第12話 彼女の耳が揺れた時

 ギルドの広間には、まだ伝令の言葉の余韻が漂っていた。


「残党数、およそ三百──」


 その数を聞いた瞬間から、沈黙はゆっくりと崩れていく。


「おい、聞いたか……三百だぞ……名持の盗賊もいるって話だ」


「……戦える数じゃねぇ……!」


「辺境伯は何やってやがんだ!」


 最初のひとりが立ち上がった時、それは合図のようだった。次いで、二人、三人。手荷物を掴み、地図を巻き、剣を拾い、転がるようにして逃げ出す。テーブルのエールが床に零れ、椅子が軋み、足音が走る。


「おい、邪魔だ!」


「ちょ、俺の剣っ……待って、靴……!」


 次々と冒険者たちが扉へ向かい、慌ただしく飛び出していく。無駄口は叩かない。言葉にすれば、恐怖が現実になるとでも言うように。


 (……もう、始まっているのですね……)


 彼の思考は鈍く、しかし確かに現実を噛んでいた。


 目の前で崩れていく秩序。


 背を向ける者たちの靴音とともに、ギルドの空気から熱が消えていく。


 数分もせぬうちに、広間には数人を残すのみとなった。


(……逃げるのは、責められません。ええ、命あっての物種でございますし)


 最後に残った三人の女冒険者が、壁際に身を寄せたまま、去ろうともせず、ただ様子を見ている。


 トシオはその場に立ち尽くしていた。手には干し肉の包み。何をするでもなく、何かを言えるでもなく──ただ、状況を見つめていた。


 そのとき、ガラハムが静かに言った。


「避難を開始する。職員は馬車の準備をし広場に集めろ。動ける者から順に誘導しろ。メリア、使える馬車は何台だ?」


 ガラハムが、声をかける。


 指揮を執る者の声は、動揺ではなく、判断の響きを持っていた。


「はい、広場に五台……ですが、うち一台は車輪に不安が……」


「修理班を回せ。人手が足りなければ、私が出る」


 指示が飛び交い始めた。


「は、はい!」


 メリアも返事と同時に走り出す。


 ギルド職員たちも慌ただしく動き出したが、その数は心もとない。


 次第に浮かび上がるのは──数の足りなさ。時間の足りなさ。そして、何よりも……選別の現実だった。


 職員の無慈悲な声が、トシオの耳に、届いてしまった。


「……あの家の婆さん、動けねえんだよ。誰か背負ってくれねえか」


 「無理だよ…動けない年寄り連中は三人くらいなら、って言われたけど──」


 人を、選ぶ――声。


「老人や病人……歩けない人も……」


 メリアが住基帳を押さえる手を震わせながら、絞り出す。


「現状の馬車の数では、とても全員は……」


 ガラハムは苦々しく眉をひそめ、言葉を飲み込んだ。


 やがて、断を下すように言い切った。


「一部は……見捨てるしかない。非道な決断だが……や無負えない」


 トシオの足が止まった。


 昨日までスローライフを満喫していたとは思えないほどの空気感。心の底で凍った何かが、軋むようにして割れていく。


「全員は、救えない」


 誰かが口にしたその言葉に、トシオ口から自然に声が漏れ出た。


「……人を、選ぶ……?」


 喉が焼けつくようだった。


「……人を選んで、見捨てるなど……そんなのは……!」


 その声に、ギルド内の動きが止まる。


 トシオ自身が驚くほど、強い声だった。


 広間に再び沈黙が落ちる。ギルド職員たちの手が止まり、メリアすら、次の言葉を探して顔を強張らせていた。


「ヒゲ君……」


 ガラハムが振り返り、重たい声で呼ぶ。


「これが現実なんだよ。君の思う“正しさ”だけでは……理想だけでは、誰も助けられない」


 現実──


 静かに告げられたその一言が、トシオの胸を打った。その言葉の重みに、トシオは口を閉ざすこともできず、ただ拳を握りしめた。


(私は、何を勘違いしていたのでしょう。ここは……この世界は、今の私にとって、現実なんですよね……)


「……分かっています。ええ、頭では理解しているつもりです」


 トシオは一歩、前に出た。


「ですが、私は──理解したくないんです」


 その言葉に、誰も何も言えなかった。声を上げる者も、笑う者もいない。ただ、メリアが微かに俯き、唇を噛んでいた。


「……アルウェン様、皆様の避難誘導、お願い……できますか?」


「当然です、主様」


 アルウェンが即答し、シャナ、リーファもすぐさま動き始める。


 トシオもまた、動き出す。自らの足で──村人たちを、残さぬために。


 そのとき、ギルドの扉が開いた。何人かの村人が、伝令の報を聞きつけて駆け込んできたらしい。


「馬車はどこだ!? 母が、母が歩けないんだ!」


「頼む、子どもだけでも……!」


 悲鳴のような声が広間を満たす。


 トシオは、迷わずその一人の背中に手を回した。


 「こちらへ。ええ、順番に、落ち着いて……」








 ――広場では、馬車には次々に荷が積まれ、避難の列が出来ていた。


 馬車の列に人々が殺到し、叫び声と怒号が飛び交っている。動けぬ老人が地面に座り込み、誰かが毛布をかぶせている。寝たきりの病人が担架に運ばれ、子どもではなく、むしろ村の“最も遅い者たち”が、避難の輪から弾き出されようとしていた。


