第20話 目覚めの茶が身に沁みます

 見覚えのある木の天井板が、目の前にぼんやりと浮かび上がる。


 朝陽を通して天窓から差し込む光が、頭上でゆらゆらと漂い、トシオの意識も同じくらいにふわふわと宙を漂っていた。体が妙に重い。毛布の包まれた感覚は心地よく、もう少しだけ夢の中に戻りたい誘惑が頭をよぎる。


(ここは……我が家ですか?)


 思考がどろどろと進まぬまま、彼は微かに瞼を閉じかけた。


 ——その時、耳に飛び込んできたのは、周囲から聞こえる声々の切れ切れの会話。まだぼんやりとした意識の中で、それらの言葉が少しずつ形を成していく。


「これは上手い……!香ばしい風味と深みの中にある微かな甘み……実に奥深い……」


 渋めの男の声が、どこか茶道の先生のような厳かさで響く。


 ゆっくりと目を開いたトシオは、背後の壁際にいる無精髭の壮年の男が、両手で湯飲みを掲げ、まるでワイン鑑定士のような真剣さで舌鼓を打っているのを認めた。


「あれはトウキビ茶と申します。トシオ様が畑のトウモロコシ?というものから作られたのです」


 トシオの視界がようやく定まり、声の主がミラだと判明する。日差しに照らされた彼女の顔には、まるで我が子の作品を自慢する母親のような誇らしさが溢れていた。


「……私はこの茶菓子が気に入りました。この濃い目の味が茶との相性抜群です」


 今度は知らない女性の声。端正な眼鏡をかけた褐色の髪の女性が、トシオの焼いた煎餅を口に運びながら、小さく目を見開いている。その表情は「まさか辺境でこんな味に出会えるとは」という驚きを隠せないようだった。


(なんだか賑やかですね……)


 トシオの視界がようやく周囲に馴染み始め、目を凝らせば部屋の中には様々な人々が集まっているのが判る。彼の質素な拠点に、こんなにも多くの人々が集まったことはなかった。


 アルウェンが湯飲みを両手で持ち、何やら説明をしている。


「それは"煎餅"ですね。主様がもろみ?とやらを発光?させたものを使って……」


 彼女の言葉に微妙に自信がなく、時折目を泳がせているのが愛らしい。


「違いますよアルウェン様。発酵です。主様は熟成ともおっしゃっていました」


 リーファが即座に横から訂正する。料理知識における師弟関係が逆転したことに、少し得意げな表情を浮かべている。


「発酵~!?い、いま発酵とおっしゃいましたかぁ~?うへへへ……」


 突如として声が響き、視界の隅には目元に不穏な影を宿したネネトの姿。彼女の口元が妙にうるうると動き、目がらんらんと輝いている。


「え、ええ……」


 リーファはネネトから一歩引き、白い手を胸元で小さく交差させた。その仕草はまるで、発酵という言葉に反応する不思議生物から身を守るかのようだった。


「おい!なんだこれは!?箱の中に冷気が宿っているぞ!何の魔道具だ?中に食料らしきものが保管されているようだが……これは一体……」


 今度は部屋の隅から聞こえた声に注意を向ければ、銀髪の気品ある少女——シェリルが、冷蔵庫の扉を何度も開け閉めしては歓声を上げていた。その仕草はまるで、初めて自動ドアを見た子供のように無邪気だ。


