後編
思惑あるお兄ちゃんの指示で、気持ちよく晴れた空の下を歩いて、わたしは近所の河川敷に向かっていた。
土曜日の午後。
降り注ぐ陽射しが、暑さよりも先にとにかくまぶしい。家を出た瞬間に察したわたしは、一度引き返して日焼け止めクリームを塗ってから来ていた。
肩にかけたトートバッグには、三日前に書き終えたラブレターを入れていた。持ってこいという、そういう指示だったのだ。
ささやかな堤防の上をしばらく進み、傾斜のある石の階段をおっかなびっくり下ると、そこには芝生と石畳で整備された河原が横に広がっていた。このところ雨の日が少ないせいか、川の流れもとても穏やかだ。
この辺りは通学路でもないので基本的に訪れない。祐吾とのデートスポットにも採用されなかったから、家から近いといえどまったく見慣れない景色だった。
のどかな川沿いをきょろきょろ眺めていると、下流側にお兄ちゃんが立っているのが見えた。わたしに向けて大きく手を振っている。
低く刈られた芝を踏みしめながら、わたしはゆっくりとお兄ちゃんのところへ行った。
ちなみにわたしは、ここで何をするのか詳しいことを知らない。
お兄ちゃんがどうしても教えてくれなかったのだ。
訊いてもニヤニヤするばかりで「その日になればわかる」とかはぐらかして、まるで悪だくみをしているようだった。
らちが明かなかった。
そこで彼女さんにメッセージを送ってみると、「
その彼女さんも遅れて合流してくるらしいので、おそらく楽しげなことをするに違いなかった。消沈するわたしを慰める会とか、そんな内容なのだろう。
お兄ちゃんが送ってきたメッセージの『ラブレターを空に飛ばす』というのも、何を指しているのかさっぱり不明で、簡単に言えばわたしは何も知らされていないのと同じだった。これでふたを開けてみれば、紙飛行機にしてはるか遠くまで飛ばすとかだったら、わたしは軽くキレるかもしれない。
思えばお兄ちゃんのことを、あまり深く考えたことがなかった。
だから、普段から何をしているのか想像することすらわりと困難だ。
頭は悪くないみたいだけど、実際に成績を見たことがあるわけじゃない。ゲームが好きみたいだけど、実際に遊んでいるところはじっくりと見ていない。祐吾とテレビの前で並んで対戦しているときも、わたしは祐吾のことしか見ていなくてお兄ちゃんがどうとかは気にしてもいなかった。
川の流れる方向と合わせて歩き、お兄ちゃんのもとへ近づいていくと、地面に敷き詰められた芝は途中でむき出しの土に変わった。しっかりと踏み固められているのがわかるこげ茶色だ。
そしてその先に見えてきた小山に、わたしはこの河原で何が行われようとしているのか完璧にわかった。
たき火だ。
間違いない、お兄ちゃんの考えはこうだ。
ここで、ラブレターを燃やして、煙として空の高く高くまで飛ばそうと、そうして祐吾のいる天国まで送り届けようと、そういうこと企んでいるのだった。
それは絶対にわたしに伝えられないわけだ。
口に出した瞬間、絶交レベルで拒絶される可能性が大いにあると、お兄ちゃんは容易に考えつくだろう。なんたって一生懸命書いたものを、あろうことか焼却しようというのだ。そんな分の悪い賭けは避けたかったに違いない。
それに。
お兄ちゃんがどこまで気を遣ってくれたかわからないけれど、もし、その悪い予想が当たってしまったら――
わたしは独りになってしまう。
つらい気持ちになっているわたしを、さらに孤独に落としてしまわないように、お兄ちゃんは心を配ってくれたのだろう。
最近のうざ絡みもそういうことなのだと捉えると、すとんと理解ができた。
今まで十数年間一緒にいて、ぜんぜん意識してこなかったことに、わたしはようやく気づいた。
このお兄ちゃんは、思いがけず、わたしのことが好きなのかもしれない。
「お兄ちゃん、来たよ」
複雑な心境になりながらわたしがたどり着くと、お兄ちゃんは満面の笑みを浮かべた。
「お疲れ。この場所、すぐにわかったか?」
「見通しがいいから到着すればわかるかなって思って、何も考えずに来たよ」
「そうか。なかなかちょうどいいスペースがなくてな」
「それって」と、わたしは少し離れた地面に山になっている紙くずと木の枝を指さした。「これを燃やす場所のこと?」
するとお兄ちゃんは、気まずそうに頭をがしがし掻いた。
