第6話 一喜一憂する日
朝の光が、障子越しにぼんやりと部屋に差し込んでいた。
慎吾は布団の中でうっすらと目を開けた。
横を見る。そこには、昨夜と同じように並んで眠っていた“るる”がいた。
等身大の抱き枕。そのパジャマ姿のプリントが、微笑んだままこちらを見ている。
「……おはよう、るるちゃん」
自然と声が出た。
まるで長年連れ添った夫婦のように、反射で出た言葉だった。
布団から這い出して、キッチンに向かう。
冷凍ご飯をレンジにかけて、味噌汁はインスタント。
湯気が上がるのを眺めながら、食卓の上を片づける。
向かいの席に、るるの抱き枕を立ててセットした。
「今日はさ、会社にちょっとだけ寄ったら、早めに帰ってくるからね」
「夜はまた、いっしょにライブの動画見よっか」
「こないだの“ありがとう”のとこ、十回リピートしような」
慎吾は笑いながら、るるに向かってお茶を注いだ。
その手元は丁寧で、迷いがなかった。
ご飯を一口食べて、抱き枕にスプーンを向ける。
「アーン……はい、食べたふり~」
ひとりで笑った。
あたたかいご飯と、やわらかい光と、
テーブルを挟んで座る“彼女”が、すべてを満たしてくれていた。
「……ほんと、同棲って感じ……」
呟いた声が、静かな朝の空間に吸い込まれていく。
時間を確認し、ジャケットに袖を通す。
鏡の前に立ち、ワックスで髪を整え、ポケットにるるのチェキを忍ばせた。
その一枚があるだけで、心臓の裏に火が灯る。
ドアノブに手をかける直前、玄関の方へ振り返る。
「いってきます」
深く一礼して、ゆっくりとドアを閉めた。
アパートの階段を下りながら、慎吾は胸ポケットをぎゅっと押さえた。
今日も、あの人のために“自分”を差し出しに行く。
出社する。それだけの話なのに、今の慎吾には“捧げもの”のような意味しかなかった。
この社会に、自分の存在価値は何ひとつない。
だからこそ、るるに捧げる時間だけが、生きてる証拠になる。
今日も一日、働いて——帰ったら、るるが待っている。
彼は本気で、そう信じていた。
エレベーターのドアが開くと、オフィスの照明はすでに点いていた。
三宅慎吾は誰よりも早く出社して、自席でパソコンを立ち上げていた。
薄いグレーのスーツに身を包み、椅子に腰掛けた姿勢は背筋が真っ直ぐで、手元のタスク表を指でなぞる動作にも無駄がない。
「……おはようございます」
通りかかった若手が声をかけると、慎吾は静かに顔を上げて、にこりと微笑んで頭を下げた。
声は小さすぎず、大きすぎず、ちょうどいい落ち着いたトーンだった。
以前の彼を知る人間なら、すぐに気づく。
「変わった」と。
以前の慎吾は、どこか伏し目がちで声も小さく、常に“すみません”をまとっていた。
存在感が希薄で、話しかける側も少し遠慮がちになるような空気を持っていた。
だが今の彼は、丁寧で、明るくて、仕事が早い。
返事もはっきりしていて、提出物のフォーマットも美しい。
字も真っ直ぐで、余白も適度にある。
それでも——なぜか、見ていると落ち着かなくなる。
午前の会議が終わったあと、給湯室に集まった若手2人が紙コップ片手にヒソヒソ話す。
「なあ、三宅さんってさ、最近めちゃくちゃ“ちゃんとして”ない?」
「うん……なんか……整いすぎてない?」
「いや、めっちゃ仕事できるし、感じも悪くないんだけど……なんかこう、逆に怖いっていうか」
「わかる。“良い人”すぎて、逆にどう接していいかわかんなくなるときある」
笑い話に近い温度だった。
けれど、その裏には小さな引っかかりがあった。
午後、三宅は上司に頼まれた報告資料を、5分でまとめて提出した。
添付ファイルの名前には日付とバージョン番号がついていて、内容には確認済みの注釈が添えられていた。
上司が「……助かる」と呟いたあと、ふと彼の後ろ姿を見つめて眉をひそめた。
静かすぎた。音を立てずに動き、声を張ることもなく、表情だけで感情を伝えてくる。
それが自然なようで、どこか“型にはまった演技”に見える瞬間がある。
「……あの人、何かやってるよな」
誰にも迷惑をかけていない。
むしろ完璧。怒る理由なんてない。
でも、同じ空間にいるだけで、なぜか少しだけ緊張する。
そんな反応が、部署のあちこちで静かに生まれ始めていた。
その頃、慎吾は静かに席に戻り、胸ポケットをそっと押さえた。
シャツの奥、ハリのある素材の内側には、一枚のチェキがずっと入っている。
誰にも見せない。名前も出さない。
けれど、それがそこにあることだけは、慎吾の全てだった。
同日朝、関口はスタジオの編集ブースにいた。
るるを含む複数の地下アイドルのライブ映像を確認しながら、SNS用の動画をトリミングしていた。