「シェリル様、はしゃぎすぎです……」


 傍らの褐色の髪の女性——ミーナと呼ばれた人物が、額に手を当てるようにして溜息をつく。その表情には「公の場でのお振る舞いを」と言いたげな忠臣の苦悩があった。


「なんだと?お主こそさっき蛇口なるものを触って興奮していたではないか!何度も何度も捻っては、水が出るたびに目を輝かせておったぞ!」


 シェリルが目を丸くしてミーナに抗議する。誇り高き彼女は、どうやら自分だけが子供扱いされることに不満を抱いているようだった。


「ぐっ、そ、それは……」


 図星を突かれたミーナは、急に熱心に眼鏡の拭き掃除を始めた。隠しきれない好奇心をごまかすように、彼女は咳払いをして姿勢を正した。


「これは正しく我が故郷ユカミエでしか食べられなかった漬物……!まさかこのような辺境の地にて再び食せる日がこようとは……」


 ヒノエがコメのついた手で沢庵を掲げ、まるで聖剣を讃えるかのように感極まっている。その目尻には、本物の涙が光っていた。


「マ、マユっち、泣くほどの事……?」


 ニナがわきの下を小突きながら、半分呆れた表情で言う。しかしヒノエは気にする様子もなく、ありがたそうに沢庵を齧り続けている。


 部屋の外からは、窓に顔を押し付ける数人のハイエルフたちの姿も見える。彼女たちは何やら指さしあい、キャッキャと声を漏らしている。


(さて……起きるタイミングを完全に逃しましたね……)


 トシオはじっと目を瞬かせた。


 誰も自分が目覚めたことに気づいていない。部屋は東京駅のコンコースのような賑わいで、もはや彼の存在すら忘れられているようだった。


 一体ここにいるのは誰なのか。どうしてこの場に集まっているのか。そもそも、なぜ自分はベッドに横たわり——


 記憶が断片的に蘇りはじめる。


 戦い。怪物。スーツに身を包み、眼鏡をかけた自分。光り輝く刃。最後に見た荒廃した戦場の景色——。


(ひょっとして……異世界で異世界転生したんでしょうか?いや、冗談ではなく……)


 なぜか自分を取り囲む見知らぬ顔ぶれ。それでいて妙に慣れた空気感。ひょっとして元の世界に戻ったのか、それとも——


 考えが及ぶより早く、シェリルがゆっくりと椅子に腰掛け、一度姿勢を正したかと思うと、改めてアルウェンに向き直った。


「再三再四、もはやここまで来ると驚き疲れてきたな……。お主たちがあの幻の種族であるハイエルフ、というのも含めてだが……」


 シェリルの声には、子供が夢から醒めるような儚さが混じっていた。世界の常識が一日で覆された疲労感が、その若い顔に刻まれている。


「永劫ともいえる長い時間の中、私たちはこの禁忌地を、流浪の民として生き延びてきた。行く当てもなく彷徨い続けた私たちに、安住の地と穏やかな暮らしを授けてくれたのが、我が主、トシオ様なのだ」


 アルウェンの声が突如として厳かに変わる。まるで法廷で証言するような口調に、トシオは内心で首を傾げる。


(私がただの素材屋で、時々現世の知恵を教えただけなのに……こんな大袈裟な話に……)


 アルウェンの瞳は熱に浮かされたように輝き、横たわるトシオを見つめる。その視線には、子猫を撫でる時のような優しさと、月見の晩に星を見上げるような憧れが入り混じっていた。


「ハイエルフは歴史的にも抹消されている種族。どの国でもその市民権を認められていません……また、高位種族なのもあり、奴隷商にも狙われやすい。こんな地でなければ、生きる術はなかったでしょうね……」


 ミーナが言葉を継ぎ、湯飲みを手元で回す。その眼の奥にある知性は、まるで図書館を丸ごと頭に収めたような博識の光を放っていた。


「しかし……トシオ殿はいったい何者なのだ……」


 シェリルの声に、不思議な重みが宿る。


「過去いくつもの国がこの地の支配を目論んだものの、手中に収めることはできなかった。もっとも隣接する我が王国ですら、その支配権を手放したというのに。そんな場所でこのようにして悠々自適に暮すなど……そもそもあの力は何だ……とてもではないが人の身に余るものだぞ……」


 その言葉に、トシオは内心で眉を寄せる。


(と言われましても……名刺のおかげなんですと説明しても伝わらんでしょうな……ふむ、やはり伏せるべき事案かと)


