第3話 チェキでガチ恋勢が動く
列が進むたび、心臓の音が大きくなっていった。
物販の空気は、静かだった。
叫び声も、笑い声も、もうない。
だが、熱は消えていなかった。むしろ音がなくなったことで、観客たちの執着だけが濃く滲み出ていた。
姫野るるは、ステージ衣装のまま、笑顔を張りつけている。
けれど、その笑顔の向こう側にある目の光だけが、なぜか現実的に見えた。
それを直視するのが、怖かった。
俺の前にいた男が、チェキを受け取って深くうなずき、後ろも見ずに去っていった。
次は、俺だった。
喉が乾く。手汗が止まらない。
何かを間違えたら“変なやつ”だと思われる。
どこを見ればいいのか、わからない。
でも、俺は、彼女に見られたい。
(俺を、見てほしい)
たった一言でも、俺の名前を呼んでくれたら。
それだけで、たぶん、生き返れる。
この瞬間に、俺の全部が乗っかっていた。
「は~いっ☆ 次の方どうぞ~っ!」
名前を呼ばれたわけじゃないのに、世界が跳ねた。
目が合う。笑っている。その笑顔が、自分だけに向けられた気がしてしまう。
その錯覚に、身を委ねることにした。
「し、慎吾……です」
かろうじて出た声。思っていたよりも高かった。
声帯が震えていた。
「しんごさんっ☆ ありがとぉ~! 来てくれてうれしいっ☆」
名前を呼ばれた。
世界が、音もなく染まっていった。
彼女の声が、自分の中で木霊する。
その三音が、自分の存在を初めて世界に刻んだような気がした。
「チェキ、どんなポーズがいいかな~? るるにおまかせでいい?」
「お、お願いします……」
「じゃあ……しゅきしゅきポーズっ☆ しんごさん、るるが、もっと近づいてもいい……?」
彼女はそう囁いてから、そっと俺の左肩に上体を預けてきた。
ツインテールが肩に落ちる。髪が首筋を撫で、指先よりも繊細な感触が皮膚に残った。
右脚の外側が、彼女の太ももと重なる。
ふわりとしたスカート越しに感じるその感触は、布一枚を挟んだ“確かさ”だった。
「るる、ここ、しんごさんの腕にちょっとだけ……ぴとっ☆」
言葉と同時に、彼女の胸のあたりが俺の腕に押し当てられる。
柔らかい。温かい。
それは偶然じゃない。意図的な、密着だった。
すぐ隣で彼女が笑う。
吐息が頬に当たる。
視線が横から刺さる。
「ふふっ……なんか、照れてる? しんごさん、かわいい~☆」
その声の振動すら、肩口から体内に染み込んでくる気がした。
「じゃあ……しゅきしゅきポーズっ☆」
彼女の右手が俺の手に添えられ、指をハートの形に整えてくれる。
さっきよりもゆっくり、ぬるりと触れてくる。
指先が俺の手の甲をなぞり、第一関節のラインを撫で、指と指が重なる“深さ”を探るようにピタリと合わせられる。
「うんっ……ここで、しんごさんと、ひとつのハートっ☆」
言いながら、彼女の顔がさらに近づいた。
頬が、俺の頬に軽く触れた。
耳と耳が重なる。
熱が、音が、鼓動が、境界を越えて混ざっていく。
「はーい、カメラさーん? いま、すっごく好きな瞬間です☆」
カシャッ!
シャッターの音が、世界の終わりの合図のように響いた。
その瞬間、フロアの片隅――
物販列の横にいた男が、両目を真っ赤に染めていた。
震える拳。
割れたサコッシュの縫い目。
ボロボロになったタオルを歯で噛み千切りながら、
彼は、血の涙を流すような顔で、そのチェキ撮影を凝視していた。
肩を小刻みに震わせ、喉からは意味を成さないうめき声。
指はチェキ帳を握りすぎて血がにじみ、
目の奥は、完全に“呪い”の色だった。
「……俺……あんな密着……されたこと、一回もねぇ……」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
誰にも聞こえていないと思っていたその声が、確かに慎吾の背中に届いていた。
それでも、彼は振り返らなかった。
写真の中では、るると自分が、ひとつのハートをつくって、ほほえみ合っていた。
誰にも壊させない。誰にも奪わせない。
その瞬間は、二人だけのものだった。
「……こんにちは。先ほど、物販で撮影されてましたよね」
視線を上げると、黒縁眼鏡の男がにこやかに立っていた。
缶バッジの数、ファイルの厚み、明らかに“この世界の住人”。
だが、表情は柔らかく、声も穏やかだった。
「初めての方でしょうか。いや、お顔を見たことがなかったので。
るるちゃん、今日もすごく機嫌良さそうでしたね」
彼は、こちらの名乗りを待つことなく話し続ける。
「僕は関口と申します。推し歴はもうすぐ四年になります。
現場参加211回。チェキは327枚ですね、本日で」
サコッシュを軽く叩く音が、鈍く響いた。
彼の笑顔の下に、分厚い“積み重ね”がずっしりと存在していた。
「それだけ通っていても、今日のあなたのような密着は……なかなか、見たことがないですね。
るるちゃん、本当に優しいので、緊張してる方には寄り添ってあげる癖があるんです」
丁寧に。理知的に。
しかし、その口調が逆に冷たく響いてくる。
「僕も、初めて“彼氏感ある”って言われたときは、本当に嬉しかったです。
あれは、あくまでファンサービスの一環だとわかっていても、やっぱり心に残りますよね」
その“嬉しかった”が、まるで誰かの所有物をそっと並べ替えるような、静かな支配だった。
「ちなみに、今日のあなたのチェキ……僕の知る限りでは、るるちゃんの“限界密着ライン”を超えていたかもしれません。
ふふ、あくまで記録上、ですが」
そこに笑みが乗ると、言葉の刃はむしろ鋭利になった。
「もちろん、偶然ですよ。ええ。彼女は気遣いでそうされたのだと思います。
ただ……次も同じ距離感を期待してしまうと、少し……落差を感じてしまうかもしれません」
優しい声のまま、“警告”が差し出された。
「それと……これは僕個人の感覚ですが。
るるちゃんって、“一回目の感触”をすごく大事にされる方なんです。
だから、初回が強すぎると、次に会ったときに“あれ?”ってなる方、多くて……。
実際、何人か、現場からフェードアウトされましたし……」
淡々とした追い打ち。
まるで無意識に地雷を踏ませるようなトーンだった。
「……あ、すみません、余計なお話ばかり。
でも、るるちゃんにとって大切な“空気”を守るために、ファン同士も距離感を考えながら応援しているので……」
そう言って、彼は軽く頭を下げた。
完璧な礼儀。どこにも落ち度がない。
だが確かに、心の奥に冷たい釘が刺さっていた。
「また現場でお会いできるの、楽しみにしていますね。
次は……ちゃんと、馴染んでおられるといいなって」
その一言だけが、確かに鋭かった。
関口が離れたあと、慎吾は無意識にポケットのチェキを押さえていた。
(これは、俺だけの一枚だ)
それでも、指先がわずかに湿っていた。
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