前編

 祐吾が死んで半月が過ぎた頃、わたしは吹けば飛ぶ燃えかすみたいな気持ちで寝起きしていた。もちろん学校へは行く。遅刻もしないし、授業も寝たりせずに受けている。この間の英語の抜き打ち小テストだって八割越えだった。

 教壇に立つ先生たちは、真面目な様子のわたしを見て不安げな顔をした。あんなことがあったあとに成績を上げていることに、かえって心配を膨らませているようだった。

 無理しているんじゃないか?

 やけになっているのでは?

 今までの片瀬彩海を固く閉じ込めているのではないだろうか?

 それらは当たらずとも遠からずで、わたしは意識して自分に課していることがあった。

 祐吾のもとに、行きたくて。

 それで、自分は燃え尽きたあとのちりなのだと思うことにしたのだ。

 心ここにあらず、というのを体現しようとしていた。

 わたしの心をもう現世には留めておきたくなくて、いわば抜け殻と化すのを目標に、目の前のことをもくもくと取り組んでいたのだった。



 一週間の始まりのこの日も家に帰ると、すぐに自分の部屋に行って、ベッドに倒れ込んだ。頭の中をはしる思考は暗雲の中から抜け出せていない。カーテンの閉めた薄暗い室内に、机の上のアナログ時計の針が進む音だけが、規則性をもってかすかに響く。耳障りで、不快で、うっとうしいと思った。

 うつろな気分で、わたしは立ち上がると、時計を掴み取った。そして、それを、床に向かって勢いよく投げた。

 機械の壊れる鈍い音。時計は時を刻まなくなった。

 ただのゴミとなったそれを、黙って見下ろしていると、ノックの音がした。

「彩海? なんかド派手な音がしたけど大丈夫か? 貧血で倒れたとか、身動きできない状態とかじゃないよな……?」

 お兄ちゃんだ。

 部屋が隣だから、音を聞きつけて様子見に来たのだろう。

 共働きの両親はまだ帰宅していないから、どちらにしろやって来るのはお兄ちゃんだけだ。

 わずらわしいと思った。

 祐吾が亡くなって以来、お兄ちゃんはことあるごとにわたしに気遣いを向けてくるようになった。朝のリビングでは「おはよう彩海、今日は雨が降るから傘を持っていけよ」とかわざわざ伝えてくるし、昼はメッセージアプリで「晩ごはんはチキンカツだって」とかどうでもいいこと送ってきて、夜には「お疲れ、肩でも揉むか?」とかセクハラをしようとしてきたりする。

 わたしとしては当然、お兄ちゃんはお呼びではなかった。残念ながらお兄ちゃんでは、わたしの心の穴はふさがらない。でも、声掛けをしてくるその気持ちを一ミリも受け取らないのもよくない気がして、そのたびごとに、うう、とか、んー、とか、うなるような生返事で応えていた。

 わたしの雑な返答に、お兄ちゃんは破顔して嬉しそうにした。

 適当に扱っても喜ぶなんて変な奴だと思いつつ、下手につつくのも面倒なのでそのままにしていた。

 けれど。

 わたしのこの奇行は、必要以上に心配させてしまうかもしれない。

「彩海、けがとかしてないか?」

 どうやらお兄ちゃんはいなくなってくれないみたいだった。

 仕方ない。

 時計だった残骸を避けてドアまで近づき、

「ちょっと時計を落としちゃって。壊れて大きな音がしたの。でも大丈夫だからね」

 と、嘘じゃないけれど本当でもないことをドア越しに伝えた。

 これで去ってくれるだろう。

 しかし、そうはならなかったのだ。

「壊れただって? 危ないじゃないか! 尖った部品で手とか切ってないか? 踏んだりでもしたら痛いよな、今すぐきれいに片付けするからドアを開けてくれ!」

「嫌ですけど……? もう、大丈夫だから、本当に」

「いや、彩海は昔から無理をするタイプだから、信じないぞ! 実際は指を深く切って血を流しているのに、それをハンカチできつく巻いて応急処置して、あぶら汗を流しながらこうやって話しているのかもしれない……痛いよな、もう少し我慢してろ、今すぐお兄ちゃんが手当てしてやるから!」

