第11話 だから持っていきたくなかったんですよ……

 朝は、静かにやってきた。


 いや──やってきたというより、「入り込まれていた」と言った方が正確かもしれない。


 トシオは、かすかな寝返りの反動で目を覚ました。布団の温もりが、異様に暖かい。


 というか、左右からの圧が強い。やや密度が高い。重い。


 ……なぜか、右に柔らかさ。左に柔らかさ。全方向、ややしっとり。


 視線をずらすと、月光色の髪。反対側には栗毛色の寝ぐせ。


 目を開けた二人のハイエルフ──アルウェンとミラが、当たり前の顔で、


 「おはようございます、主様」


 「おはようございます、トシオ様」


 笑顔だった。


 (……はい、ええと……あれ?)


 見慣れた拠点の天井。見慣れた寝具の中。だが、明らかに「知らない配置」。


 とても自然に、極めて当然のように、彼女たちは布団から起き上がる──裸で。


 トシオは、数秒間、思考という機能を失った。


 「朝食、作ってきますね」


 ミラが軽やかに言って、すっと立ち上がる。


 風のように部屋を出ていった。


 ……風のように、というか、そのままの姿で。


 「アルウェンさん、あの……さ、寒くないのですか……?」


 「いえ?この部屋、とても暖かくて……つい」


 昨日、試しに設置してみた“魔力温度調整装置”、通称エアコンもどき。


 彼女たちの部屋にも設置されておらず、結果として、温を求めての侵入──いや、移住──が発生していたらしい。


 トシオはそっと目を伏せ、毛布の端を握りしめて、静かに誓った。


 (……早急に……皆の部屋にも……つけようと思います……はい……)


 




 


 朝食の準備を終えたミラの「焼けましたよー」の声とともに、机に並ぶのは――豪華な肉と、芋と、パン。


 しかし、トシオの目に映っていたのは食卓ではない。帳面である。


 (……これは、完全に赤字です……)


 冷蔵箱に詰まった食材、布、釘、炭、魔力制御板、部品の数々──。


 便利になった代わりに、支出も増えた。素材の在庫も底を突きかけている。


 火加減を調整していた彼に、アルウェンが心配そうな声をかけた。


 「トシオ様、ディアルガの素材──鱗、牙、水晶核──あれら、王国では非常に高値で取引されております」


 「……えっ?」


 「以前、お忍びで行った王都の市場で見かけたことがあります。鱗は一枚二十クラウン、水晶核は……」


 「二十クラウン……!?」


 炙っていたパンが派手に焦げた。


 「ば、馬車二十台分……それ、もっと早く言っていただければ……!」


 「ええ、でも、主様はあれを“趣味の収集”だと……」


 「ええ!?ち、違いますよ!? 私はただ、あの、その、資源活用の一環として……!(あんなもの村に持ち込んだら何を言われるか……)」


 トシオは額を押さえ、深くため息をついた。


 「いえ、……これはもう一度、村に……売りに行くしかありませんね……現状打破には致し方ありません、腹をくくらねば」


 その言葉を漏らした瞬間だった。


 「では、私も同行いたします」


 「はい?」


 アルウェンが手を胸に当て、静かに言った。


 「市の実情を知りたく……それに、主様に何かあってもいけませんので、ぜひお供を」


 (……いつの間に“主様”呼びが標準化したのでしょうか……)


 眉間を押さえる指に力が入る。


 「俺も行くぜ、主様っ!」


 元気な声とともに現れたのは、健康的に日焼けした褐色の肌と、えらくラフな装束のハイエルフ。


 男言葉、威勢よし、肩出し上等。


 「素手の喧嘩ならだれにも負けないっス。道中の安全、任せてくださいっ!」


 そのまま勝手に食料袋を背負いだすシャナ。


(いったい何と喧嘩するつもりなんでしょうね……いや聞きませんけど、ええ……)


 「リーファも行きますっ!」


 「えっ、貴女方も……」


 誰も返事はしない。


 それぞれのタイミングで、それぞれの武器や道具袋を手に取る。


 すでに準備は始まっていた。


 (……これ、もしや断れる流れでは……ない?)


