第15話 魔塵

 薄霧を切り裂く蹄の音が、山峡に重く響き渡った。


 頬を打つ風。束ねた銀髪が背に流れる。シェリル・フォン・アルベルトは、愛馬の荒い息遣いを感じながら、静かに目を細めていた。


 彼女の背後では、鎧を着けた精鋭部隊が隊列を組み、鉄の河となって進んでいる。騎兵隊の槍は一様に空を突き、紋章旗が風に揺れる度、静かな威厳が揺らめいた。


 山道を降りた一行が谷間を抜けようとしたそのとき、馬の手綱を引いた。


「シェリル様」


 前方から駆けてきたのは、辺境伯軍の斥候だった。土埃をまとった男は、馬から降りるやいなや膝をつき、声を荒げて報告する。


「崖下、谷間にて戦闘を確認。数名、おそらくエルフを含めた数名の混戦員たちが盗賊集団と交戦中です。村方面では、エルフ、鬼人と思しき戦士が阻止線を張っております」


 シェリルの瞳に光が宿る。


「――エルフと鬼人?珍妙な組み合わせだな」


 背中で静かに唸るような声が聞こえた。振り返れば、第二騎士団長レオニス・ヴェルトランが、既に大剣の柄に手をかけている。黒く日焼けした顔に浮かぶ笑みは、まるで獣のようだった。


「シェリル様、指示を」


 近衛隊長セリア・ユーヴェルが、冷静に進言する。青い瞳には迷いはなく、ただ主への忠誠心のみが宿っていた。


 シェリルは僅かに顎を上げる。


「ガライン、レオニス」


 名を呼ばれた二人が馬を進め、シェリルの前に並ぶ。


「谷間の盗賊共を叩け。生かしておく必要はない。ただし、情報は必要だ。首魁だけ残せるか?」


 軍令官ヘルムート・ガラインは黙して頷いた。まるで夜の刃のような静けさで、彼は応えた。


「不可能を可能にせよと……御心のままに」


「任せてください、シェリル様!」


 それに続くレオニスの声は、まるで咆哮のようだった。鞘から抜かれた大剣が、朝の光を浴びて蒼く輝く。


「張り切りすぎるなよレオニス?」


 シェリルの口元に、微かな笑みが宿った。


「残りの者は我に続け! 村を守るぞ」


 彼女の剣が天を指す。


 一糸乱れぬ動きで応える近衛隊と軍政補佐官。ミーナ・クラリエは眼鏡を押し上げながら、手元の書類を閉じ、無言で準備に入った。静粛と緊張が、同時に場を支配している。


「シェリル様、私がお側を――」


「頼むぞセリア」


 そう言い残し、シェリルは愛馬の腹を蹴った。


 駆け出す馬群の音が、谷間に轟く。


 第二騎士団がガラインとレオニスの号令の下、編隊を組み、崖下へと進路を取る。鉄と鋼の荒波が、盗賊たちの陣形へと突き込んでいく。


 ――それを見届けた後、シェリルは別の道を選んだ。


 谷底へ――戦場の中央へと。


 その眼下に広がるのは、混沌そのものだった。


 土煙と火炎が交錯し、鋼の音が虚空に満ちる。エルフたちの戦いが、眼下に広がっていた。


 赤金の瞳をした肌の褐色の戦士が、地を蹴って飛翔し、双斧を振り回す。巨岩を砕くような一撃が地面を抉り、数人の盗賊が吹き飛ばされた。


「精霊よ、導きを!」


 緑の草地からは弓を構えるもう一人のエルフが、輝く矢を連射している。まるで流星のような矢の群れが、盗賊の隊列を貫いていく。火と雷を帯びたそれらは、辺りを焦がしながら、次々と敵を薙ぎ倒していた。


 陰には、黒紫の胞子が広がり、動きを封じる不思議な術者。そして、無邪気な笑顔で地面に爆炎を放つ娘。


 四人が、まるで舞うように戦場を駆けていた。


「中々の手練れだな」


 シェリルが静かに呟く。並走するミーナが、目を細めながら応じた。


「奴らの装備……やはりただの盗賊ではありませんでしたね」


「どうやら、我らの推測は間違いではなかったようだな」


 彼女は馬上から伸びやかに身を引き、腰の剣を抜いた。刀身が冷たく光を反射し、その瞳に映るのは戦場の全てだった。四方八方から迫る盗賊たち。彼らの動きを見極めながら、シェリルは精度を完璧に保った。


