4話

 王子は自室に戻っても、先ほどのことが忘れられません。

(くだらない。でたらめばかりを並べて、なんてやつだ…)


 しかし、大臣の子に言われたことは、王子の胸にぽつんと黒くしみ込んで、なかなか消えません。

 大臣の子は憎たらしい奴ですが、彼は、王子の心にかかっているもやのようなものを、ずばり言い当ててくれたのでした。

 

この城からは、この国にあらゆる恵みをもたらしてくれる海を一望できます。

 

 王子も、幼い頃からこの海を見て育ち、はやく海で遊んだり、船やボートに乗ってみたいと思っていました。

 しかし、王子は今まで、一度も海で遊ばせてもらったことがありません。

国王や妃から、「海は危ない。王子の身に何かあったら大変だ。海には入らなくていい」と、きつく言われていたからです。どんなに空が晴れて、海がおだやかな日でも、お許しが出ませんでした。

 しかし、海を有する国の王子が、泳げないというのは、どうも納得がいきません。

 王子の気になることはまだありました。 


 (入浴のときですら、僕は一度も、湯船に入らせてもらったことがない。

そばに仕える誰もが、口をそろえて「王子さまがおぼれたら大変です」などと言う。赤ん坊じゃあるまいに。いつも召使いたちが、体に少しづつ湯をかけて、時間をかけてすすいでくれるが、少しやりすぎではないか。)

 

 それだけではありません。

 周りが王子の、死んでしまった両親を懐かしむことは、めったにありませんでした。

 両親の命日には、国王も王妃も、王子を連れて、ふたりが生きていた頃からの家来を伴って墓参りをします。しかしその場でも、ふたりのことを口にする者はいません。

 王子のほうから周りに、亡くなった父や母がどのような人であったかを聞けば、

 「とてもよいお方でしたから、失われたことが惜しくて…」

と、誰もが苦しそうに目を伏せ、それ以上は決して、ふたりの昔話を語ってはくれないのでした。

 

(なにかあるんだ。僕だけが知らない、なにかが…。)


 王子は、頭のいい子だったので、いつもそれを肌で感じて、しかし誰に何と質問してよいのかわからずにいました。


人魚の伝説は、王子も小さな頃から、侍従がしてくれるおはなしや、昔話などで聴いていました。


(「海にいる妖精で、美しい女の姿と、美しい歌声を持っている。

その歌で人を惑わせ、また船を迷わせ、沈没させてしまう、とても恐ろしい妖精。 決して、関わってはいけない」…)


 王子は、窓の向こうに広がる海を見ていました。

今日も海は、はるか遠くまできらきら光って、美しいのに、王子の胸の中は、今日も苦しくふさがれていました。

 夜になっても、王子は眠れず、部屋から真暗な海をながめていました。


 ふと、月に照らされた水面に、ほんの一瞬だけ何かいたような気がしました。


(かなり大きいぞ。くじらか?)


 窓枠につかまって、目を凝らしてよく見ると、それは人が泳いでいるようにも見えました。

長く光る髪が、背中にはりついて光っています。


ーあれは、人魚にちがいない。ー


 王子は部屋を抜け出して、忍び足で城の外に出ると、あんなに城中の者から言われていた注意を忘れ、夜の海へと向かっていました。

真暗な中を塀づたいに歩いて、ようやく船着き場にたどりつきました。


 遊泳用のボートのかげに身をひそめて、そっと、顔を暗い水面に近づけましたが、何も見えません。

 黒い水が不気味に波打って、今にも吸い込まれそうです。


 王子は導かれるように、岸につながれたボートの綱をほどいて、真暗い夜の海へ漕ぎ出しました。

もし見つかったら、大目玉です。

 王子は、ボートの漕ぎ方を知らなかったので、何度もバランスをくずして舟から落ちそうになりました。

舟遊びも、いつでも自分だけは禁止され、ほかの者が乗っているのを、ただ見ていただけだったのですから。


 月の明かりだけが、城の形と方角を、見失わないように王子に知らせてくれました。


 人魚が跳ねていたあたりに来たのか、もっと遠くへ行かなければならないのか、わからなくなってきた頃、前方から水をかく音がしました。

 王子は身構えました。何が出てくるかわかりません。

くじらか、サメか、もっと凶悪な敵かもしれません。


 しかし出てきたのは、金色の髪を持った女の顔でした。






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