 彼女の瞳は、静かに冷えた炎を宿し、トシオの寝ている姿を、まるで測り知れない謎を秘めた存在を見るかのように見つめていた。


「敵対は愚策……まずは要監視、といったところでしょうかね」


 ガライン——どうやらそれが渋い男の名らしい——が湯飲みを置き、軍師のように慎重に言葉を測る。


 シェリルがゆっくりと頷く。彼女の青白い指が椅子の肘掛けを強く握り締めた。


「敵対だと……?」


 アルウェンの声が突如として低く沈み、まるで土砂降りの予感のように重くなる。


「もしそのような事になれば、我々ルメナールが身命を賭して王国に弓弾くまでだ!」


 彼女の肩が震え、髭のない美しい顔が怒りに歪む。その瞳には剣呑な光が宿り、シェリルを睨みつけた。


 シェリルもまた同様に、目を吊り上げて応戦する。二人の間に無言の炎が燃え始め、まるでバラの茨が絡み合うように、二人の意志が交錯していく。


 リーファが「あー、またか」というように目を伏せ、ミラが「とめなきゃ」と心配そうに立ち上がろうとする。


 ミーナは「これでは話になりません」と額を押さえ、ガラインは「若さゆえの火花」とでも言いたげに、何故か微笑を浮かべて湯飲みを回す。


(これはまずい……不毛な争いは避けねばなりません)


 トシオは慌てて上半身を起こした。


「ふ、二人とも、不要な争いはいけませんよ!」


 声が割れ、背中が痛み、手足がぐらつく。いつもの落ち着いた物腰とは裏腹に、体が言うことを聞かない。それでも、そこは昭和を生き抜いた会社員の矜持。彼は身を起こし、二人の間に割って入ろうとした。


 ——その瞬間、部屋の空気が凍りついた。


「主様!」


「トシオ様!」


「トシオ殿!」


 皆が次々に驚きの声を挙げる中、アルウェンとミラが、待ちかねていたかのように飛び込むように抱き着く。


「おい!何をしている!」


 シェリルが大声で抗議する。その表情は、まるで最高級の宝石を盗まれた商人のような憤りに満ちていた。


「心配しました主様……本当に良かった……」


 アルウェンが、しみじみと呟く。彼女の銀髪が流れるように広がり、なぜかトシオの手当てをした時の包帯と同じ匂いがする。


 ミラに至っては、もはや躊躇なくトシオの胸に顔をうずめ、まるで長旅から帰った父親を迎える子供のように、その存在を確かめるように身を寄せている。「ぐすっ」という声まで漏らす始末だ。


「丸一日目を覚まさなかったんですよ」


 涙を拭いながらその様子を見守っていたリーファが言った。その言葉にはようやく、トシオの疑問に対する答えの片鱗が見える。確かに戦場での記憶の後、すっぽりと抜け落ちた時間がある。そして何やら大騒ぎになっているらしい。


「おい!私を無視するな!トシオ殿から離れぬか!私とてまだ一度しか触れておらぬのだぞ!」


 シェリルが今度は本気で腰を上げ、剣呑な表情でアルウェンとミラに詰め寄る。その指先には、生まれついての威厳が宿っているようだった。


「部外者は黙れ。これは配下である我々の特権だ。私は今主様との邂逅を噛みしめているのだ。邪魔するな」


 抱き着いたまま振り向き、アルウェンは冷ややかに言い放つ。彼女の表情は、まるで氷の女王のようだった。


(特権?そんな権利何時で来たんですかアルウェンさん!?そもそも配下って……)


 トシオは思わず引いた表情になる。


「この……言わせておけば!」


 シェリルが素早く手を伸ばし、腰の剣に触れる。部屋の温度が一気に下がり、まるで霜が降りたような緊張が満ちる。彼女の表情は、学級会で人気者の席を奪われた級長のような剣呑さで引き攣っていた。