 その中に、ひとりの老人の姿があった。腰をかがめたその老人は、トシオに手を伸ばし、かすれた声で呟いた。


「……すまんの、わしらのせいで……」


 手を引かれながらもなお、自責の念に顔を伏せる老爺の姿。その言葉に、トシオはただ静かに──首を横に振った。


「謝らないでください……生き延びていただければ、それだけで……」


 その言葉の意味は、トシオ自身が最もよく分かっていた。


 理想は、脆い。だが、それを捨ててしまえば、自分が“自分”でなくなる。


 トシオは、そう思ったまま動けずにいた。広場を覆う土煙と絶望の隙間に立ち尽くし、どこかで自分の選択が、全ての命運を狂わせてしまうのではないかと──そんな恐れに似た感情が、胸の奥を刺していた。


「……主様」


 不意に、後ろから声がかかる。振り返れば、シャナが眉をしかめ、真剣な眼差しでこちらを見ていた。


「正直……引いた方がいいっスよ。ここで戦うのは、もう無理だと思うっス」


 彼女の声には、いつもの軽さはなかった。ただの忠告ではない。諦めを受け入れる側の覚悟が、そこにはあった。


「三百って数……魔物じゃないっス、人間。それも、王都軍の討伐から生き伸びたって話じゃないっスか……それ、普通の盗賊じゃないっスよ」


 続けざま、リーファが俯きながら静かに言った。


「……主様を見捨てるなんてできません。でも、ここで踏みとどまっても、きっと……誰も守れません。拠点へ戻れば、まだ可能性はある。私たちも、逃げるべきです」


 その言葉に、トシオは言葉を返せなかった。


 正論だった。責めるような口調は、一言もない。


 けれど、それでも、重たかった。圧倒的に。


 さらに、アルウェンが一歩前に出て、手にしていた布地図を広げる。


 静かな声が、刻を裂いた。


「ギルド職員から情報を得てきました……敵の構成は、元傭兵が多数。戦場の経験を持つ者ばかり。中には“名乗り持ち”とされる手練れも含まれています。規模は約三百。地の利も我々にはありません。あちらは既に地形を把握している可能性が高く、伏兵の展開も想定されます」


 事実の羅列。それは、冷たく、そして否応なく現実を突きつける刃だった。


「いくら主様が強者と言えどこの数……戦わず、拠点へ撤退するのが賢明です」


 はっきりと言い切られた。


 迷いも、慰めもない。それが一族の“導き手”としての、彼女の結論だった。


 (……そう、なんですか。そうですよね……)


 トシオは自問するように視線を落とす。


 地面に刻まれた誰かの足跡。引きずられた車輪の溝。泥にまみれた草花。どれもが、現実で──


 (第二の人生、異世界……人と戦えば、殺すことになる。それは──ただの、殺人……)


 口に出したくなかった言葉が、心の内で繰り返される。


 魔物なら、そう思わなくて済んだ。けれど、相手は人間だ。


 言葉も、感情もある。戦えば──その命を、自分の手で絶つことになる。


 その重さを、どうにも抱えきれずに、ただ風だけが、剣の柄を震わせていた。


 「戦えば、人を殺めねばなりません……」


 「……やらねば、こちらがやられます」


 アルウェンの声は、静かだった。だが、揺るぎはなかった。


 トシオは唇を結び、しばし目を閉じた。


 この手で、誰かを殺す。


 その事実だけが、胸に重くのしかかる。


 誰も、トシオを責めなかった。


 誰も、黙らせようとしなかった。


 ただその場には、撤退すべきだという“正論”と、戦うことが正しいという“良心”とが、静かに、剣のように並び立っていた。


 風が、ひとつ、息を吐いた。


 馬車の軋む音だけが、広場の静けさを引き裂いていく。


 それも──もう、最後の一台だった。


 トシオはその背を目で追っていた。荷台の上に詰められた布包み、泥に汚れた靴。


 小さな命がその中にあることを祈るように、遠ざかる車輪を見つめていた。


 だが、そこに──いない。


 その中にあるべき“気配”が、どこにもなかった。


 (……クーナさんが、いない)


