第19話 終焉魔法
「これはまずいですね……」
トシオの声は、嵐の前の静寂のように、奇妙な穏やかさを湛えていた。
彼の視線は、戦場を横切り、ヒノエの腰に下げられた脇差へとゆっくりと流れた。その目に宿る光は、もはや会社員のそれではなく、何か古く深い覚悟を秘めたもの——戦場を知る者の光だった。
立ち上がる力を何とか振り絞り、彼は心臓の鼓動を感じながら言葉を紡いだ。
「少しお借りしますよ、ヒノエさん!」
風が一陣吹き抜けた。
ヒノエが振り向くよりも早く——いや、彼女の意識が追いつく前に、トシオの手はすでに彼女の腰から脇差を抜き取っていた。黒衣のスーツに身を包む髭の男が、まるで生涯それを扱ってきたかのように、刃を持つ姿に、場の空気が凍りついた。
(最後の一手——これで、決着をつけねば……)
トシオの内なる声は、意外なほど静かだった。
刃を握るその手に、熱が宿る。これまで経験したことのない、しかし不思議と違和感のない感覚が全身を巡っていく。名刺の力だけではない——何か深く、古い記憶が彼の中で呼び覚まされたようだった。
地を蹴る。
音もなく、しかし決然と。
トシオの身体が、重力の抱擁から解き放たれるように空高く舞い上がった。漆黒のスーツの裾が風を切って舞い、彷徨う蝶のように軽やかに揺れる。脇差を逆手に持ち構え、迫りくるヘカトンケイルの頭上から狙いを定める姿に、戦場の全てが息を呑んだ。
時が止まったような、永遠とも思える一瞬。
トシオの周りに、淡い光の粒子が舞い始めた。それは火花のようでもあり、花びらのようでもあり、あるいは——彼の魂の欠片のようにも見えた。
その唇から、かすかな詠唱が漏れ出る。
「——霞よ、乱れ、影を欺け……」
囁くような声。だが、世界を揺るがす力を湛えたその言葉と共に、彼の足元に桜の花弁のような朱紋が描かれた。まるで空間そのものが彼の意図に応え、炎の筆で印を結んだかのようだった。
「《紗紅霞ノ追影》!」
言葉が完成した刹那——剣が閃いた。
それは光であり、風であり、そして意志の結晶だった。
刹那、時間の流れが変わる。
一瞬、二瞬、三瞬——刻の歯車が狂ったかのように、トシオの動きは視界を超えて加速していく。朱に染まる残像が幾重にも重なり、現実と幻が交錯するその刃の軌跡を、もはや誰の目も追うことはできない。
まるで一人の剣士が百になり、そして千になったかのような錯覚。
虚空に花咲く刃の舞い。
巨怪の皮膚が裂け、漆黒の血潮が夕焼けの空へと噴き上がる。一つ、また一つ、ヘカトンケイルの無数の目が爛々と光り、そして次々と潰され、闇の奥へと閉じていく。
朱の軌跡が空間に絡みつき、血の露を結ぶ。
虚空を切り裂く剣の軌跡は、色を持つ風のように場を満たし、次第に霧となって広がっていった。その糸を引くような繊細な光の線が、世界に刻まれた詩のように、なお余韻として漂い続ける。
——そして、静寂。
刹那の嵐の後の、深く重い沈黙。
心臓の鼓動を数えるような重い間。
トシオの膝が地に落ちる音が、戦場に響いた。大きな音を立てて膝をつき、荒い息を吐く。脇差の柄を握る手は、血の滴るような汗でべっとりと濡れ、震えている。
身体の中から魂が抜け出るような脱力感。だが、まだ体は動く。まだ敵は倒れていない。
ヒノエがその光景を目の当たりにして、信じられない表情で声を絞り出した。
「い、今のは——」
彼女の声は、嗄れ、震えていた。
「剣豪のみに許された技、紗紅霞ノ追影……!なぜトシオ殿がその技を!?」
その声に、全員が驚愕と畏怖の表情を浮かべた。先ほどの魔法に続き、今度は剣術の奥義まで繰り出すトシオの姿に、誰もが思考と言葉を凍結させられたかのように沈黙した。
穏やかな風が、戦場の埃と血の匂いを運ぶ。
翠の瞳を持つ銀髪の少女——シェリルが、月明かりのような輝きを湛えた目で、唖然として呟いた。
「どういう事だ……トシオ殿は賢者ではなかったのか?」
その一方で、アルウェンだけは興奮した表情で、まるで信じていたことが証明されたかのように声を張り上げた。
「流石です主様!」
世界が、その声に揺れる。
トシオは誰の声にも応えず、前方の影へと視線を集中させた。倒れたはずのヘカトンケイルの残った目が、ゆっくりと、確実に再生し始めている。その光が強まっていく様子に、トシオは焦燥を感じた。
(まだだ……もう一撃、必要ですね。しかし……)
その時、トシオの体に異変が走った。
激しい脱力感と体力の消耗。まるで体内のすべてのエネルギーが、一気に氷結するかのような感覚。立っているのがやっとで、視界が歪み始め、色彩が徐々に褪せていく。
(もしや、これはこの名刺の影響でしょうか……?)