 一閃。


 最初の敵の喉元を薙ぎ、振り抜いた刃は二人目の盗賊の胸を貫いた。鮮血が弧を描くが、彼女の纏う白と蒼の軍服は、僅かな染みさえも許さない。


「氷剣――展開」


 彼女の言葉と共に、空気が凍てついた。


 周囲の水分が凝結し、蒼く鋭い刃が幾つも現れる。シェリルの指先一つの動きで、それらは敵の頭上から降り注いだ。


 銀糸のようにきらめく髪をなびかせながら、氷姫は戦場を舞う。


 その剣舞は、見るものの呼吸を奪うほどに美しく、そして恐ろしい。四散する氷塵の中、盗賊たちの断末魔が響き渡る。


「追撃します!」


 セリアが声を上げ、馬を駆って敵陣に切り込んでいく。


 シェリルは頷き、戦場を進んでいった。刃と刃が交わる音。馬の嘶き。風を切る剣の唸り。全てが彼女の感覚を研ぎ澄ませる。


 ハイエルフたちの戦いを背に受けながら、シェリルの軍は更に突き進む。谷間を抜け、視界が開けた先。


 そこには、先ほどよりも更に洗練された"普通の盗賊"ではない一団が待ち構えていた。


「あれは……」


 整然とした隊列。上質な甲冑。剣や盾には紋章が刻まれ、馬具にも統一感がある。その背後には、黒の外套を羽織った人影が見える。


 シェリルは目を細め、馬の手綱を引いた。その表情に、確信の色が浮かぶ。


「なるほど。あれが報告にあった第二王子の飼い犬共か……」


 第二王子からの婚姻を拒絶したツケが、まさかここまでの怨恨を生むとは……しかし、その背後には違う謀略が見え隠れする……全てが繋がるような、そんな予感さえシェリルにはあった。


 馬上で身を引き、シェリルは剣を高く掲げる。


「全軍、突撃せよ!」


 銀髪を風に靡かせ、氷の華のような美しさと共に、彼女は戦場へと駆け抜けていった。鉄蹄の音が地を叩き、風を切って進む騎兵隊の先頭に立ち、彼女の眼光は鋭く前方を捉えていた。


 前線に近づくにつれ、戦いの全貌が見えてきた。斥候からの報告通り、一人の鬼人族の女武士と、銀髪のエルフが圧倒的な数の敵と対峙していた。鬼人の太刀が月光のように閃き、エルフの詠唱が風を操る。わずか二人であるにもかかわらず、驚くべき連携で敵軍を押し返していた。


「あれが斥候の報告にあった二人か……」


 シェリルの目が冷たく光る。


「セリア、ミーナ! あの二人を援護し、幹部共以外を殲滅せよ」


 ミーナ・クラリエが細い眼鏡の奥で瞳を光らせ、小さく口元を歪めた。


「やれやれ、人使いの荒いご主人様ですこと……」


 その言葉と共に、彼女は馬から飛び降りた。風を切って宙を舞う姿は、まるで舞踏家のよう。着地した瞬間、指から溢れ出る細い糸が空間を切り裂いた。


「――絶糸ぜっし!」


 ミーナの指から繰り出される光線のような糸が、幾重にも絡み合いながら前方へと伸びていく。


「あの女、何をする気だ!?」


 慌てふためく盗賊の声も空しく、絶糸は容赦なく彼らの体を貫いた。幾つもの絶命の悲鳴が上がる中、ミーナは優雅に手を振った。


「おっと、これは刺さりすぎましたか? 主人の命令は『殲滅』でしたから、遠慮はしませんよ、賊共」


 その横を駆け抜けるセリア・ユーヴェルは、馬上から大きく剣を振り下ろした。


「近衛隊指揮官、セリア・ユーヴェル、参るぞ!」


 豪快な剣技が地を薙ぎ、敵兵を蹴散らしていく。彼女の青い瞳に映るのは、ただ主の背中だけ。シェリルの指示に従い、彼女は躊躇なく敵陣に切り込んでいった。


 シェリル自身もまた、剣を横に構えていた。彼女の周囲に魔力が溢れ、青白い光が刀身を包み込む。


「退け、痴れ者どもが――刃舞・交叉斬月」


 一つの動きから派生する無数の斬撃。彼女の一振りは、幾重もの氷刃となって放たれる。剣の軌跡そのものが凍てつき、その範囲は何倍にも拡大された。二人の戦士を取り囲んでいた盗賊たちは、瞬く間に薙ぎ倒された。


