第14話 開戦

 不気味な静けさ漂う山路に、ひずめの音だけが、幾重にも重なって響いていた。


 日が傾きかけた谷間を進むのは、総勢三百を超える大規模な武装集団。だが、その列は整然とした軍勢のものではなかった。剣も鎧も統一感に欠け、明らかに寄せ集め。かつて傭兵、あるいは脱走兵であった者たちが、今は“盗賊団”の名のもとに、辺境へと向かっている。


 先頭を駆ける数騎の姿だけは、その混沌から抜きん出ていた。鋲打ちの鞍、厚みある甲冑、腰に佩いた刃には刻まれた紋が燻んで光っている──いずれもかつて“名乗り”を得た武人たち。今は野に堕ちたその名を、彼らは未だ誇りと共に携えていた。


 その中に、ただ一人、異質な者がいた。


 銀糸を織り込んだ黒の外套。面差しを覆う深いフード。その胸元には、既に禁じられたはずの紋章──かつて女神の聖域に連なりし、神殿復古派の使徒の印が刻まれていた。


「第二王子は扉にすぎん。我らの標的は、あくまでアルベルト家だ」


 馬上で囁かれた声は、霧の中でも鮮やかに届いた。


「辺境伯の娘シェリル。王都で“氷剣姫”と囁かれるあの女を討て。村を焼き払い、辺境軍を誘き出し、すべてを潰す。あの父娘が“英傑”である限り、我らは決して蘇らぬ」


 黒衣の神官は、外套の奥から一つの箱を取り出した。黒檀に覆われた重厚な蓋。その隙間から、かすかに漏れ出す冷気と瘴気が、馬の鼻先を震わせる。


「これは……?」と尋ねた幹部の一人に、神官は静かに応じた。


「“魔塵石”──古き時代、神々と敵対した魔の者。その魂を封じた忌物だ。辺境軍が到着したら、これを用いよ」


 リーダー格の大男が、口元を歪めて笑った。


「やれやれ、第二王子の坊ちゃんは俺たちに“盗賊ごっこ”を頼んだつもりだったんだがな……裏でお前らがそんなもん握ってるとは」


「毒では殺せなかったアルフレド伯。その娘に夢を見るとは……雷斧のアルフレドも、落ちぶれたもんだ」


「……だからこそ断ち切るのだ。今こそがその好機。あの血筋は女神に抗う因果。奴らこそが、秩序を乱す根源なのだ」


 神官の瞳に狂気の色が走ったその瞬間──


 背後で、世界が崩れた。


 地響きと共に岩が砕け、山肌が剥がれ落ちる。幾つもの馬の悲鳴、兵の叫びが霧を裂く。崖道が崩れ、後続の部隊が土砂に呑まれた。


「くそっ――崖崩っ……いや、違うな……崩されたか! 後ろは捨てろ!」


 大男が怒号する。振り返ることなく馬の腹を蹴り、谷間へ向けて突撃を開始する。幹部たちも一斉に続いた。


「どうせ奴らは捨て駒だ。残す価値もねぇ!」


 混乱に気づかぬ者たちは、崩落の渦中で次々に地へ沈んでいく。叫びは遠ざかり、霧の彼方へと消えていった。


 そして、騎馬の蹄が再び轟く。闇を裂き、谷の奥へ──戦いの“本番”へと、闇が疾走していった。





 崩落の轟音が山峡を揺るがし、後続を務めていた盗賊たちは唐突に戦列を失った。散り散りになった兵は命令を待つ者も、咄嗟に逃げ出す者もあれば、己の位置すら見失った者も多い。土砂の煙が充満し、混乱の叫びが辺りを満たす。


 後続を務めていた盗賊たちは突如として進路を失い、隊列を立て直すこともできず、砕けた岩と倒れた仲間の上を越えようと呻きながら足掻いている。


 ──その時、霧を裂き、風を切って、四つの影が地に降り立った。


「て、敵襲だあっ!!」


 一人の盗賊の叫び声を皮切りに、最初に飛び込んだのは、褐色の肌に赤金の瞳を燃やすハイエルフ、シャナ。筋繊維のような構えで地を蹴るや、彼女の双斧は流星のように煌いた。


