第13話 戦火の狼煙
ギルドの前では、すでに馬車の列は消えていた。
広場には誰もおらず、地面に残された車輪の轍と、積み忘れられた麻袋が、去っていった時間を示している。
風も止んでいた。
陽射しだけが、無人の大地に色もなく降りていた。
「……主様?」
振り返ったのは、シャナだった。
荷運びの最中か、肩に土埃のついた布を背負い、片手に手斧を握っている。
声に、警戒も驚きもなかった。ただ、「帰ってきたのか」とでも言うような静けさ。
「主様、戻るってことは──」
トシオは、小さく手を上げてそれを遮った。
その動作には迷いがなかった。
「戻るのではありません。……立つのです」
その声が、自分のものだとは思えなかった。
だが確かに、誰にも命じられていない。
誰に認められたわけでもない。
それでもこの地に立つと決めたのは、自分自身だった。
「私は、この村を、彼女を、見捨てることができません」
シャナが、わずかに目を見開いた。
そして──口元を緩め、肩の手斧を担ぎ上げた。
「もう、主様ったら……やる気っスね」
駆け寄ってきたリーファは無言で頷き、まっすぐにこちらを見つめていた。
アルウェンがギルドの柱の陰から現れる。
短く息を吐き、ひとつ頷いた。
ギルドの扉が、静かに軋んで開いた。
薄暗い室内。
木の床には埃が舞い、壁際に置かれた荷の名残りがまだ片付かない。
メリアが、ガラハムと並んで立っていた。
トシオの姿を見て、メリアの目が大きく揺れる。
「……ガラハムさん、村には……十数人ほど、取り残されています」
重い報告。
それに、誰も何も返さなかった。
トシオは静かに歩み寄り、正面から彼らを見据える。
「私は残ります……」
その一言に、メリアが息を呑む。
「私は……あの家にいた彼女を……いえ、村の住人を、見捨てることなど、できません」
トシオの目は、誰も見ていなかった。
それでも、その場にいた誰もが分かっていた。
──これは、彼のすべてを懸けた言葉だと。
ガラハムが、無言で肩の外套を揺らした。
「……分かったよ。ヒゲ君。君がそう言うなら、俺たちは止めない」
それは諦めでも、投げ出しでもなかった。
ただ、受け取った者が手を離す時の、誠実な背中だった。
「すまんな……」
ガラハムはそう言い残し、職員たちに短く指示を飛ばしながら、ギルドを後にする。
メリアはその場に立ち尽くしたが──
「メリア、早く来い!」
ガラハムの怒声に肩を跳ねさせ、躊躇いがちに一礼して駆け出していった。
扉が閉まり、ギルドに再び、誰の声も残らなくなった。
声も、気配も、温度すら──何もかもが去った広間に、ひとときの空白が訪れた。
トシオは立ち尽くしていた。覚悟はした。けれど、その静けさは、思った以上に、心を抉った。
断ち切られた選択の余韻。
残された者としての重み。
そのすべてが、ただひとつ、彼の両肩にのしかかっていた。
が――ふと、空気が揺れた。
足音。
その熱が、再びかすかな足音を連れてくる。
乾いた板の上を踏みしめる音が、三つ。
どれも軽やかだが、迷いのない足取りだった。
振り返った先に、三人の少女が立っていた。
見覚えがある。あのとき、ギルドの隅で最後まで避難を手伝っていた三人──
名も知らない、けれど逃げなかった者たちだ。
そのうちのひとりが、静かに前へと進み出た。
背筋はすらりと伸び、歩みに滲む気配は穏やかでありながら、どこか張り詰めている。
腰には細身の刀。高く結われた漆黒の髪が揺れ、額には──
……角。
小ぶりだが滑らかで、螺旋を描くような一本の角が、彼女の額から真っ直ぐに伸びていた。
飾りには見えない。生まれながらのものだろう。
それが彼女の異質さを際立たせていた。
だが、それ以上に目を引いたのは、その“凛とした美しさ”だった。
強さの中に、静けさがある。
剣を帯びながらも、闘志を表に出さない。
その立ち姿は、まるで信念そのものを象ったようだった。
彼女は深く頭を下げた。
「……すまぬが、話は聴かせて頂いた」
その声は凛と澄んでいた。
礼を重んじる東方の響き。その場に流れる空気すら、引き締める力があった。
「その志、拙者、確かに受け取り申した。されば、拙者もまた──この剣を共に振るうまで」
言葉に嘘はないと分る真っすぐな声音。それはまるで誓いのようで、剣のように迷いがなかった。
トシオは息を呑む。
「共に……? あなたは、一体──」
名乗りを促そうとしたその瞬間、奥から跳ねるような声が空気を弾いた。
「ちょ、マユ!? は!? あんた正気!? いやいやいやいや、ガチで死んじゃうって!」
明るい声と共に現れた少女がひとり。金に近い髪色、肩に掛けた鞄からはパン生地用の木へらや金串が覗いている。