 蒼氷の華が散り、周囲の空気が凍りつく中、シェリルは静かに馬を寄せた。


 そこに立つのは、漆黒の長い髪を高く結んだ鬼人族の女武士と、銀糸のような髪を持つ気高いエルフ。二人とも、少なからぬ傷を負いながらも、凛とした佇まいを崩していなかった。


「辺境伯家、シェリル・フォン・アルベルト」


 馬上から名乗るシェリル。彼女は軽く顎を上げ、二人を見下ろした。


「――たった二人で、この規模の部隊を食い止めていたとは。見事な戦いぶりだ」


 シェリルの言葉に、鬼人族の女は一礼した。


「拙者、ヒノエ・マユと申す者にござる。ご助力……ありがたく」


「アルウェン・イリュシア・フィエルターナ。……時宜を得た援軍、感謝する」


 エルフの女性も静かに頭を下げた。その瞳には、信頼というより警戒が宿っている。


 シェリルは軽く頷くと、剣を鞘に収めた。


「後は我らに任せよ。休息を取るがいい」


 そう言いかけた彼女の言葉を、アルウェンの声が遮った。


「いえ、休んでいる暇はないわ……」


 アルウェンと名乗ったエルフ声は冷たく凍てついていた。彼女の目は、シェリルの先を見据えている。


「来ます……!」


 その言葉に、シェリルは眉を寄せた。


「何……?」


 アルウェンが見つめる方向へと視線を向ける。前方の空気が、不自然に揺らめいていた。風が変わる。いびつな、まるで嘆きのような音を帯びた風が砂を巻き上げ、場を覆い始めた。


 突如、天が曇り始める。陽光が遮られ、谷間は急速に闇に包まれていった。


「あれは……何だ……?」


 シェリルの問いに、応えるものはいなかった。


 前方の空間が歪み、蜃気楼のようにねじれていく。ひび割れのような亀裂が空に走り、その隙間から漏れ出る魔力の波動が全身を震わせた。


「魔力の流れが……乱れています!」


 アルウェンの声が震えていた。彼女の銀髪が風もないのにたなびく。


 空間の裂け目から、巨大な赤黒い腕が現れた。それは人のものではなく、血の気を失うほど禍々しいものだった。一本、また一本。二本の腕が伸び出し、まるでこの世界に引き摺り出されるかのように、不気味な動きで空間を押し広げていく。


「あれは――!」


 さらに二本の巨大な腕が現れ、四本の腕が空間を引き裂くように広げる。その動きに合わせ、地面が震え、風が吼えた。


 近くにいた敵兵たちが叫び声をあげる。


「何が起きてやがる!?」


「逃げろ! 約束と違う! これじゃあ――!」


 盗賊の一人が腰を抜かし、言葉を失って叫びだした瞬間、空間から現れた巨大な足が彼を無慈悲に踏み潰した。血肉が飛び散り、断末魔の叫びは途中で途切れる。


 裂け目は更に広がり、そこから姿を現したのは――六本の巨大な腕を持ち、無数の目を持つ不気味でおぞましい歪な巨人だった。その肌は硫黄のような赤黒い色をしており、全身から禍々しい魔力が溢れ出していた。


 それを見たシェリルの頬が微かに引きつる。


「これは、教会の古い書物に描かれていた……」


 彼女の脳裏に、幼い頃に見た禁書の挿絵が蘇る。王国神殿の書庫の奥、閲覧が禁じられた古文書に記されていた禁忌の存在。


「ヘカトンケイル……!」


 無数の腕を持つという魔神。古来より"忌むべき災厄"として、封印の対象とされてきた邪悪な存在。


「な、なぜこんな……化け物が……!」


 その姿に、戦場に居合わせた全員が戦慄を覚えていた。敵味方関係なく、全ての人間が凍りついたように動けなくなる。


ミーナが震える声でシェリルに呼びかけた。


「シェリル様、あれも……殲滅対象でございますか……?」


 シェリルの唇が固く結ばれる。彼女もまた、初めて対峙する存在に戸惑いを感じていた。だが――決して表には出さない。


「馬鹿を言え!あれは……あれは人が及ばざる領域――」


 言葉の続きを告げる間もなく、ヘカトンケイルの六本の腕が一斉に襲いかかってきた。赤黒く禍々しい腕は、まるで蜘蛛の脚のように地を震わせながら、彼らめがけて迫る。


 周囲の兵たちが悲鳴を上げ、足元が崩れる中、一つの影が風のように駆け抜けた。


「鬼よ、走れ。風よ、吼えろ──鬼閃・踏雷!」


 鬼人の娘、ヒノエ・マユの声が戦場に響き渡る。その姿は刹那、かき消えるように消失したかと思うと、次の瞬間には魔物の腕に深く食い込んでいた。闇光のような太刀が閃き、ヘカトンケイルの一本の腕を切り落とす。


