第10話 地下アイドルに手を出した

 扉が開いた瞬間、空気が揺れた。


 渋谷・ラウンジMUSE。落ち着いた照明の中に、スーツ姿の男が一人、まっすぐ入ってくる。


 慎吾だった。


 「おっそ~い、三宅さんっ☆」


 メイがすぐに席を立ち、手を振りながら迎えに行く。

 男たちがざわついた。


「え、誰?」

「アイドルの関係者?」

「業界の人?」


 「私の招待で~っす☆ 仕事でお世話になってて、面白い人なんだよっ」


 るるのグラスを持つ手がぴくりと止まった。


 でもすぐに、微笑みが浮かぶ。


 「こんばんは~っ、姫野るるですっ。今日はよろしくお願いしますっ☆」


 口調も仕草も、いつもの“アイドル姫野るる”そのもの。

 でもその声は、他の男たちに向けるそれより、わずかに震えていた。


 慎吾は会釈しながら、軽く言葉を返す。


 「こんばんは……すごく綺麗です、今日も」


 その瞬間、るるの目の奥がかすかに揺れる。

 グラスの氷が、控えめに音を立てた。


 「ありがと~っ☆ 三宅さんも、お仕事帰りでお疲れですよねっ?」


 そう言いながらも、るるの声はほんの少しだけ上ずっていた。


 そのやりとりを、黙って見つめていた男が一人いた。


 一ノ瀬。


 彼はグラスを置き、口元をわずかに引き締める。


 「……さっきから思ってたんですけど」


 慎吾がそちらに顔を向けると、一ノ瀬はじっと目を合わせてきた。


 「あなた、何の立場でここにいるんです?」


 メイが軽く肩をすくめながら言葉を挟む。


 「私の紹介だってば。営業でお世話になったから、ちょっとお礼も兼ねて」


 だが一ノ瀬はそれを無視して、慎吾の目をまっすぐ射抜くように続けた。


 「さっきからるるさんを“知り合い”みたいに見てるけど……ファンと本人って、そういう距離じゃないよね?」


 テーブルにあった空のグラスが、乾いた音を立てた。


 慎吾は表情を変えず、短く答えた。


 「はい、ファンです。でも、それだけで来たわけじゃない」


 「じゃあ何のつもりで? 彼女に“特別な関係”でもあると思ってるんですか」


 るるがふわりと笑って、すかさず空気を取り持つように声を挟んだ。


 「きゃ~っ、ちょっと一ノ瀬さんっ、怖いですっ☆ 今日のるるは、ぜんぶのお客さんが大切なんですからぁ~っ!」


 声は明るい。けれど、その笑顔の奥に、微かな焦りがあった。


 慎吾は黙って、るるの姿を見つめていた。


 その目は、最初にステージで彼女を見た時と同じ。

 崇拝と、執着と、切実さが、すべて入り混じっていた。



  「……“特別”って言ったよな?」


 一ノ瀬の声が、静かにテーブルに落ちた。


 「あなたにとっての“特別”って、なんですか? 一度会っただけで、彼女の何を知ってるんですか?」


 慎吾は立ったまま、一ノ瀬の方へとゆっくり視線を向けた。 だが、表情は崩れない。


 「俺は……るるちゃんの全部を知りたいなんて、思ってない」


 ざわついた空気が、再び静まり返る。


 「でも……“好き”って、そういうもんじゃないのか?」


 「名前も知らなかった。私生活も知らなかった。誰に笑ってるのかも分からなかった」


 「それでも、俺はあの日の“ありがとう”に、救われたんだ」


 その言葉に、男たちが一斉に引いた気配がした。


 「うわ……ガチだ」


 「宗教じゃん……」


 「こわ……」


 一ノ瀬は、わずかに口角を歪める。


 「あなたは自分が“救われた”って言う。でもそれ、彼女が救いたいって思ったわけじゃない。ただの“投影”だろ」


 「るるさんは、見る側にとって都合のいい幻想であって、あなたの人生の補強材じゃない」


 慎吾の目がぴくりと揺れた。 だが、表情を崩さないまま言い返す。


 「じゃあ、あんたは誰かの命を支えるステージを作ったことあるのか?」


 「舞台の上で心臓を撃ち抜かれるような一言に出会ったこと、あるか?」


 「俺はある。るるちゃんの“ありがとう”は、俺の中の死んだ心臓を……もう一度動かした」


 「誰にバカにされてもいい。感動ポルノだって言われたって構わない。……でも、俺はあの一言に、生きてるって思えたんだ」


 一ノ瀬が言葉を失う。


 るるの唇が、すこしだけ開いて、閉じた。 ふわりと巻かれた前髪の下で、瞳がわずかに潤んでいた。


 グラスを持つ指先が震える。 胸の奥が、キュッと鳴るように締めつけられた。


 そのとき、慎吾の目が、るるに向けられた。


 「……もう一度、言わせてほしい」


 「“ありがとう”って言葉を、今度は……俺から言わせてくれ」


 るるの指が、グラスから外れた。 脚を組み直そうとした拍子に、ヒールの先が軽く滑った。 彼女の脚がわずかに慎吾のほうへ向いたまま、止まった。


 背筋は伸びているのに、胸の奥だけが小さく波打っていた。


 (……また来てくれた)


 (こんなとこに、何も知らないで)


 (私に“ありがとう”を返すためだけに、ここに来てくれた)