 「月環の矢、ルメナールが一番槍!てめえらまとめて……ぶっ潰す!」


 風圧すらも踏み割るその跳躍と共に、大地が鳴動する。


 ──《重斧の演舞、バースト・スイング)》。


 巨岩を裂くかの如き振り下ろしに、敵の盾兵ごと地面が爆ぜた。その動きは獣にも似て、だが狂気ではない。研ぎ澄まされた意思と肉体が織りなす、戦場の舞。


 その背後から、双矢が閃光を纏って駆けた。


 高所から敵陣を俯瞰するのは、精霊と祈りの射手、リーファ。弓を引きながら、静かに天へと祈る。


 「雷よ、炎よ……この矢に導きを」


 ──《精霊連矢・雷火の律(ヴォルティカ・フレイム)》。


 一本は雷を纏い、もう一本は炎を宿す。放たれた瞬間、それぞれが空中で軌道を描き、敵陣の中心へと交差する。


「うわぁぁぁぁっ!!」


 爆ぜた閃光に悲鳴が上がり、視界を奪われた者たちは、焦げた仲間を踏み台にして無様に逃げ惑った。


 だがその足元に、“静かなる侵食”が迫っていた。


 「……ふ、ふふ。滑って転んで、菌まみれになればいいのです……」


 口元を指でなぞりながら、ネネト・オルフェが鞄から小瓶を三つ投げた。割れた瞬間、黒紫の胞子が舞い上がり、地面がじわじわと黒く染まっていく。


 ──《腐唱・菌従(ソング・オブ・マイコズ)》。


 そして、地中から現れたのは、足と歯を持つ不気味な菌の召喚体。


「な、なんだこいつら!?」


 彼らは指示もなく、ただ敵の気配へと群がり、靴底を侵し、装甲の隙間を舐めて喰らう。


 「うへへ……ふやける、ふやけるぅ……」


 「ひ、ひぃぃぃ!」


 滑った兵が悲鳴を上げるその横で、リーファの矢が敵の鎧を貫いた。


 それを合図にしたかのように、爆風が一帯を飲み込んだ。


 「お待たせ~!本日の特製ディナー、熱々でぇす」


 指先で火打ち石を弾くと、彼女が仕込んだ魔法の火線が一斉に閃いた。赤い蛇のように地面を走り抜け、崖下のあちこちで呪印が蒸気と共に光り出す。


 ──《爆刻の炙符(ばっこくのしゃふ)》、起動。


 爆音と共に地面が裂け、立っていた盗賊がまとめて空中へ吹き飛ばされた。肉と鉄が空中で交差し、煙幕がすべてを覆う。


「もうちょい焦げた方が好みなんだけどなぁ~?」


 四人の動きはバラバラではない。矢と爆破、菌と斧が絶妙な間合いで交差し、互いに背中を預けぬまま、それでも一つの陣形として機能していた。


 だが──それでも、すべてを止めるには至らない。


 煙が晴れかけた谷の奥。再び現れたのは、再編されつつある第二波の盗賊部隊。数十名、いや、それ以上。槍と斧を構え、隊列を整え、咆哮と共に前進を始める。