「ちょっ」
騒がしいほどの存在感に、トシオは思わず一歩下がる。
「はぁ〜……もう、絶対こうなると思ってたしぃ……マジ最悪なんですけど……」
そう言って肩をすくめる彼女の背後から、ふわりと羽音が舞う。
「ふえぇ……また始まっちゃったです……戦うって決めると、止まんないのですよね、マユさんは……」
現れたのは、背中に薄い羽を生やした小柄な少女だった。
(よ、妖精……?これまたファンタジーな……って異世界でしたね)
不安げに身を縮めてはいるが、その手にはしっかりと荷袋が握られていた。
トシオは再び訊ねる。
「いえ……ですから、あなたたちは……?」
だがまたもや返答はなく、最初の少女──“マユ”と呼ばれた黒髪の剣士が一歩前へ出る。
「ぬしらは、戻るがよい。拙者がこの道を選んだは、誰に命ぜられたわけでもない。己の心が、そう在れと言うゆえ」
その言葉が、トシオの胸に深く刺さった。それは“義務”ではなく“誓い”だ。
誰かの命令ではない。ただ、在るべき姿を、自ら選んでそこに立っている。
(こんな年若い娘さんに改めて悟らされるとは……いやはや何とも、恐縮でございます……)
「……はぁ!?……あ~もう、分かった!行くよアタシも!付き合うってば!」
金髪の少女が叫びながら肩をすくめ、勢いよく両手を広げる。
「分かってたしぃ……どうせマユってばこういうの放っとけないしぃ……はぁ、もう、マジで最悪……」
「ふえぇ……やっぱそうなると思ったです……置いてかれるの、イヤですし……うへへ……道具も持ってきてますし……準備は……ばっちり、です……」
三者三様の口調とテンション。それでも、言葉の芯には全員が共通していた──
「逃げない」という意志。戦う覚悟を持つ者たち。何の義理もないはずの場所に、自ら残ることを選んだ者たち。
その姿を見て、剣士の少女は小さく呟いた。
「……すまぬ、ぬしら。だが、拙者は……心強い」
ふと、柱の影から気配が現れた。
「貴様ら、我が主が困っているだろう。いい加減、名乗らぬか」
アルウェンだった。
冷静なようで、その声音には焦れたような苛立ちが滲んでいた。
「っ……し、失礼仕った!」
黒髪の少女が背筋を正し、再び一礼する。
「ぬしの言葉に動かされた一人──ヒノエ・マユと申す。剣の道にて、少しばかり心得がある」
続いて、金髪の少女が肩をすくめながら言った。
「はぁ……てなわけで、ニナ・ロッソでーす! 見ての通り人族だよ。普段はパンとか焼いてま~す! でもまあ、戦えるっちゃ戦えるから、任せといて~」
最後に、羽根のついた少女が恥ずかしげに前へ出て、ぽそっと呟く。
「ね、ネネト・オルフェ、妖精族です……発酵と……支援魔法と……あと、菌たちの面倒とか……えへへ……よろしく……です……」
その紹介に、シャナが明るく尋ねる。
「つまりお前たちも、一緒に戦ってくれるってことだよな?」
マユが、凛とした声で応じる。
「無論だ。武士に、二言はない」
「ってマユが言ってるんで~……もう、ほんとどうかしてる……」
ニナが苦笑し、ネネトが小声で囁く。
「ど、ドンマイ……です、ニナちゃん……でも、こうなるって分かってた……です……」
リーファが嬉しそうに頷いて言った。
「味方が増えましたよ、主様!」
「え、ええ……」
トシオは若干不安げに頷いたが、その声音には、かすかな安堵の色も混じっていた。
「騒がしい連中ではありますが……まあ、今は贅沢を言える立場でもありません」
アルウェンが、ため息混じりに言った
「そう邪見にしないでよ〜、これでも結構、頼りになるんだからさ〜?」
ニナが笑いながら拳を軽く突き上げる。
「……では、戦うのなら。戦術を、組みましょう」
アルウェンが前へ出る。
「よろしいですね、主様?」
──その問いに、彼は強く、深く頷いた。
火はまだ消えていなかった。
むしろ今、この場所に、確かに灯されたのだ。
守るべき者たちと共にある希望の焔が──
「……では、戦術を組みましょう」
アルウェンが静かに言い、手元の巻物を広げた。
その布地には、簡素だが正確な地形が描かれている。ペオル村周辺──特に、南東の山肌に沿う崖道が大きく占めていた。
「この崖道。以前から斥候の報告にありました……ここです」
細指が示したのは、南東の尾根。わずかに草が剥げ、土肌が露出した斜面だった。
「岩盤が脆い。上から崩せば、最低でも数刻は足止めできます。砲術や火薬がない分、罠に転用できれば……先頭集団を分断できるでしょう」
その言葉に、ヒノエが無言で地図を覗き込む。
「……ふむ、地の利を活かす、か。悪くない」
淡々とした一言には、経験に裏打ちされた確信が宿っていた。その表情は厳しくも、美しかった。