 「……しんごさん」


 口に出したその名前が、アイドルとしてではなく、“私”として漏れた気がして、るるは一瞬だけ目を閉じた。


 唇の内側を噛む。 指先が、自分の膝の上でそっと丸まった。


 一ノ瀬が再び言葉を紡ごうとしたとき、メイがグラスを掲げて割って入った。


 「はーいっ☆ 一旦CMで~っすっ。感情の殴り合いはそのへんにして、グラス空いた人、おかわりお願いしまーすっ!」


 乾いた拍手が起きた。 誰もがこの空気を笑いで逃げたいのだ。


 だが、その拍手の音に、るるの耳は届いていなかった。 彼女はまだ、慎吾の声を、胸の奥で反芻していた。


 ラウンジの扉が、音もなく開いた。


 そこに立っていたのは、黒いシャツに細身のパンツ、そして手には小型のジンバル付きカメラを構えた――関口だった。


 「失礼。お邪魔します」


 その声に、るるの背筋がピンと伸び、慎吾の眉がわずかに動いた。


 一ノ瀬はあからさまに不快そうに顔をしかめた。


 「……なんですか、あんた」


 「撮影担当です。現場記録用にね。関係者は把握してるはずですけど?」


 そう言いながら、関口はゆっくりと合コンの空間をなぞるようにカメラを向けた。

 そのレンズがるるの顔に寄った瞬間、るるはぎこちない笑顔を浮かべて小さく手を振った。


 「ちょ、関口さん? 何撮って――」


 メイが立ち上がる前に、関口がピタリと視線を向けた。


 「安心して。配信設定は“限定URL”だ。……でもまぁ、もうリアタイで何十人か見てるけど」


 その一言で、場が凍った。


 「え、は? 配信……?」


 「え、マジで……? さっきの“ありがとう”の告白……全部?」


 ざわつく男たち。

 るるは肩をすくめながら、何かを悟ったように顔を伏せた。


 慎吾はゆっくりと立ち上がり、関口に向かって言った。


 「……あんた、何が目的なんだ?」


 関口は口元だけで笑った。


 「俺か? 別に俺は“やらされてる”だけだよ」


 「やらされてる……?」


 「そう。“上”の指示。……というか、篠崎メイの指示だよ」


 その名を聞いた瞬間、慎吾の目が鋭くなる。


 「彼女の思いつきだ。“ステージ降りたアイドルと、ガチ恋オタクが出会ったらどうなるか”――それを、配信コンテンツにしてみたいってさ」


 慎吾の拳が震える。


 「……ふざけてるのか……」


 「ふざけてるだろ? 俺もそう思った。……だから言ったんだよ、慎吾さん、脅しすぎると面倒なことになるって」


 「それでも止まらなかったのは、あんた自身だろ」


 慎吾は言葉を失った。


 関口の声には、怒気と諦め、そしてほんのわずかな同情が混ざっていた。


 「俺だってあの夜、あんたに警告したつもりだった。“るるちゃんはみんなのもの”って」


 「でもさ――あれ、全部配信されてたんだよ。今回のも、例外じゃない」


 るるがそっと椅子から立ち上がり、慎吾の袖を掴んだ。


 その指先は細く震えていた。


 「……しんごさん……ここから、どうするの?」


 るるの瞳が、まっすぐに慎吾を捉えていた。


 逃げ道なんて、どこにもない。

 でも、その問いの中には、“一緒にいる”覚悟を確かめるような光があった。


 慎吾は、息をひとつ吸い込んだ。

 周囲のざわめきも、視線も、グラスの音も──すべてが遠のく。


 「……好きだ」


 ぽつりと落とされた言葉は、短くて静かで、けれど確かな熱を持っていた。


 「俺は、君の全部が欲しい。

 ステージの君も、素の君も。壊れてても、崩れてても、笑ってても、泣いてても……君が君でいる限り、俺は全部抱きしめたい」