「ごめんな。早くこのことを打ち明けると、拒否られると思ったんだ」
「そうだよね」
「やっぱり反対か?」
「ん……」
わざと微妙な反応を返してみた。教えてくれなかった仕返しだ。
「あ、彩海……ほかにいいアイデアが思い浮かばなくて、その、こんなかたちになってしまって……」
「ん。いいよ!」
こらえきれなくて、すぐにわたしはくすくすと笑ってしまった。
それで、お兄ちゃんもほっとしたようだった。
「そ、そうか! これで嫌われたらどうしようかと思って」
嫌わないよ、お兄ちゃん。ありがとう。
「ぜんぜんだよ、ありがとね」
胸をなでおろしたらしいお兄ちゃんは、すっかり例の微笑み顔だ。彼女さんが好きな表情をしている。
地面に置いていた手荷物を持ったお兄ちゃんは、くずの山のそばまで近寄ってしゃがみこんだ。
わたしも同じように隣でしゃがむ。
まるで秘密の会話をしているみたいだ。
「見てわかる通り、これからするのはたき火だ。事前に消防署に連絡して許可も取ってきた」
「許可がないとダメなの?」
「火事と間違われるかもしれないし、空気になびく煙の問題もあるからな。ルールやマナーが厳しくなっているみたいなんだ」
よく知らないし興味もないけれど、一応は「ふーん」と言っておいた。
お兄ちゃんは小枝でくず山をつつく。
「今日は風も弱いし、たき火をするにはちょうどよさそうだ」
「まあ、確かに穏やかな天気だよね」
「これから天候悪化も考えられるからな、さっそく始めるか」
小枝をそっと地面に下ろしてお兄ちゃんは立ちあがった。そして、荷物の中からマッチを取り出した。
しゅっというマッチを擦る音、それとともに簡単に火はついた。
それをお兄ちゃんは手際よくあやつり、あっという間に小さなたき火が目の前にできた。
わたしはしゃがんだまま少し後ろに下がって、火の移っていく様子を見つめていた。ぱちぱちとはぜる音は不思議と心が落ち着く。小さなたき火なので火力も弱く、そばに寄っても危険な感じはしなかった。
この場に祐吾がいて、一緒にしゃがんで燃える火を眺めながらお話できたら、どんなに幸せだっただろう。
でも、もしも祐吾が今も生きていたら、このイベントも行うことはなかったのだ。
どうしたいんだろう。わたしは、どうなってほしいんだろう。
トートバッグの中に手を入れて、そっとラブレターを引き出した。
決めるなら早いほうがいいと思った。
三日間かけて頑張って書いたこれを灰にするのは、どうしたって気が乗らない。
文にして綴ったわたしの気持ちが天国まで届くだなんて、お花畑なことを信じるわけがない。
お兄ちゃんの甘言に乗るのも癪だ。
それでも。
誰かを想う気持ちというのはすごく大切なものなのだと、祐吾から、お兄ちゃんから、この数日間で教わった気がしたのだ。
それに報いる……というのも変だけど。
わたしはラブレターを、たき火の上にそっとかざして、優しく置いた。
瞬く間に封筒の端から火がついて、塗りつぶすように黒が広がっていった。
しばらくは形を保っていたけれど、一分も経たずにラブレターはきれいに燃え切って、生まれた煙は、小枝や紙くずの煙と混ざり合って、澄み渡った青空へと昇っていった。
終わった、とそう思った。
ずっとしゃがんでいたので足は疲れて腰も痛かった。
心に穴が開いたような気分で、わたしはよろよろと立ち上がった。
そして振り向くと、お兄ちゃんが立っていて、両手に何か紙の束を抱えていた。
「なにそれ」
「去年使ったルーズリーフ。もういらないしこの機会に燃やそうと思って」
お兄ちゃんは歯を見せたいい笑顔をしていた。
そのしっかりと踏みしめて立つ膝に、わたしは強めにけりを入れた。
「いった! 何するんだっ」
「それはこっちのセリフなんだけど! 空へと飛んでいくわたしの愛の溢れるラブレターに、お兄ちゃんの適当な書き込みが混ざったら汚れちゃうじゃない!」
「なに急にファンタジーなことを言ってるんだ」
「そもそもこの計画を考え出したの、お兄ちゃんでしょっ!」
「俺はそこまでは考えてなかったな」
「ぐぬぬ……」
にらみつけるわたしの視線をものともせず、お兄ちゃんは何やら思案していた。
そしてあの微笑みを浮かべると、大量のルーズリーフをぱらぱら確認しだして、小さい束にしてからわたしに差し出した。
「はいこれ、国語の授業のノートした部分」
