第2話 地下アイドル。それは沼

 雑居ビルの前に着いたとき、まず「ここで合っているのか」と思った。


 看板はない。照明も切れている。1階にはスナックが3軒、居酒屋、マッサージの貼り紙。どれも色あせている。

 地面には濡れたタバコの吸い殻。階段の壁に、唯一、貼られていたA4サイズの紙。


 


《ぴゅあぴゅあスマイル爆誕☆ 姫野るる定期公演》


 


 チラシはインクが滲み、角はめくれ、セロテープが剥がれかけていた。

 “ライブハウス斬(ZAN) 地下2階”とだけ、手書きの文字。


 階段を降りるたび、空気が変わっていくのがわかる。

 ぬるい。汗と香水とスモークとカビのにおいが混ざったような匂い。

 手すりにはベタベタと貼られたステッカーと、破れかけの注意書き。


 


《酒類持ち込み禁止》

《演者に触らないでください》

《当日券あります!》


 


 階段の奥、薄暗い扉。そこが“入り口”らしい。

 中から漏れてくる音は、音楽というより低いノイズのようだった。


 


「おひとりさまですか? 初見さん?」


 受付にいた女性に声をかけられた。黒Tシャツにサコッシュ。

 表情はフラットで、どこか事務的。


「当日券が1500円、ドリンク代で500円、計2000円です」


 財布から千円札を2枚出すと、ピンクの紙製リストバンドが巻かれた。

 「手首にお願いしまーす」

 ドリンク券には「水、緑茶、リアルゴールド(ぬるめ)」とボールペンで書いてある。


 


 カーテンをくぐって中に入った瞬間、むっとした熱気に包まれた。

 空調は効いていないのか、まるで地下の風呂場にいるようだった。


 空間は、思ったより狭かった。

 ステージは地面から20センチもない。鉄パイプで組んだ柵が一本、床に置かれているだけ。


 天井は低い。

 蛍光灯はところどころ切れている。

 奥にあるスピーカーだけが、やけに大きくそびえていた。


 


 観客は二十人ほど。全員、男。


 黒Tシャツ。腰にタオル。首には推し名入りのネームストラップ。

 ペンライトの入ったホルダーをぶら下げた男たちが、既に立ち位置を確保している。


 最前列は壁に張り付くように肩を寄せ合って並び、中列はガムテープで引かれたラインを基準に立っている。

 俺はその“ルール”を知らず、後ろの方に自然と立っていた。


 


 前方にいた男が、こちらを振り返った。


「初見さん?」


 背後から声をかけられた。

 声だけは優しげだったが、振り返るとその目は笑っていなかった。


 首にねじ込まれたタオル。擦り切れた法被。

 Tシャツの背中には「るる推し参戦」って手書きで書いてある。


 


「あっ、はい。たぶん……チラシ見て来たんですけど」


 


「そっか。……るる、推し?」


 


「え……はい」


 


「そーなんだ。…………じゃ、気をつけてね」


 


 言い終えたあと、軽く笑った。

 でも、目だけは刺さるように鋭かった。


 


 その男の隣にいた別の観客が、俺の足元を一瞥した。


 目が合ったわけじゃないのに、なぜかヒヤッとした。


 


 何がどう“気をつける”のかは聞けなかった。

 いや、聞けない空気だった。


 


 そのとき、照明が一度、バツンと落ちた。

 闇。スモーク。酸素が減る。肌に汗の膜がまとわりつく。


 


「ぴゅあぴゅあスマイル、届けに来たよぉ~~~っっっ☆」


 


 その一声で、観客全員が前にのめった。

 地響きのような歓声。咆哮。地鳴りのようなフロアの震え。


 


「地球ゥゥゥゥ!!!!!」

「爆誕きたァァァァァ!!!!」

「命ィィィィィィィッ!!」

「尊死ィィィィィィ!!!!!!」

「オレモォォォオオオオオ!!!!!」

「全細胞がるるになったぁぁぁぁあああ!!!!!!」


 


 床が振動している。

 サイリウムの光が、左右にうねる波のように動いていた。


 ジャンプする音が連続し、汗が飛び、肩がぶつかる。


 


 ステージの中央。ピンクのライトの中、彼女がいた。


 


 姫野るる。


 


 ピンクのツインテール、制服風の衣装、ニーソックス。手には有線マイク。足元を確かめるようにステージを跳ねていた。


 


「はーい! 今日もありがとね~っ! るるのこと、好きな人~っ☆」


 


「オレモオオオオオオオオ!!!!!」

「世界で一番ちゅきィィィィィ!!!!!!」

「家燃えても来るわァァァァ!!!!!!」

「生まれ変わっても推すうううう!!!!」

「オレの全人生るるに捧げたァァァァアア!!!!!」


 