 だが、断たれた腕からは血すら零れない。代わりに黒い霧のようなものが噴き出し、次の瞬間には新たな腕が再生していた。


「な……」


 ヒノエの表情が、動揺を見せる。だが躊躇っている余裕はなかった。巨体が旋回し、再生した腕が彼女めがけて薙ぎ払われる。


「下がれ!」


 アルウェンの一喝が場を震わせた。


 その声に、ヒノエは一瞬だけ躊躇を見せたが、すぐに背を翻して後退した。まるで約束されていたかのような完璧なタイミングで、アルウェンの指先から青白い光が溢れ出す。


 ハイエルフの瞳が、月のように輝き始めた。


「風よ、星よ、我が言葉を尊びて――」


 シェリルにも感じ取れた。空気が変わる。大地を伝う魔力の流れが、すべてアルウェンに向かって集束していく。


「──破律・星火崩走・アストラルフレア!」


 アルウェンの手から放たれた詠唱の光が、蒼白く輝きながら空間を切り裂いた。星々が燃え上がるような強烈な輝きが、ヘカトンケイルを包み込む。


 だが――。


「あれは……!」


 シェリルの呼びかけは遅かった。


 魔物の顔に無数に開いた"目"が、一斉にアルウェンへと向けられた。それぞれの眼から漆黒の光が溢れ、瞬く間に収束していく。


 魔力の束が、一直線にアルウェンに迫った。


「シェリル様!下がってください!」


 セリアが叫んだが、それを聞いている余裕すらなかった。


 瞬間的な判断だった。


 シェリルは馬から跳び降り、地を滑るようにアルウェンに駆け寄った。


「《氷律障壁》!」


 シェリルの言葉と共に、二人の前に厚い氷の壁が展開された。だが、それすらも魔物の魔力の前には脆く、まるでガラスのように砕け散る。


 追い打ちをかけるように飛んできた漆黒の光の束と、アルウェンの詠唱から放たれた星の炎が交差し、爆散した。


 鈍い爆音。眩い光。大地を揺るがす衝撃。


 ヘカトンケイルの放った力に、アルウェンの詠唱が呑み込まれようとした瞬間、シェリルは再び動いていた。


「させるか!」


 彼女はアルウェンの体を抱き寄せるようにして地面に伏せ、全身で庇った。爆風が背を打ち、鎧が軋む音が響く。


 銀の髪と、白銀の髪が交わる。


 アルウェンの瞳に、驚きが浮かぶ。


「なぜ、貴方が……」


「敵前で背を向けぬのが我が流儀。それだけだ」


 シェリルは吐息交じりにそう返した。冷たい顔、凍てつく瞳。だが、その言葉の底には、確かな芯があった。


 爆風が収まり、立ち上る煙の中から、ヘカトンケイルがのそりと姿を現す。


 その姿は、まるで鏡に写った自分を見るような奇妙な感覚をシェリルに抱かせた。多くの腕、無数の目。禍々しく揺らめく輪郭。すべてが"人"の形を模しながらも、決してそれであり得ない歪みを帯びていた。


 正真正銘の化け物。


(これは……どうすれば……)


 シェリルは瞬時に頭の中で何通りもの戦法を組み立て、そして崩していた。


 第一騎士団の突撃は? 無理だ、あの力を見れば単騎突撃は自滅だと分かる。


 一斉射撃は? いや、あれほどの障壁、射通せる保証はない。


 魔導師の詠唱は? 召喚系はガラインの得意だが……それまで持つか。


 数秒のうちに、シェリルは幾つもの戦術を検討した。だが、どれも勝ち筋が見えない。


 目の前の存在は、"戦力"の範疇をすでに超えていた。


「撤退も難しいか……」


 彼女の呟きが、風に溶けていく。


 眼前で、ヘカトンケイルの六本の腕が再び高々と掲げられた。

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