 《るる特製・握手用記念グローブ(サイン付き)》と印刷されたポップ。


 これはるる自身の発案だった。


 ——握手対応の際、ファン一人ひとりに透明手袋を渡し、その甲に彼女がサインを書く。

 「“3回目だね”」「おかえり」「今日のあなた、好きだったよ」

 その日のるるの筆跡が、手袋に刻まれる。


 「使い捨て」だったはずのビニール手袋は、オタクたちにとって、もはや「遺品」に近かった。


 ポーチに折りたたんで持ち歩く者。硬質ケースに入れて飾る者。

 中には“手袋履歴”を並べて保存し、SNSに《#るるグローブ》《#右手は戦場》と投稿する者もいた。


 「それ何回目の?」

 「これ、通算19回目……るるちゃん、番号まで書いてくれた」

 「やば……手袋ガチ勢やん……」


 チェキ券より高い価値を持ち始めた“るるグローブ”は、もはや古参証明書でもあった。


 けれど、価値は“回数”だけではなかった。


 るるから返されたビニール手袋には、必ず“触れた記憶”が宿っていた。サインペンの跡。汗で歪んだ文字。彼女の指が一瞬でも重なった部分だけ、フィルムが曇っていたりする。そこが“リアル”だった。


 SNSでは、るるの手袋を撮ってアップする《#ネトラレグローブ》というタグが静かに流行し始めていた。


 ポエムめいたコメントがつく。


 >「今日の“3回目グローブ”。彼女に触れられたはずなのに、触れられてない。

 >でも、その“触れられなさ”が……俺の心を全部持っていった。」


 >「今日も奪われた。俺の“推し”は、俺のじゃない。

 >この手袋だけが、その証拠だ——」


 妄想は拡張され、皮肉にも“彼氏がいるアイドル”という事実が、ファンの妄念をさらに沼へと落とす装置になっていた。


 「やば、この人“保存袋に湿度調整剤入れて保管”してる……」


 「中身より手袋が尊いって世界、まじでやばくない?」


 しかし、“尊い”の定義がすでに壊れているこの界隈では、それが正義だった。



 その中央に、当然のように立つるる。


 完璧な笑顔。名前を呼び、声色を変え、目を見つめ、誰の“物語”にも寄り添うように握手を重ねていく。


 でも慎吾にはわかる。今のるるは、笑ってなどいない。


 ファンのひとりが、そっと言う。


 「ねぇ……今日も、慎吾と来たの?」


 るるは一拍おいて、うん、と頷いた。


 「うん。今日も一緒。……っていうか、“いつも一緒”かな?」


 ファンの指先が震えた。瞳が揺れる。けれどその表情は、どこか嬉しそうですらあった。


 「……そっか。……悔しくて血涙が出そうだよ。でも……」


 「“推し変”する?」とるるが茶化すように言うと、ファンは首を横に振った。


 「むしろ、もっと好きになった。……るるちゃんって、ほんと、アイドルだね」


 その言葉に、るるは小さく笑った。


 「ありがとう。ネトラレ系アイドル、今日も調子いいみたい」


 慎吾はその会話を遠巻きに聞きながら、スチール棚の奥で拳を握りしめていた。


 (これは、試練じゃない。……これは、彼女が選んだ“戦い”だ)


 彼は覚悟した。この世界では“恋人”であることは、祝福じゃなく、リスクであり、責任であり、役割だ。


 そしてその日、ステージ裏で初めて会った“敵”が現れる。


 「……すみません、週刊マガジンFの者です。ちょっとお話、よろしいですか?」

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45のおっさんが地下アイドルに手を出した 縁肇 @keinn2016

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