 るるの唇が、かすかに揺れる。


 「……しんごさん……」


 その声にこめられた熱が、慎吾の胸の奥を突き動かした。


 彼の手が、そっとるるの手を掴む。


 「行こう」


 「……え?」


 「ここじゃない。

 こんな場所で、見せ物みたいにされる君なんて見たくない。俺が連れてく」


 るるは驚いたように目を丸くし、

 ──でもすぐに、静かに頷いた。


 「……うん」


 二人は立ち上がる。


 ざわつく空気。

 誰かのざわめき、誰かの呼びかけ、誰かのフラッシュ。


 関口が止めに入ろうとする。

 ──だが、その手をメイがさらりと押さえた。


 「……最高のエンタメじゃん」


 ワインを傾けながら、メイはニヤリと笑った。




 渋谷の夜風が、火照った肌を撫でる。

 慎吾はるるの手を強く握ったまま、タクシーを捕まえた。


 後部座席。

 るるは、小さな声で問いかける。


 「……ほんとに、行くの?」


 「止めても、もう遅い」


 慎吾の声は静かだった。


 「俺の中で、君はもう“帰る場所”になっちゃってるから」


 タクシーが滑るように走り出す。

 車内に流れる音楽が遠くに感じられた。


 ふと、るるが手を重ねてきた。

 小さくて、熱い手だった。



 マンションの前に着いたころ、空には薄い雲がかかっていた。


 二人は無言のまま階段を上がり、慎吾の部屋のドアの前に立つ。


 カチリ、と鍵が回る音。

 慎吾がドアを開け、中に入る。


 るるは少しだけ立ち止まり、後ろを振り返った。


 「……ねぇ、しんごさん」


 「ん?」


 「もう、戻れなくなっちゃったね」


 慎吾は黙って頷いた。


 「……でも、それでいい。俺は、君のために壊れたんだ」


 その言葉に、るるの唇が小さく震える。


 そして、静かに言った。


 「じゃあ、あたしも……しんごさんのために、壊れてあげる」


 ふたりの影が、玄関の明かりの中でゆっくりと重なっていく。


 どちらのものか、もう見分けのつかないほどに。




 彼女の吐息が、すぐ耳元にあった。

 そっと触れ合った額が、同じ熱を帯びている。


 「……しんごさん……」


 震える声に、慎吾の指先がそっと彼女の髪を撫でる。

 ゆるく巻かれた毛先が、掌にふわりとほどけて落ちた。


 灯りは落とされ、部屋には互いの呼吸音と、心臓の鼓動しかなかった。


 ゆっくりと唇が重なり、何度目かのキスが溶けていく。


 ワンピースの肩紐が滑り、肌の白さが灯りに浮かぶ。

 慎吾の指が彼女の背に回るたび、るるは息を詰めて、身体を預けてきた。


 シーツの中で、ひとつの影が重なっていく。


 何も言わず、ただ手を重ね、指を絡め、

 互いの熱を深くまで伝え合うように、静かに身体を寄せた。


 肩が震え、喉が小さく啼く。

 そのたびに慎吾は額を寄せ、彼女の名を、そっと呼ぶ。


 「……るる……」


 返事の代わりに、細い腕が彼の背にまわされた。

 全てを受け入れるように、全てを預けるように。


 そして、ひとつになる瞬間、るるはそっと目を閉じた。


 ——それは、痛みではなく、

 長い間、抱えていた“寂しさ”の輪郭が、音を立ててほどけるような感覚だった。


 交わされるキスが深くなり、

 やがて、ふたりは言葉も忘れて、ただ互いの名を確かめあった。


 シーツが柔らかく揺れ、肌と肌の隙間がなくなっていく。


 何度も確かめるように、ふたりは触れあった。

 夜が終わることを、忘れてしまうほどに。


 