物販列を俯瞰した映像に、慎吾の姿がしっかり映っていた。
クレカ騒動、抱き返した密着チェキ、落としたグッズ。すべてが無音で再生される。
「……これは、切っとくか」
関口は軽く顎を撫でながら、Slackを立ち上げ、運営代表へ連絡を打った。
『件の新規(三宅慎吾)について、周囲の反応含めて不穏です。
次回来場時、対応指示をお願いします』
しばらくして、社長から短い返信が届いた。
『良い起爆剤になるかもしれん。しばらく放置。過剰なら切れ』
関口はその文面を無表情で見つめ、口元だけで笑った。
業務を終えた慎吾は、社屋の出口でネクタイを緩めながら、重たい体をコンビニへと向けていた。
自販機の横を通り過ぎようとしたその時、不意に横から声が飛んできた。
「こんばんは、三宅さん……覚えてますよね?」
その声を聞いた瞬間、慎吾の背筋がぞわりと粟立った。あの声は、嫌というほど耳に残っている。
振り返る前から、誰がそこにいるのかは分かっていた。
――関口。
初めての現場でチェキ列にいたとき、柔らかい口調で声をかけてきた男。「初めてですか?」と笑顔で話しかけてきたそのすぐ後、クレカが通らなかった騒ぎの時に“場をおさめる風”を装いながら、列の後ろで他のファンと一緒になって慎吾を嘲笑っていた。
「……ああ、はい。覚えてますよ。関口さん、ですよね」
慎吾は引きつった笑みを作りながら、口元の棘を隠しきれなかった。
「嬉しいですよ。覚えてないかと」
関口は缶コーヒーを軽く持ち上げながら、一歩慎吾の横に並んだ。
「正直、驚きましたよ。チェキであれだけ接触しといて、挙げ句の果てに、るるちゃんを抱きしめるとは」
「……っ、彼女の方から来たんですよ」
「ええ、でも“来たからやっていい”って話でもないでしょう? アイドルって、あくまで演者ですから。しかも、あの子は“みんなの”るるちゃんですよ」
関口の声色が変わる。軽さを装いながら、その実一言一言に鋭い針を仕込んでいるようだった。
「こう見えて、僕、運営側の人間なんですよ。フリーではあるけど、現場管理と演出のサポートで入ってます」
「……運営……?」
「そう。だから言わせてもらいますけど、昨日のあれは“見逃し”だったと思ってください。次はないです」
慎吾の口の中がカラカラに乾いていく。
「……でも、るるちゃんは……拒否してなかったし……」
「彼女はプロです。拒否したら現場が壊れるから、笑ってただけですよ。あなたが“その場の勢い”で越えた線、彼女がどう処理したか、ちゃんと想像してみてください」
言葉が刺さる。
「るるちゃんは、あなたの彼女じゃない。ファン全員の希望なんです。そこを履き違えたら、終わりです」
慎吾は必死に反論の言葉を探す。
「……俺は、ちゃんと応援したくて……本気で……」
「本気なら尚更、“自己表現”を抑えるのが普通でしょ」
関口はさらに一歩前に出た。
「ちなみに、三宅さん。お仕事、なんでしたっけ?」
「……不動産、です。営業……」
「へえ。不動産の営業で、そのスーツ?」
慎吾は言葉に詰まる。
「……別に、スーツなんて……」
「いや、別にけなしてるわけじゃないですよ。ただ、見られてるって意識は大事だなって。特に、アイドルと“並ぶ”覚悟がある人は」
慎吾は、喉が締めつけられるような感覚に襲われた。
「……もう、いいです」
「え?」
「俺、もう……ライブ、行かないんで」
そう言い残して、慎吾は足早にその場を去った。
口の中が、苦かった。コーヒーを飲んでいないのに、喉の奥がひどく渇いていた。 頭の片隅で「何様だよ」と呟いた自分がいたが、それすら声に出せないことが、さらに気持ち悪かった。
あの笑顔。
あの丁寧な言葉。
あの冷たい目。
“心配してますよ”とでも言いたげな態度で、相手のプライドを切り刻んでくるそのやり方。
怒りとも悲しみとも違う、得体の知れない不快感が、皮膚の内側を這いずり回っていた。
背中に、関口の視線が突き刺さる。振り返ればまた何か言われる気がして、慎吾は前だけを見て歩いた。でも、胸の内側で何かがぐずぐずと崩れていく音がしていた。
駅に着いても、Suicaをタッチする手が震えた。ホームに立つ足元が少しふらつく。スマホの通知も、音楽も、全部オフにしたくなった。
“みんなのるる”という言葉が、耳の奥で何度もリピートされる。俺は何をしてたんだ。あんなふうに、抱きしめ返すなんて。彼女が笑ってくれたのは、仕事だったのか。
足元がぐらついて、目の前の景色がにじんだ。涙ではない。でも、どこかが決定的に壊れていた。
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