「だから?」
「内容はおそらくきれいだと思う。国語だし。俺は落書きとかしない主義だし」
「はあ」
気が抜けた。もうあれこれ言うのも面倒だ。
仕方なしにわたしは一応はと思って、お兄ちゃんの意外と整った字を斜め読みする。開いた箇所は古文のところだった。見覚えのあるようなないような和歌がひたすらに書き取りしてある。
「その部分は、古文好きの先生に百人一首を一から百まで書かされたやつだな」
「聞いてない。黙ってて」
「ごめん」
国語はいつも平均点くらいの成績のわたしだけど、別に嫌いというわけではない。本だってときどき読むくらいなのだ。
わたしが今、気にしているのは、ナンバーが中盤くらいの一つの和歌だ。
『君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな』
「ねえお兄ちゃん。これは?」
近くでたき火の様子を見ていたお兄ちゃんは、そばに寄ってきてわたしの手元をのぞき込む。
「ああ、いいよなその和歌。俺も好きだ」
「じゃなくて、意味が知りたくて」
「そうだな……。結ばれる前は『お前のためなら死ねる』って思っていたけれど、結ばれてからは『ずっと一緒にいたい』って思うようになった。……こんな感じかな」
わたしはとっさに何も言えなくなって、ごくんとつばを飲み込んだ。
暗く閉ざしていた心の中で、鍵と鍵穴がぴったりとはまったような、かちりとした音を立てたような気がした。
瞬間、音が消えたような感覚になったくらいだった。
その静けさの中、今はもういない祐吾のことをわたしは想った。
でも、がささという雑音がして、その心地よさは失せた。
音がした方向に見ると、お兄ちゃんが荷物からアルミホイルとさつまいもを取り出していた。
「噓でしょ」
「たき火でやきいもは、男のロマンだからな」
「さっきから思ってたんだけど、このイベントってわたしのためじゃないの?」
「彩海のためだな。でも俺は主催者だから」
「うう……」
もう知らないのだ、お兄ちゃんのことなんか。
たき火の直下にさつまいもを包んだアルミホイルを突っ込むお兄ちゃんは、本当に心の底から楽しそうだった。
「一番は、彩海のためだ。それで、これは立案者である俺のわがままなんだけど、」と言って、お兄ちゃんは立ち上がり膝を手で払うと、わたしに向けてサムズアップした。「せっかくだからさ、意味のあるものにしたいだろ?」
午後ののどかな日和と、整備されて安全な河原と、無害そうな男女の小さなたき火は、人を引き寄せるようだった。
やきいもを焼き始めて五分ほどで、親子連れが散歩の途中で立ち寄ってきた。
小学生くらいの幼い男の子が元気よくこちらを指さしていて、母親がにこにこと連れ添っている。
「こんにちは。たき火、いいですね。少し見ていってもいいかしら」
「こんにちはー。どうぞお近くまで」
「私が子どもの頃は家の庭でたき火したりもできたんですけど、もう時代ですかね、手続きとか禁止事項とかいろいろ面倒になってしまって。子どもに体験させることもできなくて寂しいなと思っていたんですよ」
「俺も野外で火というと、学校行事のキャンプとかでしか経験がなくて、それで今日はうきうきしていたんですよー」
「あらあら、じゃあ今は彼女さんと楽しまれているのね」
「あ、これは妹です。彼女は別にいて、遅れて来てくれるんです」
「そうなの。兄妹で仲がいいのね。彼女さんも焼けちゃうわね」
「たき火なだけに」
「うふふ」
お兄ちゃんが謎の会話術で奥様とご歓談して、その間わたしは男の子と一緒にたき火に手をあてて「あったかいね」とか話していた。
ご高齢の方も散歩ついでに寄ってきた。
小心者のわたしは、危ないとか何とかで怒られるのではと戦々恐々していたけれど、そんなことはなかった。
「おお、たき火なんて見たの何年振りかね、ばあさん」
「そうだねえ、少なくとも十年はご無沙汰だったかねえ」
すかさずお兄ちゃんは対応に出る。
「こんにちはー。たき火にあたっていきませんか?」
「いいのかい? 嬉しいね。この焼けるにおいが、なんとも童心にかえらせてね」
「じいさんは山生まれ山育ちだったから、さぞ懐かしいんでしょうねえ」
「そうなんですね、山を駆け巡るの、俺も子どもの頃にしてみたかったな……」
みたいに、なごみ空間を生み出したりしていた。