胸元の名刺入れを手で押さえながら、トシオは何とか体を支えようとした。そこに宿るのは、かつての社会人としての誇りと、それを超えた何か——底知れぬ力の代償を、彼は今、身をもって感じていた。
その瞬間——
時間が、さらに遅くなった。
ヘカトンケイルの残った眼が、赤い禍々しい光を帯び始める。やがて強い輝きとなったその光線は——トシオではなく、シェリルと二人の女性たちが立つ方向へと向かった。
砂時計の砂が落ちるように、ゆっくりと。
誰も反応できぬまま。
トシオの唇が開く——「危な」
声が届く前に、光が、爆風が、彼らを呑み込んだ。
空間が裂け、大地が揺れ、炎の花が咲く。砂埃が空を覆い、視界を奪う。暗闇と混沌の中で、トシオは目を閉じた。
闇の中に、かすかに見える姿がある。
かつての自分。家族。かけがえのない何か。
護るべきもの——。
やがて、霜巡の風が砂埃を払い、再び視界が開けた時、トシオの目に映ったのは——地面に倒れ、苦しそうに呻くシェリルたちの姿だった。
アルウェンもヒノエも、眼鏡の女性も黒髪の鎧の女性も——誰もが力なく地に伏している。その姿を見たトシオの胸に、何かが燃え上がった。
そして、ヘカトンケイルの目が再び光を帯び始めた。
しかも、その目はトシオではなく、倒れた彼女たちに向けられている。
その光景を前に、トシオの心に何かが——堰を切ったように——溢れ出した。
怒り。
痛み。
そして、何よりも強い——守りたいという意志。
(——彼女たちを……)
トシオの瞳の奥で、炎が燃えた。
(私ではなく……彼女たちを狙うのか……!)
かつて彼が社会で感じたこともないような、純粋で、凄まじい怒りが魂の底から湧き上がる。筋肉が引き裂かれるような痛みとともに、歯を食いしばった。
(許さんぞ……!)
彼は拳を握り締め、全身から血が引くような感覚を覚えながらも、ゆっくりと、しかし確かに立ち上がった。両足が震え、視界が歪み、それでも前へ——一歩、また一歩と。
震える指先が、天空に向かって伸びる。
虚空に触れたその瞬間、名刺の力が最後の輝きを放つ。それはもはや力ではなく、彼自身の魂のようにも思えた。
トシオの唇が開かれ、世界を揺るがすような言葉が紡がれる。
「始まりは光——」
空が震えた。
「天の真理よ、砕けよ——」
大気が割れる音。
「な、何が起こってるんだ!?」
シェリルが驚愕の声を挙げる。
「汝の光よ、万象を貫け——」
トシオの背後に広がる空が裂け、闇の向こうから滲み出る光が彼を包み込む。詠唱とともに、彼方から巨大な天球装置のような魔法陣が浮かび上がり、現実を再編するかのように光を放つ。
紡がれる言葉の一つ一つが、魔法陣の輝きを増していく。
「これぞ終焉の光……」
最終節——トシオの言葉が頂点に達した瞬間、天を割るような閃光が彼の頭上から垂直に収束した。砕け散る空、割れゆく現実、そして光の果てに見える、深遠なる何か。
「ルクス・ウルティマ!」
発射の瞬間、世界から音が失われた。
真空の寂寞。
やがて、超高音の"キィィィン"という残響音と共に、まばゆき白光が天から降り注いだ。その光は純粋過ぎて、闇をも照らし、影そのものを消し去るほどの輝きを放っていた。
同時に、トシオは二十の詠唱を並行して紡ぎ、ヘカトンケイル以外の場所——シェリルたちが倒れている場所を守るために、金色の透明な盾、セイクリッド・フィールドを展開した。
爆音。轟音。
世界が白く染まり、瞬間、すべてが光の中に消えた。
永遠とも思える刹那の後——
光が収まり、砂埃が静まった後、シェリルが唖然とした表情で空を見上げていた。その唇は震え、言葉を失っていた。
「な、なんだ今のは……」
彼女の震える声に、眼鏡をかけた褐色の髪の女性も唖然として答えた。声のトーンが普段とは全く異なり、畏怖と恐れが混ざり合っていた。
「終焉魔法……ルクス・ウルティマ……古代経典にその存在しか認められていない、禁呪魔法……まさかこの目で見る日が来るなんて……」
砂埃が完全に晴れると、ヘカトンケイルの姿は跡形もなく消え去っていた。大地には巨大な円形の焦げ跡だけが残され、そこにはまるで星々の軌跡を描いたような、複雑な魔法痕が刻まれていた。
夕陽が残した最後の光が、その焦げ跡を赤く照らしている。
トシオは、力尽きたように、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。
まるで長い旅路を終えた旅人のように、彼は静かに目を閉じた。意識が遠のく寸前、彼は誰かが叫ぶ声を聞いた。その声には、言葉にできない感情が宿っていた。
「主様!」
アルウェンの声だった。
砂埃の向こうから、彼女の姿が走り寄ってくる。その目には、恐れと安堵と、何か深い感情が涙となって溢れていた。
トシオは、そのまま地面に突っ伏した。
戦場に満ちていた血と焦土の匂いが、いつしか消えていく。
風向きが変わり、冷たい空気が彼の熱を帯びた頬を撫でる。
夕陽の名残りの光が、トシオの黒いスーツを淡く照らし、その影を地面に長く伸ばしていた。
それは、まるで彼がこの世界に根を下ろし、深く繋がっていくかのようにも見えた。
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