第16話 その名も、社会の荒波に揉まれし者

 陽が傾き始めた谷間に、奇妙な気配が漂っていた。


 トシオは、慣れぬ硬い靴音を響かせながら、深々とため息をつく。


 かすかに眉間を押さえ、首を振る仕草には、どこか諦めにも似た色があった。


(……最近、電子書籍で読んだ異世界物では、こういうとき、主人公が新たな力を手にして、見た目がこう──バーンと格好良くなると聞いていたのですが……)


 脳裏に浮かぶのは、煌びやかな鎧や、蒼炎をまとう英雄たちの姿。


 しかし、今の自分はどうだろう。


 トシオは、そっと己の装いを見下ろした。


 ──黒光りするスーツ。白いシャツに締めたネクタイ。磨き抜かれた革靴。


 異世界の陽光を受けて輝くそれは、もはや戦闘服というより、取引先へ謝罪に向かう社畜の姿であった。


(ふむ……おかしいですね……この姿……ある意味では戦う男の“戦闘服”に違いないのですが……ええ……)


 ぎこちなくネクタイを締め直しながら、トシオはもう一度ため息を漏らした。


(これって、どこからどう見ても……スーツですよね……)


 肩を落とす彼の背に、冷たい風が吹き抜けた。


 それにしても、である。


(……何でしょうかこの、頭の中に流れてくる情報量は……)


 トシオは思わず顔をしかめ、膝をついた。


 立っていることすらできないほど、脳に押し寄せる知識と技術の奔流に晒されていた。


 感覚は、初めて【剣士】の名刺スキルを発動した時に似ている。


 あるいは、アルテシミアと名乗った女神に、名刺の使い方を──いや、あの時、頭の中に無理矢理刷り込まれた時に似ていた。


 手に馴染む感触。


 初めてのはずなのに、長年使い込んできたかのような自然さ。


 振るったこともない剣技が、まるで呼吸するように思い浮かび、身に染み付いていくあの感覚。


 だが、今回は──


 剣──剣技──剣聖──侍大将──槍天術──拳聖──斬撃──追撃──回避──防御──魔法──戦場制御──敵軍分断──ヴォ―テクス──忍び──ハイドラ──……。


(ま、待ってください、待ってください!どこまで流し込むおつもりでございますか!?)


 頭の中を駆け巡る情報の奔流に、トシオの顔色はみるみる青ざめていった。


(……これは、いささか……)


 思考をまとめようとするが、脳が灼けるように熱を帯び、視界が揺れる。


 気づけば、両手を地に突き、荒い息を吐いていた。


 遠くから聞こえてくる激しい剣戟音。


 その時、ぼんやりと、さっき目にした光景が脳裏をよぎる。


 アルウェンとヒノエが、こちらを振り返っていた。心配そうな眼差しだった。それでも、迫る盗賊の軍勢を前に、二人は剣を握り直し、戦場へと駆け出していった。


 無理もない。敵はすぐそこまで迫っていたのだ。


 膝は地に貼り付いたまま、微動だにしない。腕に力を込めても、指先が震えるだけだった。


 二人の影も、既に砂塵の向こうに霞んでいた。声をかけることすら、できなくなっていた。


(……全くもって何たる不覚でしょうか)


 ぐらつく足を叱咤しながら、トシオは地面を睨みつけた。


 膝をつき、奥歯を噛みしめる。


 身体の芯から溢れる情報の奔流に、抗う術もない。


(……何と申しましょうか……これ、まさに……)


 脳裏をかすめるのは、かつての悪夢──


 三日三晩ぶっ通しで続いた、あの地獄の新人研修。


 いや、それすらも生温い。


(まるで……異世界版“社畜マニュアル”を、全巻頭から叩き込まれている気分にございます……)


 背中を駆け上がる悪寒と、脳を圧迫する奔流。


 戦術、戦場の立ち回り、軍勢の統制、陣形の構築、奇襲への対処、敵方士気の読み……


 あらゆる知識が、留まることなく押し寄せる。


 耐え難い。


 だが、


(……ああ、これが“できる社員”の育成プロセスなのでございますね……ならば私も!)


 己を必死に叱咤しながら、膝に力を込める。ゆっくり、地面を押して、立ち上がろうとする


 ──だが。


 再び、頭の奥で情報の洪水がドバドバと押し寄せ、足元がぐらついた。


「うぐっ……」


 情けない呻き声が漏れる。


 それがまた情けなくて、トシオは心の中で頭を抱えた。


(……こ、こんなの……栄養ドリンクをバケツ一杯飲み干したあの頃に比べれば……!)


 震える指先で額を押さえる。


 鼓動が速い。呼吸が乱れる。


(そう、だてに三十八年間、社畜をやってきたわけでは……!)


 自らに言い聞かせ、重い呼吸を整える。


 踏みとどまり、膝を震わせながら、再び立ち上がろうとする。


 ふらり、ふらりと体を起こすその姿は、人生に迷うサラリーマンそのもの。


 そのときだった。


 風が吹いた。


 砂塵が舞い、視界の端で戦場の光景が滲んだ。


 遥か遠く──


 アルウェンたちが、既に陣を張り、盗賊団と交戦していた。


 銀色の髪が、陽光にきらめきながら躍動している。


 そして、次の瞬間。


 ギラリと光る剣先が、アルウェンの肌をなぞるように走った。


 赤い鮮血が、宙に細く線を描く。


 ──ふっと。


 それまで暴れ狂っていた情報の奔流が、ぴたりと止まった。静寂。耳鳴りのような余韻だけを残して、脳内がすっと澄み渡る。


(……っ)


 トシオは、呼吸を忘れた。


 立ち上がる。そうしなければならない理由が、今はっきりと、胸に刻まれていた。


 トシオは名刺ホルダーを手に取り、静かに開いた。


 中から一枚の名刺が光を放ち、浮かび上がる。


 それは懐かしき肩書――いや、自分にとって唯一無二の称号。


 【営業部係長・田中敏夫】


 「まさかこの名刺を、こちらの世界でまた目にすることになるとは……一体なぜ……」


 しかし考えている余裕はない。彼の視線の先では、アルウェンが再び斬りかかってくる盗賊を辛うじてかわしたところだった。


 (……考えるのは後ですね。参りましょう。社会人の、いや、戦士の基本は"遅刻厳禁"にございます……!)


 そう内心で唱え、トシオは立ち上がり、背筋をピンと伸ばした。左手でネクタイを整え、右手で名刺ケースを胸に当てる。


 名刺が光に包まれ、トシオの体を覆っていく。


 「社会の荒波に揉まれし者として──」


 異世界の風が彼のネクタイを翻し、スーツの裾がめくれ上がる。


 「誠に恐縮ではございますが、私──会議の席につかせていただきます!」


 その瞬間、トシオの姿が風に溶けるように消え、戦場へと流れ込んでいった。


 陽は沈みゆき、山の端に最後の光を残していた。戦いはこれから本番を迎えようとしていた。

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