第9話 合コン前日譚


 姫野るる合コンの日から1週間前の事。



 月曜の午前、不動産会社のフロアは朝から慌ただしかった。

 主要な営業担当が全員外回りに出払っており、新規来店の対応まで手が回らない状況だった。


 「三宅さん、すみません。午前中だけでいいんで、ひとりお願いできますか?条件はもう入力済みで、たぶん簡単な相談だけです」


 普段は事務とクレーム処理専門の慎吾に、めずらしく新規の客が回された。

 もちろん断る理由はなかった。いや、今の慎吾にとっては、むしろありがたかった。


 あの夜のことを、考えないようにしていた。

 るるの顔も、声も、抱きしめた瞬間の温度も。すべてが、記憶に染みついて離れない。

 だから今は、仕事だけが現実だった。営業スマイルと入力業務、それだけが自分の居場所だった。


 応接室のドアをノックし、ゆっくりと開ける。


 中にいたのは、若い女性だった。


 黒のタイトニットに、淡いピンクのミニスカート。胸のラインがはっきり浮き、足元は膝上まで伸びたブーツに包まれていた。

 全体的に派手ではないが、仕上がりすぎていて、明らかに意図を持った装いだった。


 慎吾は営業用の笑みを貼り付けて、軽く会釈する。


 「お待たせしました。不動産の三宅です。本日はありがとうございます」


 女性はスマホをそっと置き、マスク越しに穏やかに会釈した。


 「篠崎メイです。よろしくお願いします」


 その声も仕草も、どこか場慣れしていた。


 慎吾は目の前のタブレットに目を落とす。

 名前は篠崎メイ。年齢は二十代前半。職業は個人事業主。希望条件は1LDK、防音、宅配ボックス付き。


 慎吾が画面を回転させて物件を紹介すると、メイは身を乗り出すようにして覗き込んできた。


 「へぇ、結構いい間取りですね。収納もあるし、キッチン広めで助かります」


 そう言いながら、彼女の肘が自然とテーブルに乗る。


 ニットの布地が引っ張られて、さらに胸の輪郭がくっきり浮かぶ。


 「夜中にちょっと声出しちゃうこともあるんですよね、私……。隣の壁、どれくらい厚いですか?」


 その言い方に慎吾の指がタブレットの上でピタリと止まる。


「……音の問題でお悩みですか?」


 その問いに、メイは身をさらに寄せた。椅子の脚がわずかに軋み、次の瞬間、慎吾の耳元へと顔を傾ける。


 「色々、声が出ちゃうんです。……喘ぎ声とか?」


 その言葉と同時に、メイはテーブルに肘をつきながら、ニットの胸元をわざと慎吾の目線に滑り込ませるように傾けた。深めの首元が緩く開き、柔らかく揺れる谷間がくっきりと覗く。