「……矢筒、残数三十。詠唱十二巡、皆さんまだいけますか?」


 リーファの報告に、ネネトはふらふらとシャナの後ろへ。


「また来た……新しい菌の苗床にしてやしてやるんだから……ふへ、ふへへへ……」


「うえ……おぃおぃ、俺達まで巻きこむなよ?」


 シャナが振り返り、斧の柄を地に突いた。


「シャナ、無駄口叩かないで!きますよ!」


 リーファの矢が再び唸りをあげ、シャナに斬りかかろうとした盗賊の額を、無慈悲に射抜く。


 「おっと──さんきゅ~リーファ。よっしゃ、もういっちょやるか!」


 その言葉に、ニナが爆符を一枚口にくわえ、ニッと笑う。


 「ほんじゃ、お替り行ってみよう!」


 戦は、なお継続していた。これはただの前奏。戦局はまだ、音を立てて“熱”を帯び始めたばかりだった。


 それは、壮絶な戦火の口火。


 戦場に咲いた四つの異なる力。その咆哮は確かに敵の脚を止めたが、敵はなお“群れ”であり“勢”である。


 そして、彼女たちはその流れに、今まさに真っ向から牙を剥いた。





 爆煙の尾が山峡を包む中、風の向こう、谷を挟んだ別の斜面からは、未だ秩序を保つ別動の騎馬部隊が鉄蹄を轟かせていた。混乱に飲まれることなく抜けた精鋭。名乗りを持つ盗賊幹部たちとその部隊である。


 その進軍の先に、ただ一人。谷の狭道に、静かに立ちはだかる影があった。


 漆黒の長髪を高く結い、風に衣の裾をたなびかせる鬼人族の女武士──ヒノエ・マユ。


 彼女の足元には、朱の紋様が淡く波紋のように広がる。


 ──《緋閃流・早影──肢韻ノ構》。


 「風よ、我が歩みに添え──」


 足元の草が逆巻き、空気が斬撃の如く振動した。


 「前方、敵確認! 一斉射撃! 矢を放てッ!」


 幹部の怒号と同時、十数の矢が一斉に空を駆ける。しかし──


 幹部の怒号と同時に、十数の矢が一斉に空を舞った。


 だが、ヒノエは一歩も動かぬ。構えすら取らず、ただ目を細めるのみ。


 「……理を読めぬ矢など、通じぬ!」


 風が鳴いた。


 陣から放たれた旋律のような風が渦を巻き、矢の群れへと走る。木の軋みを伴い、すべての矢は触れられることなく逸らされ、大地に落ちた。一本たりとも彼女に届かぬまま。


 次の瞬間、ヒノエが地を蹴る。


 「──風走るが如し……閃け、緋の一太刀!」


 ──《緋閃・早影突》。


 ヒノエの姿が風と共に消える。次の瞬間、複数の騎乗の敵兵が、斬撃の余波に呑まれて倒れる。だが敵は次々に襲い来る。多勢に無勢。地の利も捨てた一人に、連携した突撃が襲いかかる。


