第5話 承認欲求の副作用とそれぞれの夜


 抱き枕を抱いたまま、終電のガラガラの車両に揺られていた。


 


 足元には缶バッジの袋。膝にはポスターの筒。

 そして胸元には、ピンクのパッケージがきゅっと収まっている。


 


 「……るるちゃん……」


 


 無意識に口が動いた。

 誰も隣に座ってこない。いや、途中で座ってきた若者は、何も言わずに3駅目で降りていった。


 


 慎吾は膝の上のパッケージを撫でるように手で押さえた。

 透明ビニール越しに、パジャマ姿の姫野るるが微笑んでいた。まるでこちらを見ているように。


 


 「ほんとに……ほんとに、俺だったんだよな……」


 


 スマホを取り出して、今日撮ったチェキの画像を開く。

 密着ポーズ。頬が触れ合う寸前の角度。るるの手が、自分の手に添えられている。

 スクリーンショットで何度も拡大して、頬の熱を思い出そうとする。


 


 画面の中の笑顔が、さっきよりも大きく見えた気がした。


 


 慎吾はスマホを胸に押し当て、額を窓に預けた。


 


 


 


 ──一方、関口は自室でノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、

 PCモニターに再生されたライブ映像を巻き戻していた。


 


 「……ここだな」


 


 チェキ列の後ろ。

 慎吾がるると密着する寸前の瞬間。

 無表情だったるるの目が、わずかに“揺れた”。


 


 それを関口は何度もコマ送りし、画面を一時停止したまま指でなぞった。


 


 「この目だよ、問題は……」


 


 警戒ではない。恐怖でもない。

 ほんの一瞬、「刺激に反応する肉食獣の目」に近かった。

 アイドルとしての笑顔では説明できない揺らぎ。


 


 「……あれで、微笑んだのか?」


 


 再生を進める。

 慎吾の抱擁、ファンの怒号、そして——るるの制止。


 


 “ちょっと待って~っ☆”


 


 音声だけ切り出し、ヘッドホン越しにもう一度聴く。


 


 完璧だった。

 震えも、躊躇いもない。

 プロの芝居としては、合格点以上。


 


 だが、関口には分かっていた。

 あの“滑らかすぎる芝居”は、台本ではない。

 アイドルとしての対応ではなく、“自分の意思”があった。


 


 「……慎吾って男。あれは事故じゃない。呼ばれたんだよ」


 


 デスクの引き出しから、関口は小さな紙ファイルを取り出した。

 《現場バランス異常値記録》——その表紙に、慎吾の名前を初めて記す。


 


 「るるちゃんの感情が揺れた。

 じゃあその“揺らし方”が、俺より正しかったってことか?」


 


 無言でファイルを閉じる。


 


 関口の部屋には、るるのポスターが一枚も貼られていない。

 だが、デスクトップには数百時間分のるるの映像ライブラリが保存されている。


 


 静かな信仰は、確実に火種に触れた。

 そして関口は、その火を、自分の手で制御するつもりでいた。





 港区の裏通りにあるデザイナーズマンション、その4階の角部屋。

 インターホンはカメラ付きで、郵便受けにはキラキラした名前ステッカーが貼られている。

 鍵はリモートロック式。内側からしか絶対に開かない。


 


 玄関を開けると、すぐに甘い香りが鼻をくすぐる。

 ホワイトムスクとキャンディレモンが混ざった、脳を直接撫でてくるような匂い。

 靴箱の上には、ぬいぐるみサイズの自分のアクリルスタンドが立っていた。


 


 部屋は6畳半のワンルーム。

 壁は淡いミルキーピンクで統一され、天井沿いには細いLEDテープが這っている。

 照明は低温のピンクと紫。

 奥の姿見には、誰もいないのに何かが動いているように見えた。


 


 壁際のラックには、自分自身のグッズが几帳面に並べられている。

 缶バッジ、ランダムアクスタ、物販Tシャツ……どれもA4スリーブに丁寧に収納済み。

 中央には、特注で作った自分の等身大ポスター。

 その前には小さな台座。折り鶴と手紙が供えられている。まるで“信仰”のようだった。


 


 ベッドはロータイプ。シーツは白地にピンクのハート柄。

 枕元には、ぬいぐるみが6体。

 どれも誰かから贈られたもので、それぞれにタグがついている──「るるちゃんを守る」。


 