 我が兄の妄想力が怖い。話が通じない相手が、こんな身近にいたとは、それこそ信じたくないことだった。

 背筋に冷や汗が流れた。

「だ、大丈夫だってば! わたしの言ってること、聞こえてる?」

「彩海、ドアを開けるぞ! 年頃の妹の部屋に入るのは気が引けるが、緊急事態だから許してくれっ!」

「許さないけど! 絶対に許さないですけど!? 踏みとどまってよ! ていうか、いい加減、話を聞いてよーっ!」

 我が家には部屋の鍵というものは存在しない。

 わたしは必死になって、こちら側に開こうとするドアに全身を押し付けた。

 でも同時に、万事休すか、とも思った。

 一瞬の気の迷い。

 ふっとわずかに力を緩めてしまった。

 その隙を、廊下から圧力をかけるお兄ちゃんは逃さなかった。

 ドアは動く勢いを増しながら開いていって、わたしはといえば押し出されるように倒れて尻もちをついた。

「痛い……」

「大丈夫か!?」

 ちょっと、いやかなりムカッときた。

「お兄ちゃん、ステイ」

「え?」

 涙目になっているのを自覚しながら、わたしはお兄ちゃんを見上げた。

「そこ、座りなさい。もちろん正座で」

「えーと? ……あ、いや、座らせていただきます」

「はい」

 おずおずとこちらを窺ってくるお兄ちゃんを、半眼で見据えながら、わたしはゆっくりと立ち上がった。

「ちょっと、相談にのってもらうけど」

「はい……、あの、彩海さん、おけがのほうは」

「誰かが強引にドアを開けたせいで、強く床に倒されてお尻が痛い」

「それは、大変申し訳なく思っております……」

 頭を下げるお兄ちゃんを見て、ひとまず溜飲は下がった。

 わたしは制服のスカートの裾に気を配りながら、今度はその場に胡坐をかいた。

「ねえ、お兄ちゃん。はるか遠くにいる人を強く想うとき、何をすればいいか教えて」

 こんな変なお兄ちゃんだけど、一応は彼女持ちだ。

 参考になる体験談を聞けるかもしれない。

 祐吾の後を追って死んで一緒になる……それ以外の答えが出てくるかもしれない。

 正座したままお兄ちゃんは腕組みした。「そうだな、うーん……」と何やら真面目に考えているみたいだったけれど、少ししてから微笑みを浮かべた。

 お兄ちゃんの微笑が好きだと前に彼女さんがのろけていたのを思い出した。妹のわたしからすると、ただの気の抜けた顔にしか見えない。

「想いを伝えるのは、やはり古来からの方式こと恋文、ラブレターだろうな」

「好きです、って?」

「そうそう。『あなたが好き』って、気持ちを言葉にして書いていくんだよ」

 余裕綽々とばかりにお兄ちゃんは話している。

 でも、ラブレターなんかと無縁に生きてきたわたしにとっては雲をつかむような方法だった。

「難しそう……」

「そうだなあ、例えば一緒に出かけて遊んだ思い出でもいいし、ちょっとした優しさにキュンときたとかでもいいし、離れている間はずっとあなたのことばかり考えている、みたいなことでもいいかな。そんな感じのことを自由に書けばいいんだ」

「わたし、文章書くの苦手なんだけどな」

「ラブレターは気持ちがこもっていることが一番大切だから。別に誰かから添削されるわけでもないし、一文に何回も『好き』って入れてもいいんだし」

「なんか恥ずかしい……ハードルが高いかも」

「まあ、気持ちはわかる。それじゃ、最初の一文だけ決めよう。手紙の一行目は、これでいく」


 “好きです。”


「いいアドバイスになったか?」

 いつになくお兄ちゃんがへらへらしてこちらを見ているので、わたしは素直にお礼を言いたくなかった。

「……許してあげるから」

「えーと?」

「話を聞かずに勝手に部屋に入ってきたことっ!」

「あはは、うん。……ああ、そこに落ちている時計だったもの、せっかくだし回収していくな。危ないし」

「ん」

 わたしが返事とも言えない返事をすると、お兄ちゃんは実によい笑顔を浮かべるのだった。



 祐吾のことが好きだった。

 今も好きなままだ。

 伝えたいことが、山ほどあった。

 感謝も、涙も、これからしたかったことも。

 どうしてわたしを置いて死んだの?


 また祐吾と一緒になるためなら、わたしは死んでもいい。


 のそのそとした動きで椅子に腰かけた。

 そして、手紙を誰かとやり取りする習慣のないわたしは、封筒も便せんも両方とも持っていないことに気づいた。これでは手紙を書くことができない。

 お兄ちゃんにメッセージを送る。

『封筒と便せん持ってない』

『ルーズリーフでいいと思う。そのほうが二人にとって思い入れもあるんじゃない? 封筒の出番は最後だし後で用意すればいい』

 たまにお兄ちゃんは、こうやって鋭いところを衝く。

 放課後の教室に祐吾と二人で残って、隣り合った席でテスト勉強をしたことを不意に思い出した。窓際のカーテンの隙間から差す夕陽のまぶしさ、シャーペンで字を書くこすれる音、ときおり触れ合う肩。