「シェリル様!」


 ミーナが慌てて立ち上がり、シェリルの腕をとった。その表情には明らかな「お気持ちはわかりますがここは我慢を」という忠臣の説得が込められている。


「ガライン!貴方ものんきに茶なんて啜ってないで!」


 ミーナが必死にシェリルを引き止めながら、助けを求める声を上げる。


「いえ……痴話喧嘩は犬も食わぬと言いますから……」


 ガラインはそう言って、あくまで傍観の姿勢を崩さない。その目には、かすかな「若者の情熱は見守るもの」という達観した色が浮かんでいた。


「騒がしい奴め……主様が目覚めたばかりだと言うのに。いいだろう、相手をしてやる」


 アルウェンがそう言って立ち上がり、腰のレイピアに手を掛ける。


(あ、ヤバイ本気の目ですねこれは)


 トシオは内心で悲鳴を上げつつ、未だに身体にしがみついているミラをなだめながら、何とか両手を挙げた。


「落ち着いて!落ち着いてください!」


 かすれた声の割には、意外と通る声だった。


 シェリルとアルウェンの視線がトシオに集まり、室内の空気が一時停止する。まるで台風の目のような不思議な静寂が、トシオを中心に広がった。


 この瞬間、部屋全体があたかも絵画のように凍りついたかに見えた——


 リーファが眉をしかめながらも、小さく首を振る。

 ネネトが発酵について片言で何かをつぶやき、未だに興奮を抑えられない様子。

 煎餅をほおばりながら、「美味いでござる……」と、ヒノエが感涙を新たにしている。

 いいぞもっとやれと言わんばかりに、ニナがにやついた笑みで遠巻きに様子をうかがう。

 執務姿勢で拝謁に臨むかのように、ミーナが背筋を伸ばす。

 まるで孫の癇癪をなだめる老人のように、ガラインが微笑む。


 そして、微妙な距離で、怒りとも嫉妬ともつかない感情を互いに放つシェリルとアルウェン。


 トシオはあらためて自分の周囲に広がるカオスを目の当たりにし、深くため息をついた。


(二人とも何を争っているのでしょう?辺境の権利問題でしょうか?それとも種族間の歴史的対立?いずれにせよ、場の空気がこれ以上悪くならないよう、仲裁に入るしかありませんね……)


 トシオは困惑の表情を浮かべながら、枕元に置かれた眼鏡を見つけると、なんとなく手に取り、顔に乗せる。レンズを通して見る世界は少し歪むが、不思議と落ち着きを取り戻せる。営業先での難しい交渉の場面に直面したかのように、彼はゆっくりと深呼吸をした。


「皆さん、お納めください。まず、ご挨拶が先でしょう」


 立ち上がろうとしたトシオを前に、ミラが慌てて膝を抱えて支えた。


「立たないでください。まだお体に障りますよ」


 思ったより弱々しい感覚に、トシオは驚く。ミラの小さな手がトシオの肩を支え、力はないのに不思議と心強い支えとなる。


 やがて、二人の戦う視線もいつしかトシオへと集まる。皆の心配そうな表情を見ながら、彼は穏やかに微笑んだ。


「皆様、どのような縁で我が家に集われたのか存じませんが、まずはご挨拶を」


 トシオは丁寧に頭を下げると、リーファの差し出した湯飲みを受け取り、一口すすった。


「ふむ、お茶の入れ方随分と上達しましたね。さて——」


 アルウェンが身を引き、シェリルが剣から手を離す。ミーナが胸をなでおろし、ガラインが少し体を前に傾ける。


 部屋の窓からは青白い陽光が差し込み、冷たくも優しい光が部屋中を満たす。霜巡の終わりを告げる清らかな空気は、この場の緊張を静かに溶かしていくかのようだった。


 やがてトシオの穏やかな微笑みが、この家の"秩序"を新たに形作りはじめる。


「まあ、何はともあれ——皆さんのおかげで、私は目を覚ますことができたようです。ありがとうございます」


 トシオの言葉に、部屋中の笑顔がわずかに広がり始めた。戦場の後に訪れた、束の間の平穏がここにはあった。

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