 ——そして、静寂が訪れた。


 るるは慎吾の腕の中で、小さく丸まっていた。

 汗ばんだ肌が触れ合い、どちらの鼓動かわからないリズムが、胸の奥に響いている。


 「……ぜんぶ、ちゃんと……見てくれてた?」


 かすれた声。けれど、どこか満たされたような響きだった。


 慎吾は頷き、るるの髪に唇を落とす。

 そのまま、そっと目を閉じようとした――けれど。


 「ねぇ……しんごさん」


 囁くような声が、耳元に触れる。

 シーツの中、指先がそっと慎吾の胸をなぞる。


 「……まだ、終わりたくない、かも」


 その目は、潤んでいるのに、どこか挑むようにまっすぐだった。


 「さっきのも、嬉しかったよ。でも……もっと、しんごさんのこと……ちゃんと知りたいの」


 るるの手が慎吾の背に回り、まるで確かめるようにゆっくりと引き寄せてくる。


 「愛されるって……こんなもんじゃないって、思いたいから」


 彼女の瞳がすべてを物語っていた。


 その言葉の熱に背中を押されるように、慎吾はもう一度、彼女を抱きしめる。


 さっきよりも深く、さっきよりも静かに。

 それは再び始まる夜のリズム。


 互いの名をそっと呼びながら、またひとつ、心と身体がほどけていった。


 甘く、長く、揺れる静寂の中で――

 ふたりは言葉ではなく、鼓動で会話を重ねていった。



 ——換気のために開けた窓から、ひんやりとした空気がカーテンを揺らしていた。


 乱れたシーツの上、慎吾は息をつきながら天井を見上げていた。


 脱ぎ捨てられたシャツが床の隅で丸まり、ぬるくなったペットボトルの水がテーブルに置き去りにされている。


 足元のゴミ箱には、使い終えた紙くずがいくつも重なっていた。あふれはしないが、昨夜の“熱量”を静かに物語っていた。


 そんな中、るるは布団にくるまり、頬を赤くしたままこちらを見ていた。

 目が合うと、くすりと笑う。


 「……すごかったね、しんごさん」


 「はい……じゃなくて、ありがとう……?」


 慎吾は思わず顔を背けた。

 額にはじんわり汗が滲んでいる。


 「……ごめん。なんか……ちょっと、やりすぎたかも」


 「はは……うちの元嫁にも、よく言われたな。『夜の方だけ異常に元気でキモい』って……」


 自嘲気味にこぼす声に、るるは眉を寄せながら、ゆっくりと起き上がる。


 「キモいって……誰が?」


 「元妻。もう何年も前の話だけどさ。疲れてるって言われても、止まれなくて……結果、逃げられた」


 慎吾がそう呟いたあと、言葉を失ったように黙り込んだ。


 だが、るるはそれを責めず、むしろ肩に頭を預けるようにして寄りかかってきた。


 「ふふ……しんごさんって、寂しがりなんですね~」


 その声は、からかうようで、どこか安心させる響きを持っていた。


 「大丈夫。あたしは逃げませんよ?」


 その言葉に、慎吾の手がわずかに震えた。


 「……ほんとに?」


 「うん。むしろ、ぜ~んぶ受け止めてあげたくなっちゃうくらい。だって……」


 るるはそっとシーツを引き寄せ、慎吾の胸元に顔を埋めた。


 「しんごさんって……ぎゅーってしたら、ぜんぶ伝わってくるから」


 胸の奥に、静かに染み込んでくる声だった。

 その言葉は、慎吾の過去を否定せず、未来を予感させるほどに優しかった。

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