第12話 地下アイドル営業奮闘記


 冷たい雨が、渋谷の裏通りを濡らしていた。


 狭く曲がった路地に建つ古びた雑居ビル。その2階。

 雨粒が窓ガラスにぶつかる音を背に、慎吾は濡れた前髪を払いながら、ボロい階段をゆっくりと上った。


 【姫野るる 非公式ファンミーティング&物販会場】。

 ビルの扉にはそれらしい表記もない。手作り感満載のポスターがガムテープで留められているだけだった。


 ドアノブに手をかけると、内側から熱気が漏れ出す。湿り気を帯びたアイドルの空間――。


 「……始まってるか」


 静かに扉を開くと、目の前に飛び込んできたのは、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた男たちの背中。


 皮脂と香水、Tシャツの柔軟剤のにおい、ビニール包装の匂い、そして熱気。


 その全てを貫いて、フロア中央の即席ステージから、るるの声が響いた。


 「みなさぁ〜んっ、今日も来てくれてありがとうございますっ☆」


 瞬間、フロアが揺れた。


 歓声、拍手、サイリウムが一斉に振られ、まるで地鳴りのように空気が沸騰する。


 るるは、ピンクのパウダーワンピースに身を包み、レースのリボンを髪に巻いていた。

 目を伏せた角度、手の振り方、膝の折り方、すべてが“姫野るる”というキャラクターを完璧に演じていた。


 いや、演じているようには見えなかった。

 彼女は、存在そのものが“アイドル”だった。


 ステージに立つだけで、空気を支配する。

 “その場の重力”が、彼女を中心に吸い込まれていくようだった。


 (……これが、るるちゃんの世界)


 慎吾は、場の隅で呆然と立ち尽くしていた。

 けれどその足元に、確かに覚悟のような何かが根を張り始めていた。


 「三宅さん、遅いっ」


 耳元にひそりと届いた声。


 振り向けば、黒のライダースを羽織ったメイが立っていた。


 タイトなパンツが脚のラインをなぞり、胸元のジッパーはわざと止められたまま。

 グロスが滲んだ唇で、メイはわざとらしく眉を跳ね上げる。


 「今日から営業マン、でしょ?」


 「……はい」


 慎吾が答えると、メイは笑った。


 「まずは、るるのグッズ。今日のアクスタは入荷が遅れて、ファンのストレスMAXよ。で、代わりに“るるのサイン入り紙袋”を千円で売るから。あと、SNSで“今日来たオタクが神対応された”風な投稿、5分おきに更新して」


 「……了解です」


 「それからね……もし暴走するファンがいたら、笑顔で遮って。フロアがヒリつくと、るるのトーンに影響出るから。今日は“天使の日”モードで売ってるからね?」


 慎吾は思わず、深くうなずいた。

 そのとき、ステージの上から、るるの目がこちらを見た。


 サイリウムに照らされた目が、ふわりと和らぐ。


 小さく、ほんの少しだけ、右手を振った。


 “いつものファンサ”のようでいて、どこか違った。


 慎吾は胸が詰まりそうになりながら、小さく手を上げて返した。


 メイが横目でそれを見て、ふっと小さく笑った。


 「しんごさん。るるって、やばいでしょ? ステージにいるだけで空気が変わる。だからさ――その背中、今度はあなたが守るのよ」


 「……俺が?」


 「そう。るるの“表”を支えるのが、あなたの仕事。いい営業マンってそういうもんでしょ?」


 メイの声は、甘さと厳しさの間を泳ぐようだった。


 慎吾は、拳をぐっと握る。


 「……はい。全力でやります」


 その言葉に、メイが満足そうに頷いた。


 「いい返事」


 るるの声が、会場を包む。


 「じゃあ次は〜っ! 物販コーナーでるるとお話タイムっ☆ お時間ある方はぜひ遊びに来てくださいね〜っ!」


 慎吾は息を吸い込んだ。


 これが、俺の新しい現場だ。

 姫野るるという存在を、守るための場所――。


 地下アイドル営業、戦いの火蓋は、今、切って落とされた。

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