 思考よりも早く、足が動いていた。


 広場を斜めに横切り、まだ人の残るギルド前へと向かう。


 メリアが、馬車の出発を見送っていた。指先には泥がこびりつき、額に浮かぶ汗を拭う暇もない。


 「メリアさん」


 呼びかける声に、彼女は小さく肩を揺らした。


 こちらを見る。その瞳に浮かんだものが、すべてを物語っていた。


 「……クーナさんが、いません」


 静かに告げたその一言に、メリアは目を伏せ、長い沈黙の末に言葉を吐いた。


 「……家にいます。祖母様の……看病で」


 その声は、苦しさを堪えた水音のようだった。


 トシオは、信じられないというより、ただ言葉を失った。


 「動けないんです。病で……もう、長くは」


 言いながら、メリアの顔がほんのわずか、歪んだ。


 職務に追われていた時間の中で、どれほど迷い、どれほど葛藤を抱えていたのだろうか。


 「一緒に避難できなかったんですか……?」


 トシオの問いに、メリアは小さく首を振った。


 「さっき説得しました。何度も。でも、彼女……」


 そこで言葉が切れた。唇をかみしめ、やがて押し出すように続ける。


 「クーナのご両親は……昔、盗賊に殺されました。村が焼かれて、一人で逃げて……拾われたのが、今のお祖母様です。人族の……血の繋がりはありません」


 トシオの胸の奥が、ぎゅっと収縮した。


 あの時の情景が脳裏に浮かぶ──


 軒先に揺れる翡翠の髪留め。


 「綺麗」と呟いた、無表情な声。だが、その耳だけが、わずかに揺れていた。


 言葉にしない想いが、そこにはあった。


 表情よりも先に動く耳。感情が、そこに宿っていた。


 (……血は繋がっていない。でも……)


 「生きるために、支え合った者同士だったんですね……」


 その言葉は、誰に向けるでもなく、トシオ自身の奥底に届いていた。


 彼女の選択を責める言葉は、どこにも浮かばない。


 むしろ──それが、最も誠実な判断だったと、そう思えた。


 「トシオさん……!」


 「主様!」


 メリアたちの声が背中に響いたときには、すでに身体が動いていた。


 風の中に身を沈めるようにして、駆け出していた。


 あの家までの道を、思い出すまでもなかった。


 この足が、まっすぐそこへ向かっていた――彼女が誰かを守ろうとしている、その選択が、あまりにも正しかったから。





 道は、静かだった。


 村の外れ、他よりやや古びた家の前に立った時、トシオは風がひとつも吹いていないことに気づいた。動いているのは己の胸だけ。高鳴りすぎた鼓動が、むしろ不釣り合いに思えるほど、世界が静まり返っていた。 村の外れにあるその家は、まるで時間の外側に置かれているかのように、ひっそりと沈黙していた。


 トシオは息を整えるでもなく、その家の前に立ち尽くした。


 木組みの扉。土壁。干からびた草花の植え台。小さな足跡が、泥の縁に残っている。村の子か、それとも彼女か。どちらでもいい。ただ、確かにここに、誰かが生きているという気配があった。


 トシオは扉の前で立ち止まり、手をかけかけて、止めた。


 扉の奥から、声が聞こえる。


 「……行きなさい、クーナ。お願い、逃げて……」


 年老いたかすれた女の声。泣きも叫びもしない。だが、命を終わらせる覚悟だけが、音になって伝わってくる。


 「嫌。私は、行かない」


 静かな声が返った。声は淡々としていたが、その一言には、明らかに震えがあった。


 「お前は、まだ若いの。生きなきゃいけない。お願いよ、クーナ……」


 「一緒に居るって約束した……どこにも……行かない」


 トシオは思わず、扉に近づいた。


 ――が、手は伸ばさなかった。


 耳を澄ませる。その先にあるのは、“人の情”だった。


 言葉にせず、表情にも出さない少女。だが今、この家の中で確かに声を上げていた。


 ──あの耳は、揺れている。


 かすかに、けれど確かに。誰にも届かない場所で、誰かを想うために。


 あのときも、そうだった。


 翡翠色の髪留めを見ていた横顔。


 「綺麗」とだけ呟き、耳がぴくりと跳ねた。


 その一瞬が、忘れかけていた光景を、再び引き戻す。


 トシオの視界に、違う少女の後ろ姿が重なった。


 朝の洗面台――


 『パパ、もうちょっと優しくしてよ』


 文句を言いつつも、娘は髪を結ばれることを拒まなかった。


 ひどく不器用な結び目。それでも、笑っていた。


 『痛い~……でもありがとう、パパ』


 たった一言。たった一度きりだったのかもしれない。それでも、今でも胸に残っているのは、その言葉だけだった。


 最後に交わした会話も、最後に向けられた視線も、思い出せない。だが、幼いあの子が微笑んでいた光景だけは、きれいなまま残っていた。


 トシオは深く、静かに息を吐いた。


 この扉を開けた先で、何を言えるのかは分からない。だが、彼は知っていた。


 誰かを想って声を上げている者が、すぐそこにいる。その声に応えたいと思うのは、理由が必要なことではない。


 クーナは娘ではない。けれど──


 (難儀なものですね、父親というものは……)


 目を閉じ、深く、ひとつ息を吸った。


 何も語らないあの耳が、今も揺れている気がした。


 ──だから行く。理由はそれだけで、十分だった。

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