 拳が突き上がり、サイリウムが八の字を描き、合いの手が完璧に揃う。


 間奏になると、一部の観客が突然しゃがみ込む。

 なにが起こるのかもわからず見ていると、タイミングを合わせて一斉にジャンプした。


 


「ジャンプ爆誕タイム!!!」


「いくぞオイ!!! いくぞオイ!!! いくぞオイッッッ!!!!!」


「るるるるるるるるぴーーーーーーーー!!!!!!」


 


 目の前のフロアが、狂っていた。

 ライブという名の宗教儀式。

 全員が“るる”に祈っていた。

 恋と信仰と欲と狂気が混ざっていた。


 


 最前列の中心にいた男は、一度も笑っていなかった。マスク越しに息を荒げながら、ただ彼女を凝視していた。その目は、恋でも憧れでもなく、所有欲に近かった。


 


 そして確信した。


 


 ここには、“るるの隣に立ちたい”と本気で願っている男たちがいる。


 


 少しでも目が合ったら。

 少しでもファンサが飛んだら。

 少しでも名前を呼ばれたら。――“敵”になる。


 


 先ほどの「気をつけてね」が、じわじわと胃に刺さってきた。



 「ぴゅあぴゅあ爆誕ありがとぉ~~っ☆

 みんなぁ、今日はどのくらい好きぃ~?」


 


 「銀河ぁあああああ!!!!!!」

 「万物んんんんん!!!!!!」

 「地球と契約したあああ!!!!!」

 「酸素より大事ィィィィィ!!!!」

 「るるで生きてるうううううううう!!!!!!」


 


 その声の圧に、脳が揺れた。

 耳が痛い。心臓の音が聞こえない。

 床が振動し、照明の熱が肌を刺す。誰かの汗が飛んでくる。


 


 人の叫びが、祈りに近いものに聞こえた。

 見渡せば、顔を真っ赤にして涙を流す男、床に崩れかけて手を合わせる男、スピーカーを見つめて呪文のように名前を繰り返す男。

 全員が、今この瞬間だけ“生かされている”ようだった。


 


 最前列の中心、腕を振るっていた黒縁メガネの男が口を開いた。


 


 「るる~~~~!!見てるよ~~~~~~!!!」

 「きょうもかぁいいよ~~~!!!」

 「ぜったいオレがいちばんスキ~~~~~~~!!」


 


 まっすぐな、狂気のない叫びだった。

 だがそれがいちばん怖かった。


 


 それを聞いた後列の誰かが小さく舌打ちした。

 だれも言葉にはしない。けれど空気が変わった。


 


 ステージ上、るるが誰かの方を見て笑うたび、

 周囲が一斉にそちらを見る。

 照明に照らされた場所が、熱を持って染まっていく。

 ファンサが、命の値段みたいになっていた。


 


 “見られること”が、全てだった。


 


 最前列は、何かを奪い合っていた。

 誰が一番長く目を合わせたか。

 誰に笑ったか。

 誰の名前を言ったか。

 その数秒の記憶を、全員が噛みしめていた。


 


 (……いいな)


 


 気づけば、そんな言葉が胸に浮かんでいた。


 


 (いいな……俺も……)


 


 言葉にするほど明確ではない。

 でも、胸の奥に、小さな渇きのようなものがあった。

 自分もそこにいたいと思った。

 自分にもあれがほしいと思った。


 


 「見て」って言いたかった。

 「俺を見て」って。


 


 何年ぶりだろう、そんな感情。


 


 誰にも見られないことに慣れていた。

 名前を呼ばれないことも、話しかけられないことも、

 “透明”であることが普通になっていた。

 でも今――


 


 ステージの上にいる少女が、

 誰か一人を“見た”だけで、

 世界が揺れるのを見てしまった。


 


 羨ましかった。

 そこに、自分もいたいと思った。


 


 「ぴゅあってくれて、ありがと~~っ☆」


 


 るるが投げキスをした瞬間、全員が手を伸ばした。

 その手の中に何もないのに、全員が何かを掴もうとしていた。


 


 (俺も――あれを)


 


 ペンライトもない。

 コールも知らない。

 ファン歴もない。

 誰にも存在を知られていない。


 


 それでも、この中にいて、

 なにかひとつでも、あの光の粒の中に混ざりたかった。


 


 声が出そうになった。


 


 けど、出なかった。


 


 それでも、たしかに――

 心の底から、承認されたいという想いが湧いていた。

 誰かに必要とされたい、名前を呼ばれたい。

 「ここにいていいよ」と言ってほしい。


 


 それが、どうしようもなく強く、静かに、熱く、

 俺の中で膨れあがっていた。

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