 息が詰まるような一瞬だった。


 慎吾は思わず背筋を正し、視線を逸らす。だが、意識だけが胸元に釘付けになっていた。


 喉が鳴り、指先がタブレットの縁をきゅっと握りしめる。


 まるで試されているような感覚だった。



 「そう。防音って言っても、実際のところどれくらい聞こえちゃうのかなって。不安なんです」


 メイは顎を軽く手に乗せて、目だけで慎吾の反応を探っていた。


 その距離感は、完全に“近い”。


 マスクの向こうに見えない口元が、何を含んでいるのか分からない。

 けれど、目が、揺らぎもしない。

 感情を測るどころか、まるでこちらを測っているような光。


 「一応、隣室との壁厚は30cm程度の構造です。生活音は軽減されますが……声となると」


 「声、出すんですよ。いろいろと……練習とか、反応とか……人前で喋ることも多いので」


 その言い方には曖昧な含みがあった。

 だが、慎吾の顔色は変わらない。


 変わらないように“演じて”いた。


 「なるほど。そういったご職業でしたら、上階の騒音や周辺環境も踏まえてご提案できます」


 営業トークを噛まずに続けるのがやっとだった。

 喉の奥が少し乾いていた。


 「……三宅さんって、不思議ですね」


 「え?」


 「こういう話しても、全然動じない。もしかして、何か隠してます?」


 「……いえ、特には」


 「そっかぁ。でも、“演技”が上手い人って、何か抱えてるんだろうなって思っちゃう」


 メイの指先が、無意識を装ったようにタブレットのフチをなぞる。

 けれどそれは明らかに“計算された動き”だった。


 慎吾は視線を画面に落としたまま、呼吸を整えた。


慎吾は視線を画面に落としたまま、呼吸を整えた。


 “るる”のことを、思い出さないようにしていた。

 なのに、メイの一挙一動が、そこから目を逸らす隙を与えてくれない。


 営業スマイルの裏で、何度も崩れそうになる感情を押しとどめていた。


 彼女の目の奥にある計算と探るような光。


 まるで試されている。あの夜を覚えているか、そう問いかけられているようだった。


 慎吾はタブレットに視線を落としたまま、俯いた。もう、否定できなかった。



 心の支えだった記憶を、ぐらついた声で口にするしかなかった。


 「……あのとき……俺、ほんとに……るる、に……」


 その名前を出した瞬間、メイの表情が変わった。


 「……るる?」


 顔をわずかに傾ける。


 「姫野るる……のこと、言ってます?」


 沈黙が答えだった。


 「……あーあ、マジでドン引きですわ」


 メイは呆れたようにため息をついた。


 「本気で推してたんですね。姫野るるを、人生の希望にしてたタイプ」


 慎吾の視線は宙に浮いたまま定まらなかった。


 「てか、今日の夜、あの子……合コンですよ?」


 唐突な言葉に、慎吾は一瞬で正面を向いた。


 「合コン……?」


 「ええ。私がセッティングしました。アイドル仲間として、気晴らしにね」


 メイはスマホを取り出し、ゆるく画面を見せた。


 「しかもね、一人、やばそうな奴が来るんですよ。るるが食いつきそうな、危うい奴」


 慎吾の胸の奥がざわめいた。


 「……どこで」


 メイは一拍置いて笑った。その笑みに、ほんのりと艶が滲んでいた。


 「タダでは教えません。不動産の営業で合コン、開いてください。……もちろん、イケメンか役所持ち限定で」


 わざと脚を組み直し、胸元を揺らすようにして、慎吾に視線を向ける。


 「できるんですよね、三宅さん……? 期待してますよ?」


 慎吾は目を見開き、口元を強く引き結んだ。


 「……死ぬ気で開きます」


 「よろしい」


 メイは満足げに頷くと、さらりと口にした。


 「渋谷。“ラウンジ・MUSE”ってところです」


 メイはスマホをくるくる回しながら、更にこう言った。


 「でも……今日、るるにとっての“面白い優良物件”来ますからね〜」


 慎吾が反応する前に、メイはわざとらしく肩をすくめる。


 「これから内見するところらしいですよ。下手したら、今日中に“契約”されちゃうかもですよ?」


 口調は軽い。でも言葉の棘は鋭い。


 「三宅さん、事故物件扱いされてる場合じゃないんじゃないですか?」


 そしてにっこりと、営業スマイルのような顔で、言い切った。


 「貴方みたいな物件に住めるの、たぶん姫野るるくらいですよ」


 メイはさらりと続ける。


 「私じゃ絶対ムリ。三宅さんみたいなキモ物件、崩落一直線ですし、保険もきかないでしょ?  住んだ瞬間、内装も私のメンタルもバキバキです」


 少しだけ声を落として、メイはテーブルに指を滑らせた。


 「るるの方も……見た目はモデルルームみたいに可愛いのに、中身は常時水漏れ、壁紙剥がれてて、謎の配線がむき出し。ドア開けた瞬間に『おかえりぃ』って自爆スイッチ押されますよ?」


 そこまで言って、くすっと笑う。


 「でもね。欠陥物件と事故物件。普通の人には絶対無理だけど——」


 慎吾の方を向いて、悪戯っぽくウインクした。


 「そういうのが一番、相性良かったりするんですよね。意外と」


 三宅は黙って頭を下げた。


 「……ありがとう、篠崎さん」


 その言葉に、メイはふっと口元を緩めて立ち上がる。


 「お礼は、さっきの合コンの件と……私にぴったりな物件、ちゃんと見つけてくださいね」


 そう言って、ヒールの音を鳴らしながら事務所のドアへと向かっていった。


 ドアの取っ手に手をかけたところで、ふと足を止める。


 (……あ、そういえば)


 メイは振り返らなかったが、目だけがわずかに鋭さを帯びていた。


 (三宅さん、なんで最近、ライブ来てなかったんだろ……)


 その理由に、思い当たる節がある。


 ドアの外に出たメイは、スマホを取り出すと、ためらうことなく連絡先を選択し、発信ボタンを押した。

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