 「──遅い!」


 振り返る間もなく、背後から振り下ろされた斧。その刃が届く直前、空気が震えた。


 風が渦巻き、光が差し込む。


 「鬼娘、下がれ!」


 ──精霊の律が歌声のように響く中、白銀の髪をなびかせ現れたのは、月環の矢、ルメナールの導き手、アルウェン・イリュシア・フィエルターナ。


 ──《結律・霊環の盾》。


 淡い緑の精霊障壁が展開され、迫る斧を弾く。ヒノエは一歩も退かぬまま、礼も言わず斬り返す。


 「援護、感謝仕る──」


 「まだ、これからだ。次、左側の突撃を……!」


 アルウェンが詠唱に移り、風の精霊を呼び寄せる。彼女の周囲に渦巻く精霊光が星のように輝く。


 ──《戦律・アルヴィナの矢》。


 風の力を纏った矢が発射され、敵兵の間を通り抜けるように追尾し、馬を貫いた。


 風と刃が交錯し、敵の波を押し返す。その中心で、ヒノエとアルウェンはまるで旋律のように呼吸を重ねる。


 「前、右から二──あれは隊長格。抜けば崩れる」


 「応!」


 ヒノエが足を踏み、風を孕んだ気配が地を撫でる。瞬時に斬り込んだ彼女の太刀は多くの敵の斜線を斬り裂き、その空白を狙ってアルウェンの風の矢が走る。


 精霊詠唱の響きと共に放たれた風の矢は、弧を描いて敵の動線をねじ曲げ、逃げ場を潰すように数多の敵兵へと吸い込まれた。


 連携はもはや意思を交わすものではなかった。律と力、詠と斬。それぞれが呼吸し、互いを導く。


 だが、限界は、刻々と近づいていく。


 「一人ずつ行くな!囲め、囲めぇ!」


 叫びが飛ぶ。


 連続する突撃の中、ヒノエの肩を斜めに斬りつける刃が走った。血が一筋、風に流れる。


 「……くっ」


 アルウェンは即座に詠唱を切り替え、片手を振る。


 ──《結律・霊環の盾》。


 だが、展開の瞬間を狙った敵が斧を振り下ろす。詠唱が間に合わない。


 「鬼娘──!」


 アルウェンは詠唱を崩し、斧の前に自ら割って入った。


 斬撃は、アルウェンの肩を浅く裂くに留まった。


 「……くっ」


 「済まぬ……!」


 二人はすぐに構えを取り直し、背中を合わせる。だが、息は既に荒く、精霊光も弱く揺らいでいた。

 




 一方、その光景を見つめる敵陣。


 「ちっ……何だあの二人、斬っても斬っても崩れねぇ。あんな化け物が辺境にいるなんて、聞いてねえぞ!」


 「リーダー!どん詰まりだ、もう百人以上は持ってかれたぞ!」


 「わかってる……わかってるよ、クソが……っ」


 焦燥の色を隠さぬまま、幹部リーダーが唇を噛んだ。


 「くそ……このままじゃ押し切れねぇ……やるしかねぇか」


 そのとき、後方の馬上から神殿使徒が乗り出した。


 「おい!何をするつもりだ!?あれはまだ早い。あれは──」


 幹部が顔をしかめ、振り返る。


 「だったら、てめえが何とかしろ!こっちはもう後がねぇんだよ!」


 「黙れ!あれは我らが神の御心に定められた忌物だぞ!神敵と定めた辺境軍に使えと命じたはずだ!」


 「神だと!そんなもの一体どこにいる!戦場にゃそんな神様いねえんだよ!」


 リーダーの怒声が響いた。


 「今ここで潰せなきゃ、全部終わりなんだよ。奴らを越えられなきゃ、計画も未来もねぇ」


 「ならば尚のこと、今は踏みとどまれ。これは“計画”の柱だ。失えば、二度と手には入らん──!」


 「……っ」


 リーダーはしばし沈黙し、拳を震わせた。


 「くそっ……」


 そして──視線が、ヒノエとアルウェンの背中を捉える。


 精霊と剣が織りなす戦場の律。次々と切り捨てられ、射抜かれていく配下たち。突破口など、もはや見えなかった。


 リーダーはゆっくりと剣に手をかけた。


「ああ――そういえばいたな……」


「えっ……?」


 ――鋭い閃き。金属音のような切れ味の後、神官の首が地に転がった。


 黒檀の箱が、血に濡れた手によって持ち上げられる。


 「死神って言う神様が……な」


 箱の蓋に落ちた血が吸い込まれた瞬間、谷間の空気が濁った。


 風が止み、草木がざわめき、大地がかすかに鳴いた。


 「時間を稼げッ!全軍突撃!!ここで奴らを潰せ!」


 怒号が轟き、傭兵たちが咆哮を上げて一斉に動き出す。


 ヒノエとアルウェンは、背を合わせたまま剣と詠唱を構える。


 「……トシオ殿、まだお見えになりませぬな」


 「……ええ。ですが、それでも……ここを守る。それが“主の盾”の役目ですから」


 「ならば、拙者は──この命尽きるまで、剣を振るう者として」


 互いの背にわずかに預けられた重みが、確かな信頼に変わる。


 敵が迫る。


 風が唸る。


 そして、箱が、軋む。


 ──黒檀の箱が、深淵の底から眠りを破るように、軋んだ音を漏らした。

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