 帳面を閉じるトシオの手が、わずかに震えていた。


 「では、荷の整理と荷車の手配を……あ、主様はゆっくり朝食を……みんな、偽装用にエルフの装いを忘れずに、それと――」


 「いや、待って、話を……」


 「主様は座ってて!」


 「あ、はい……」


 なぜか主従関係の逆転が静かに進行している気がする朝だった。


 








 ──ペオル村ギルド支部は今日も、静かに日常を保っていた。


 ……ほんの数分前までは。


 「お、お預かり……いたしますね……?」


 受付に立つメリアが、かすかに震えながら両手で受け取ったのは──


 “黒い鱗”である。


 無造作に革袋から転がり出たそれは、光を受けるたびに漆黒の波紋を返し、まるで“見る者の顔を映す鏡”のようだった。


 「……あの、トシオさん」


 「はい?」


 「い、一応確認したいのですが……これ、なんですか……?」


 メリアが眉をひくつかせ、小刻みに震える指を鱗に向ける。


「ええと……ディアルガ、だと、聴いております……はい」


 瞬間、空気が割れた。


 「こここ、これ……森の暴虐者、ディ、ディアルガ……!」


 震える声とともに、メリアが鱗を落としそうになる。慌てて受け皿に滑り込ませた彼女は、額に冷や汗を浮かべたまま、呆然とその鱗を見つめ続けた。


 周囲の冒険者たちがざわめく。椅子を引く音、スプーンが皿に当たる音、誰かの飲みかけの酒が床に零れる音──空間が、一気に張り詰めた。


 「ディアルガだと!?貸してみろ!」


 低く響く声に場が震える。ギルド支部長、ガラハムが席を蹴って歩み寄ってきた。受け取った鱗を無言で睨みつけ、眉間の皺がさらに深く刻まれていく。


 「ヒゲ君!君はまた何て物……待て……メリア。この黒鱗の古傷……」


 「……!」


 「至急、鑑定魔法の用意を!」


 「じゅ、準備しますっ!」


 メリアが奥の保管棚から触媒と巻物を抱えて駆け戻る。その顔色は紙のように白く、手元の道具がカチャカチャと鳴っているのは、震えているからか、急いでいるからか、たぶん両方だった。


 トシオはといえば──


 「ええと、あの……たまたま森で、転がっていたものでして……その、もしかしてこけたのかも?二足歩行の恐竜はこけると大変だとN〇Kで見た記憶が……」


 言葉を挟むタイミングが見つからない。


 挟んだところで、誰も聞いていない。


 メリアが深呼吸を一つ。巻物を広げ、詠唱を始める。触媒が淡い光を放ち、鱗の表面に魔力の光が滑るように這っていく。


 ──詠唱は長い。だが、それは逆に“本物”を前提とした慎重さでもあった。


 やがて、術式が解かれる。


 「……識別……完了」


 メリアの声が、ひときわ低く、場に落ちた。


 「……十年前、王国討伐隊を壊滅させた“宵闇の暴虐者”──希少亜種。黒鱗個体、ネームドモンスター《ディアロクス=ニグレア》……。通称、“闇の咆哮”。間違い……ありません」


 時間が、止まった。


 次の瞬間。


 「え……?ええええぇっ!!?」


 「な、ネームド!?まじかよ!」


 「王国軍でも対応できなかったやつじゃねぇか!」


 「何人パーティで倒したって!?レイド級じゃねぇか!」


 「てか、誰だ!?誰がやったんだ!?」


 騒然、混乱、絶叫。ギルド内の空気は完全に沸騰した。


 「トシオ様……!流石です!凄いです!」


 ミラがぱちぱちと目を瞬かせ、シャナは「ね、ネームド!?」と混乱しかけていた。


 唯一、静かだったのはアルウェンだった。だが、すぐに小さく呟いた。


 「……あの時、確かに討たれたのはディアルガ……のはず。ですが……稀少個体ですか……」


 その視線がトシオに向けられる。まるで、“あなた、本当に何者ですか”という問いが瞳に浮かんでいた。


 「ね、ネーム……?いえ、それより私はこれを道端で拾いましてね……あの、その、神のご加護というか……って、あの……お聞きですか?」


 聞いていない。


 メリアは半ば意識が飛びかけており、ガラハムは腕を組んだまま「ん~……」と唸り声をあげていた。


 冒険者たちは、もう誰かが勝手に“討伐パーティ編成の人数を想定”し、“裏のギルドに所属している説”を囁き、“エルフの精鋭部隊だろう”と盛り上がり始めていた。


 「……生活費の足しになればと思って……」


 小声でつぶやいたトシオの言葉が、かろうじて空間に浮かんだ直後だった。


 「へっ、見ろよ見ろよ、やっぱそういうことだろ。エルフたちが討伐したんだよ。間違いねぇって」


 誰かの声が、その場の空気をさらに搔き乱した。


 酒場奥の一角、煽るように脚を組んだ男が、歪んだ笑みを浮かべていた。二人の仲間らしき冒険者と共に、椅子にもたれながら視線だけはギラギラとこちらを向けている。


 (……あ、これはいつぞやの……)


