第壱章 起こり

第3話 零

 自分の手。


 薄汚れた、小さな子供の手。


 そこから視点を上げると、そこは、夢でよく見た地。



 不潔で乱雑な、陰鬱な村。


 その村の粗末で汚れた建物を、オレは見上げている。


 もちろん、平屋の建物だろう。


 そんな背の低い建物をこうして首を上に向けて見上げているという事は。


 そうか、オレは子供なんだな。


 


 まだ夢の中なのか?


 しかし、意識は覚醒し、自分は起きているという感覚もある。


 よく物語にあるように、頬をつねる。痛い。


 頬の肉は薄いが、その肌は若々しい。


 やはり、オレは子供らしい。




 先ほどの夢を思い出す。


 妙にはっきりと記憶に残っているを。



『お前は、お前というモノでありながらお前ではなくなっている』







 なにかに巻き込まれたのか?


 いずれ、自分の身に何か普通の事ではないことが起きているのは間違いがない。



 そして、意識は強制的に今の自分を構成している肉体に向けられる。



 

 空腹。



 この体は、とても腹が減っているみたいだ。


 頭の中で何かが警鐘を鳴らす。


 この空腹は、命に係わるものであると。




 なにか、食べなくては。


 オレは、周囲を見回す。


 この時点で、オレは自分が地面に座り込んでいたことを自覚した。



 周りに、人はいる。


 薄汚れた粗末な布をまとっただけの装いの人たちが、まばらに存在し、その幾人かはオレの目の前を通りすぎる。


 かつて夢でよく見た光景。


 夢の中では質量を伴わない絵画のように見えていたその風景。


 今はその風景の一つ一つに生命の関わりのような、有機的なモノが感じられる。



 ああ、ここは


 現実なんだと思い知る。



 そして


 現実の空腹が心と身体を苛んでくる。




 だれか


 なにか


 食べ物を



 道行く人に、


 そう話しかけたいが、うまくできない。


 自分がどうやって声を出していたのかがわからない。


 声帯に吐息を絡ませ、意味のある音を発するすべがわからない。



 周囲の音に耳を澄ます。


 風が、今にも崩れ落ちそうな建物の建材を揺らしている音。


 頭上からの、鳥と思われる動物の鳴き声。


 どこか遠くから聞こえる喧騒のようなざわめき。


 その中には、人の発する声のような音もある。


 でも、その言葉のような音が発する意味は分からない。




 理解する。


 オレは、今いるここの言葉は分からないのだと。



 そして、その認識は、今の空腹による命の危機がより深まったことを意味した。


 言葉で、食べ物をくれと働きかけることが出来ない。



 と、なればできることは身振り手振り。


 オレは、地面に座り込んだまま、何かを恵んでくれといった物乞いのような動作を繰り返す。


 空腹で体力も衰えているのだろう。


 ほんの少し体を動かすだけで、とてつもない疲労を感じる。



 そして、道行く人は。


 そこに居るオレの事等、まるで視界に入ってないかのように。


 オレという存在が、そこに存在していないかのように。


 誰一人、視線も、関心も寄せることはない。




 ああ、


 同じだ。




 無視。


 無関心。


 いるのに、いない。


 いないことにされている。


 いないことになっている。


 いてもいなくても同じ。



 会社での、日本での自分の立ち位置と同じ。




 よくわからない世界に飛んで。


 姿かたちが子供に代わって。


 それでも、オレはオレのまま。


 いないものとされる


 オレのまま。





 そうか。


 このまま。


 飢えて死んでいくんだな。




 よくわからない世界に飛んで。


 姿かたちが子供に代わっても。


 何も変わってなどいない。


 オレは孤独のままに。


 人知れず消え去っていくんだ。




 そう思い、思考がぼやけ、目から光が消えてしまうかに思えたその時。


 鮮烈に、が思い出される。






『このままでは』


『いずれお前は希薄になり消滅する。』


『おまえの消滅は次元の崩壊を起こすやもしれぬ。』




 ――突然、理解する。


 オレは、死んではいけない。


 死ぬことが許されないらしい。



 オレが死ねば、次元が崩壊する。


 オレは、この次元、この世界の存亡を握る特異点なのだと。



 そうだ。


 あの夢の中で


 こうも言われたではないか。




『自己をしっかりと持て』


『流されるな』


『お前の心からの欲に従え』


『存在が変化しようとも』


『常に自分でいるのだ』






『欲に従え』


『欲に従え』


『欲に従え』


『欲に従え』


『欲に従え』


『生きろ』





うわああああああああああああああああ!!


 


 目の前を歩く、年配の女性に体当たりする。


 女性を地面に押し倒し、その懐を漁る。


 木の実のようなものを見つける。


 女性は、それを盗られまいと必死に手を伸ばす。


 オレの顔面をひっかいてくる。


 その手を邪魔に感じたオレは。


 女性の顔を殴り飛ばす。


 そして、オレの手の中に納まった木の実らしきもの。


 それを必死に口に運ぶ。




 足りない


 足りない


 足りない!




 オレのその様子を遠巻きに見ていた人の輪に襲い掛かる。


 一番近くにいたのは、壮年の男性。


 子供の姿になったオレでは、その男性に力では勝てないだろう。


 だが、オレは命を失うかの瀬戸際。


 その気迫に加え、狂気的な力は男性を圧倒する。


 いつの間にか血に塗れた男性の懐から奪った干し肉を咀嚼する。





 足りない


 足りない


 足りない!




 狂気に堕ちたオレは、目に入る人、建物、


 その全てに暴力という実力行使をし、食べ物を次々を胃に収める。



 そして、空腹がひとごこちついて我に返ったその時には。


 周囲は、血と瓦礫が散乱していた。


  




 


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