たき火を囲むうるさくないけれど賑やかな空気、そして空に昇っていったラブレター。
少しの間、祐吾のことを忘れている自分に気づいた。
お兄ちゃんのペースに振り回されて、それにかまけていたせいだろうか。
そのお兄ちゃんはというと、今は割り箸にマシュマロを刺して、たき火で軽くあぶっている。
焼きマシュマロは食べたことがないので味が気になる。目の前でぱくついているのを見ていると、あとで分けてもらおうかなと思う。でもそう伝えなくても、お兄ちゃんは絶対にわたしの分も残していてくれると、今では無根拠に信じられる。
わたしが物欲しそうに見つめていると、やっぱりお兄ちゃんは気づいてくれて近寄ってくる。
「ほら彩海、焼けたぞ」
「うん」
「熱いから気を付けてな」
「ん。……あの、ね」
「どうした改まって」と、お兄ちゃんは用意してきたらしい紙皿に焼きマシュマロを箸ごと載せて、優しく訊いてくる。「慣れないことばかりで疲れたか?」
わたしはゆっくりと首を横に振る。
祐吾に伝えたいと思ったのだ。わたしは、もう大丈夫かもしれないってことを。
ラブレターに追伸を書き添えたかった。
「あの、何か紙とペンって持ってない? ちょっと書きたいことがあって」
「小さなメモ帳とボールペンくらいならあるな」
「借りてもいい?」
「もちろん。紙は三枚でも五枚でもいいぞ」
そう言って、お兄ちゃんは荷物のポケット部分に手を入れて探り出した。ほどなくして片手サイズのメモ帳と油性ボールペンを取り出した。
「はいよ」
「ありがとね」
何も書かれていないその紙片に、わたしはボールペンで短文を書き記した。
『P.S.わたしはもう大丈夫だから心配しないでね。それだけ。またね』
書いたそれを、わたしは火が弱まりつつあるたき火にくべた。一瞬で燃え上がるメモ用紙と、うっすらとした煙を見送って、これで遠い場所へ旅立った祐吾を安心させられたかなと思って、暮れ始めた空を、首が痛くなるまで見上げた。
それから、わたしが首筋を手でもんでいる間に、お兄ちゃんはたき火の後片付けに入り始めていた。
炭と灰の中からアルミホイル巻のやきいもが出てきて、
「忘れてた……」
とお兄ちゃんは呆然としてつぶやいた。
紙皿に載せて二人でおそるおそる中を確認すると、さつまいもの皮は一面が黒く焦げていた。しかし割ってみるとその奥はしっかりと火も通っていて、食べるには問題なさそうだった。
やきいもの半分をわたしに手渡ししながら、お兄ちゃんは明るく笑った。
「ありきたりだけど、祐吾は空で彩海のことを見守り続けているよ。最近の彩海の気持ちをちゃんと理解できているとは思わないけどな、いつまでも彩海がしょげた姿しているんじゃ、兄貴はそばで何やってんだって、祐吾に怒られるよ」
そう言い切ると、お兄ちゃんはやきいもにかぶりついて、おいしそうに目を細めてもぐもぐし出した。
何も応えられないわたしがいた。
握った手にぬくもりを与えているやきいもを、わたしも口にする。
まともな食事をとるのは何日ぶりだろう。
ふっくらした中身がすごくおいしくて、なんだかんだわたしは生きているんだと、強く感じた。
涙が流れた。
結局のところ、わたしはここにいるんだと思う。
すごく悲しいけれど、すごく寂しいけれど、祐吾のもとへはまだ行けないと思ってしまった。
死者の気持ちを知ることはできない。
事故の瞬間、ごめんと言った祐吾が、何を託して死んだのか、生きているわたしには知る由もないのだった。
わたしを置いてこの世を去った理由も、答えを出すことは不可能なのだ。
長い時間をかけて考えてもわかりっこないことで、だから、わたしは祐吾のことを好きでいる。
生きて、生きたまま、彼のことをずっと好きでいる。
一生離ればなれなのに、そんなのは些末なことなのだと気にもしないで、もういない祐吾のことを大好きなままの、扱いに困る面倒くさい女でいる。
『君がため 惜しからざりし 命さへ』
あなたのための、惜しくないわたし。
心の中ではずっと一緒だ。
わたしを捕らえて暗闇に閉じ込めていた重たい扉が、ゆっくりとゆっくりと開いていく。
その細い隙間から差し込む、やわらかな明るい光が、わたしの今を照らし始める。
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