 トシオの記憶が鈍く疼いた。あの態度、あの目つき──以前、ギルドで騒ぎを起こしたあのならず者たちである。


 男はにやりと唇を歪めた。


 「エルフってのはよ、神器を操る精鋭が多いって話だぜ?それがあんな美人揃いで、妙に庇ってんだ。おかしいと思わなかったか? なぁ?」


 「……こんな髭面の雑魚がネームド倒せるわけねぇじゃねぇかよ。横取りしたに決まってんだろ」


 「へへ、まさか自作自演まで持ち出すとはなぁ……演出派ってやつか?」


 口々に吐かれる悪意混じりの言葉に、周囲の冒険者たちもざわつき始める。空気が、今度は別の種類の不穏さを孕んでいた。


 トシオはというと──


 「そ、そう!そうなんです!皆さんが討伐を、その……私はただ後ろで……あの、その、手伝い程度で……」


 反射的に頷きかけた、その瞬間。


 「……トシオ様が討伐したのを、この目でしかと見ました」


 ぴたり、と空気が止まった。


 声の主は、アルウェンであった。


 静かで、澄んでいて、けれど絶対に否定を許さない声音だった。


「そうそう!あの時の主様めちゃくちゃかっこよかったよな!」


「うんうん!」


 続くハイエルフの少女たち。


「……え? あの……あなた達、い、今は空気をですね……」


 トシオが恐る恐る振り返ると、アルウェンは小首を傾げていた。


 「空気がどうかしましたか?確かにここの空気は少々濁っておりますが」


 完全にキョトンとしている。天然というより、異文化的すれ違いの極致だった。


 「いや、あの、そういう“空気”じゃなくてですね……」


 説明は最後まで届かない。


 「ふん、何が“しかと見ました”だ。お前ら、あの髭に騙されてんだよ。いや──その顔、まさか“飼われてる”のか?」


 言葉が、一瞬で場を凍らせた。


 「……エルフ共が、人族の言いなりになってるなんて、聞いて呆れるぜ。しかも、女だけ連れてやがってよぉ……」


 口角を吊り上げるその男の声は、誰がどう聞いても、侮辱と嘲笑そのものだった。


 (……ああ、これは……これはまずい……)


 トシオは目の前の空気が、言葉ではなく“刃物”で切り替わったような感覚に、自然と背筋を伸ばしていた。


 そのときだった。


 隣で布の擦れる音がした。微かで、しかし耳の奥を撫でるような気配。反射的に視線を動かすよりも早く、空気が張り詰めた。


 「我々の身も心も、トシオ様のもの……しかし貴様の様な下衆にいちいち言われる筋合いはない」


 静かな、けれど冷たく凍てついた声音。


 男が「なんだと?」と口を動かしかけた、その瞬間。


 ──チャキリ、と乾いた音が響いた。


 アルウェンの手には既に剣があった。


 否、それを「抜いた」瞬間は誰も見ていない。気がついたときには、鋭い銀の刃が、男の喉元に突きつけられていた。


 まるで、言葉よりも先に“結論”が振るわれたかのようだった。


 「──その言葉、貴様の舌ごと切り落としてくれる」


 アルウェンの声は感情を感じさせない。それがかえって、場を支配していた。


 男は喉を押さえることもできず、ただ目をひん剥いたまま、じりじりと後退しようとするも──動けない。喉先に突きつけられた刃が、その動作すら許さない。


 剣の反射で、彼の顔面だけがやけに白く光っていた。


 冒険者たちがざわめくこともできず、酒場の隅で倒れた椅子がカランと音を立てる。


 仲間と思しき冒険者二人も、手が腰の剣にかかることはなかった。いや、かける気配すら出せない。場を支配する緊張に縛られている。


 トシオはというと、首を縮め、なるべく目立たないようにその場から魂だけを後ろに滑らせようとしていた。なお物理的には一歩も動いていない。


 (そ、そろそろ誰か止めていただけませんか……!?)