 切なく心が締めつけられた。

 お兄ちゃんの提案に乗ることにして、わたしは通学カバンからルーズリーフの束を取り出した。いつも授業で使用するため、枚数は有り余るほどあった。

 机に向かい、用紙の一番上に『好きです。』と書いて、それから、祐吾への想いであふれる海へと沈み込んでいった。

 こうしてわたしは、届かないラブレターを書き始めた。



 ルーズリーフの三枚目が埋まってふと顔を上げた。

 すっかり没頭していた。

 辺りが静かだ。家の中からも、窓を隔てた外からも、音が聞こえてこない。

 時計は……と思って、少し前に壊していたことに思いあたった。それで秒針の進む聞きなれたリズムもなく、一層の静けさを感じているのだろう。

 スマホを手に取れば、時刻は夜の十二時近くだ。

 すっかり夜更け。両親は寝入っている頃で、お兄ちゃんももしかしたらベッドに入っているかもしれない。

 晩ご飯を食べていないけれど、空腹の感覚はなかった。

 祐吾の死のあとから、わたしは食事をろくにとっていなかった。

 とにかくお腹がすかなかった。

 何も食べていないとふらふらして支障が出るので、最低限のゼリー飲料は口にしていたけれど、ちゃんとした食べ物からはもう半月ほど離れていた。

 水でも飲もうと思い、わたしは部屋を出てリビングへと向かった。

 廊下からドアを開けて中に入り、消灯していて暗かったのでまず電気をつけた。そこでわたしはぎょっとした。食卓のテーブルにお兄ちゃんが顔を突っ伏してうたたねしていたからだ。

 最近のお兄ちゃんは本当に様子がおかしい。

 ちゃんと部屋で布団に入って寝ればいいのに不審なことをして、見つけた側は突然のホラーと出くわして驚くのに。

 起こさないようにすり足で床を歩き、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。

 それで一息ついて、寝ているお兄ちゃんをそのままにして、わたしは自分の部屋に引き返した。電気を消すときに、起こしてしまわないか緊張したけれど、身じろぎもせず何の反応もなかった。

 わたしは書き上げた三枚のルーズリーフを机の引き出しにしまい込み、明日の学校に備えてベッドにダイブした。

 ラブレターはまだ完成しそうになかった。書きたいことが、祐吾に伝えたいことが、湧き水のように生まれてくるのだった。

 目が冴えていてなかなか寝付けない夜となった。



 それから二日が経過して水曜日の夜、想いを綴ったラブレターは無事に筆をおくことができた。

 使ったルーズリーフは七枚。

 学校の帰り道に百円ショップに立ち寄って、いくつか種類が並ぶ中から比較的シンプルなデザインの封筒を買ってきていた。祐吾の好みに合わせようと思ったのだ。

 祐吾に何かを選んであげられるのも、これが最後なのかもしれない。

 でも、これも本人に届けることはできない。生き残ったわたしのただの自己満足でしかなくて、それを思うと、どうしようもなく意味のないことをしている気がする。

 それでも、ルーズリーフを折りたたんで封筒に入れて、同じく百円ショップで購入したマスキングテープで留めると、暗くなっていた心も落ち着きを得られたようだった。

 机の上に置いたそれを、わたしはじっと見つめた。

 問題は、これをどうするかだ。

 この提案をした張本人に聞くしかない。わたしの傷心に介入してきて、上手いこと言ってラブレターを書かせて、そのすべての責任はお兄ちゃんにあるのだ。

 もうだいぶ夜更けだから寝ているだろうか。でもお兄ちゃんを相手に連絡をとることにいちいち遠慮なんかしない。

 椅子の背もたれに寄り掛かりながら、スマホでお兄ちゃんにメッセージを送った。

『ラブレター書き終わった。どうすればいいの』

 五分後くらいに既読がついた。

『どうしたい?』

 質問に対して質問で返ってきた。

 わたしは眉を寄せた。それがわからないから聞いているのに……でも、書いたということは、次にすることは決まっているのだ。

『祐吾に届けたい。気持ちを伝えたい』

『そうだよな。聞くまでもないことだった』

『好きだから』

『仲良かったもんな』

『わたし、祐吾から離れたくない。どうしても』

 気が付けばわたしは、身内に気持ちを打ち明けることの羞恥を忘れていた。

『わたし、祐吾のことをずっと好きでいていいの?』

『それは俺が答えられることじゃないけど、彩海はずっと好きでいたいんだろ』

『うん。でも、祐吾はもうこの世にいないから、生きているわたしが何をしても無意味なんじゃないかな。これから先、祐吾と一生離ればなれなんて嫌だよ……』

 ラブレターを書いて、想いの丈をめいっぱい書き記して、果たして何になったのかわからなくなった。少しハイになっていた心が、再び暗闇に沈み込んでいく。

 それに合わせたかのように、返信の流れも止まった。どうやらお兄ちゃんも悩んでいるみたいだった、けれど、

『いい方法が、というか、いいかもしれない方法がある』

 めずらしく自信なさげなお兄ちゃんに、わたしは首をかしげてスマホを見つめた。

 期待してもいいのだろうかと不安を誘う。けれど、今のわたしにとって、お兄ちゃんだけが頼りだ。

『それは?』

『彩海は、週末の土曜日か日曜日は空いてるか?』

 また質問に質問が返ってきた。

『大丈夫だけど』

『そうか。それじゃ、そのラブレターを祐吾のもとに届けるぞ』

 その返答に、書かれている力強い文面に、わたしの心は不意を衝かれたようだった。駆け上がるようにドキドキが高まっていく。文字を打つ指が震えるのを、深呼吸で何とかおさえて――わたしは訊いた。

『どうやって?』


『彩海の書いたラブレターを、!』

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