 冷蔵庫には炭酸水とエナジードリンク、そして業務用のプリンパック。

 コンロは一度も使われた形跡がなく、シンクのステンレスは鏡のように光っていた。

 生活の痕跡はなく、甘味だけが残っている。


 


 デスクの上にはノートPCとタブレット。

 モニター脇には未整理のチェキが無造作に積まれている。

 上から3枚目。そこに写っているのは慎吾だった。

 るると密着し、頬を寄せ合ったその写真だけ、なぜかスリーブが厚手のものに差し替えられていた。


 


 ソファのクッションは深く沈み込むタイプ。

 その上にはストレッチ用のクッションピローとスマホ。

 画面はスリープ状態。けれど、さっきまで開いていたSNSのタイムラインには、

 “ありがとう”と絶叫する慎吾の姿が、ブレたまま静止していた。


 


 床には小さなラグ。端には片足だけ脱がれたスリッパ。

 すぐ隣のキャリーケースには、「定期遠征用」と書かれたタグが揺れている。

 開きかけのスケジュール帳の片隅には、消しかけの文字。

 ──しんご、の名がかすれていた。


 


 ドア裏のホワイトボードには、大きく「ぜったい売れっ子になるっ☆」と書かれている。

 そのすぐ下に、小さく鉛筆で残された走り書きがあった。


 


 ──壊れるくらい好かれたい。むしろ壊してほしい。


 


 姫野るるの部屋には、可愛いものしかなかった。

 でもその空間は、誰かの狂気を迎え入れる準備が、すでに整っているようだった。

 静かに、ゆっくりと、呼吸するように。


 

 クッションに背を預け、ソファに半身を沈めたまま、天井のピンク色を見つめていた。

 瞼の裏に、慎吾の顔が焼きついて離れない。

 涙でぐしゃぐしゃになって、それでも笑ってた。

 抱きしめた瞬間、全身から伝わってきた熱。

 震えて、潤んで、汗ばんでて、ほんの少しだけ——怖かった。


 胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。

 なのに、息は浅い。

 頭がぼうっとする中、指先だけが勝手に動いていた。


 ゆっくりと、太ももの内側をなぞる。

 ショートパンツの隙間から素肌に触れると、ひやっとした。でもその奥は、ずっと前から熱かった。


 彼、泣いてた。

 あたしが笑いかけるだけで、叫んで、崩れて、それでも止まらなくて。

 まわりに責められても、引かれても、ひとりだけ前に出てきた。


 あれ、ほんとに、たまらなかった。


 あたしの一言で人生ぐちゃぐちゃにして、

 自分で止められなくなって、それでもなお「あたしのために」って言ってくる感じ。

 全身を投げ出してくる人の目って、こんなに綺麗なんだって初めて知った。


 喉が渇く。

 汗が指を伝って、ラグに染みこんでいく。

 胸元のTシャツはしっとりと肌に貼りついて、息が通るたびに揺れる。

 吐息が漏れて、腰がクッションにゆっくり沈んでいく。


 もっと沈んでほしい。

 もっと、もっと、あたしに狂ってほしい。

 限界を超えて、理性を捨てて、全部あたしに支配されてほしい。

 戻れなくなってから、もう一度だけ“あたし”って呼んで。


 目を閉じると、世界が真っ白になる。

 彼の腕の中にいたときのぬくもり。

 あたしの名前を叫んだ声。

 あれはもう、事故じゃない。運命でもない。

 ——選ばれた快楽。


 興奮、じゃ足りない。

 でも他にぴったりな言葉がまだ見つからない。


 太ももをぎゅっと抱え込む。

 吐息は熱を帯びて、脚の間に溜まる。

 心臓の音が耳に響く。呼吸が追いつかない。


 慎吾さん。

 ねえ、明日も来るよね。

 あたしのために借金して、会社辞めて、

 人生の全部、こっちに持ってきてくれるよね。


 壊れてもいいよ。壊してあげる。

 全部あたしの中に落としてくれたら、それでいい。

 浮かばなくていい。

 ちゃんと、奥の奥まで——


 「……あたしに、沼っちゃえな……」


 くちびるが勝手に動いて、声が漏れた。

 空気が甘く震えた。

 あの人のためにあたしは存在して、

 あたしのために、彼は壊れていく。


 そしたら、たぶん。

 あたし、ちゃんと「好き」って言えると思う。

 その一言だけは、あたしにとって“最後のごほうび”だから。

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