 思った瞬間だった。


 「──ギルド内での抜刀は禁止です!」


 その声が、空間を真っ二つに切り裂いた。


 ギルドの受付嬢、メリルである。


 場に満ちていた“刃”の空気を断ち切ったのは、甲高くもなく、低すぎもせず、ちょうどよい高さで、ちょうどよい強さの声だった。


 剣先と男との隙間に、静かに一歩踏み込むメリル。


 「……剣をお納めください。そこのエルフ様」


 言葉は丁寧だったが、その表情には明らかな規律の厳しさがあった。


 普段なら凛とした眼差しに映る清廉さが、今は張り詰めた糸のようで──トシオは(これはこれで怖い)と、密かに震えた。


 アルウェンは、しばしメリルを見つめ、それから静かに剣を引いた。


 刃が鞘に戻る音は、まるで鐘の音のように周囲の緊張を解いた。


 「……心得ました。ふん、命拾いしたな」


 たったそれだけの言葉と動作で、先ほどまで命のやり取りすら想起された場面が、すっと幕を引いた。


 男はその場にへたり込んだまま、何も言えず、何もできず、ただ喉を押さえて震えていた。


 仲間の冒険者たちは、剣の柄から手を放すことすらせず、じっと動かずに立っていた。


 「……今後、心ない発言はお控えください。これはギルドとしての忠告です」


 メリルの一言が落ちたとき、ようやく場が空気を取り戻しはじめた。


 ──と、思った矢先。


 ギルドの扉が、荒々しく、派手に開け放たれた。


 「へ、辺境伯より緊急の伝令です!」


 風を巻き込む勢いで飛び込んできたのは、若いギルド職員だった。肩で息をしながら、くしゃくしゃになった伝書を掲げている。


 「メリアさんっ!急報です!」


 呼びかけられたメリアは、抜刀騒動の余波がまだ残る中、何とか気を取り直して伝書を受け取った。


 封を破く音。視線が一斉に彼女の指先に注がれる。紙を開いた彼女の顔色が、見る間に蒼白へと変わっていった。


 「……これは……」


 手がかすかに震え、伝書の文を追いながら、メリアの口元が固まる。


 「どうした、メリア?」


 ガラハムが低く問いかける。その声には、すでに“ただならぬ何か”を察した緊張が滲んでいた。


 やがて、メリアが声を振り絞る。


 「……王都軍の盗賊討伐から……逃れた一団が……ペオル村方面に向かっているとのことです……」


 場内が静まり返る。


 「その……残党数、およそ三百……!」


 場内に重たい沈黙が落ちる。


 誰もが顔を見合わせたまま、言葉を失っていた。


 つい先ほどまで、剣と罵声と騒ぎで沸騰していた空間に、別種の緊迫が忍び込む。


 (……三百って……魔物ではなく、人……ですよね?)


 トシオが思わず目を伏せたそのとき──


 「ペオル村に向かっている……?」


 ようやくガラハムが呟く。かすれた声には、怒りも呆れもない。ただ、ひたすら現実を受け入れる者の、重たい声音だった。


 「……まずいな。この時期は冒険者も閑散期だってのに……」


 ガラハムは唇を噛みながら、壁際の地図へと歩み寄った。


 広げられた地図の端には、小さな赤い印──《ペオル村》の名が見える。


 そこに伸びる線を、太い指先がゆっくりとなぞっていく。


 「報告によると奴らはこの辺り……三百……。補給抜きでも強行軍で来られる距離だな……」


 指が止まる。


 トシオはごくりと喉を鳴らした。


 (……い、今すぐ逃げるべきでは……?)


 控えめな疑問を心中で唱えかけたが、口には出さなかった。


 メリアの手の震えも、ガラハムの顔色も、それを許す空気ではなかったからだ。


 「この村が標的……年寄り連中も多い。皆を連れて非難……いや、となれば、守りは――」


 ガラハムの言葉が途切れる。


 トシオは、心のなかでそっと呟いた。


(盗賊と言えど相手は人間……)


 そして、もう一度だけ──深く、静かに、心の中で漏らした。


 (はぁ……ほんとうに……なんでこうなるんですかね……)

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