「じゃーアタシ、先に潜って様子見てくるわ」
唐突に挙手したのはニナだった。ふざけた口調とは裏腹に、目は真剣だった。
「隠密は得意。崖んとこまで行けるし、罠に使えそうな物とか探してくる~。たぶん、派手にやれると思うよ!」
「ニナちゃん、まって……」
ネネトが指をぴこぴこと震わせながら、ぽそりと口を挟む。
「ハッ……この湿気……菌、めっちゃ元気です……うへへ……崖の崩れ口、滑り菌にすれば“ぷちょっ”て落ちてくれるかもです……うへ、うへへへへ……」
「あの……本当に、大丈夫でしょうか……」
トシオは思わず呟いてしまった。羽をパタパタさせながら駆けていくネネトの小さな背中に、予測不能の何かを感じる。
だが、奇妙なほどに不安ではなかった。
「……よし。シャナ、リーファは罠の設置と偽装の手助けを。私は主様と共に迎撃地点へ向かいます」
アルウェンが静かに命を下す。
「なれば、我も戦陣へお供仕ろう」
ヒノエが言い、刀の柄に手を置いた。その姿に、空気がまたひとつ引き締まる。
誰もが、戦いの訪れを感じ取っていた。
トシオは、名刺ホルダーをゆっくりと取り出した。
革の手触りが、指先に冷たい。
「……戦えるかは、わかりません」
ひどく静かな声だった。けれど、自分の言葉で足を踏み出すその一歩は、確かに重かった。
「ですが──守るもののためならば……」
口にした瞬間、胸の奥に何かが疼いた。
──家族の顔が、ふと脳裏をよぎる。
あの裏切り。毒と憎しみと、嘘で塗り固められた日々。
でも、それでも。長年、支え合って生きてきた。笑った日も、あったはずだ。
(それでも……長年、付き添ったんです。家族の時も……確かにあったんです……)
誰に言うでもなく、心の奥で、ぽつりと吐露した。
「行きましょう」
アルウェンの一言に、ヒノエが無言で頷いた。
三人はギルドの扉をくぐり抜け、まだ白んだばかりの朝の空気へと身を投じた。
湿り気を含んだ風が、頬を撫でる。
村の通りは、もう静かだった。避難が完了した家々は戸が閉ざされ、どこからも声ひとつ聞こえない。足音だけが、土を踏む乾いた音となって残る。
歩みは速かったが、焦りではない。一歩一歩が、確かに戦いに向かうものだった。
途中、折れかけた柵に、小さな木の看板がぶら下がっていた。
風に揺れるたび、軋む音を立てて、読めるかどうかの擦れた文字が視界に入る。
「安全第一 狩りは計画的に」
──思わず、足が止まった。
ほんの一言。それだけの注意喚起。だが、今となってはあまりに遠い。
(……こんな当たり前の一言すら、もう誰にも届かないんですね……)
まるで“日常”というものが、誰の許可もなく、どこかに連れ去られてしまったかのようだった。
そのありふれた看板が、かえって胸に重くのしかかる。
ここには確かに人がいた。笑って、暮らして、狩りに出て、そして──今はいない。
ただの風景だったはずの一幕が、トシオには、痛いほど重かった。
谷へ続く小道に差しかかる頃、日差しは傾き始めていたが、林の影は濃く、空気はどこか湿り気を帯びていた。
風が止み、足元で落ち葉がかさりと鳴った。谷の奥から、小さく水の流れる音が聞こえてくる。そして、ふと風向きが変わった。
鼻腔をくすぐるのは、土と草の混じった匂い。まるで、誰かがこの先で地面を掘り返したかのような──そんな、生々しい気配。
やがて、視界がゆるやかに開けてくる。
そこは、谷を望む開けた丘の上。
斜面に沿って組まれた石の縁。過去の見張り台の跡だろうか。ここが、迎撃の起点──戦いを迎え撃つ者たちの陣地だった。
遠く崖口を臨むと、薄靄に霞んだ木々がわずかにざわついていた。
誰の姿も見えない。だが、確かに“そこにいる”気配がある。
ニナ。ネネト。シャナ。リーファ。
あの子たちが、すでに仕掛けを施している。そう信じることしかできなかった。
風が変わった。
それは、言葉にできない一種の“兆し”だった。
戦場が、目を覚まそうとしている。
その瞬間だった。
どん、と。地の奥から突き上げるような衝撃が走った。
遠めでも分かる。崖の一角が、音を立てて崩れ始める。
揺れる木々。落ちる岩。響き渡る土砂の音。
そして──その上を裂いて、甲高い鏑矢の音が空を走った。
「……合図です」
アルウェンの声が、淡く張り詰めていた空気に静かに注がれた。
剣を抜く音が、耳の奥まで染み込んでくる。
それは刃である以上に、“意志”の音だった。
彼女の口元が開く。
「《我が名は守人。地の理を識り、風の声を集め、主のために力を束ねん──“霊環の盾”》」
詠唱が発せられた瞬間、足元に淡い紋が広がる。
それはまるで、大地そのものが主を守らんと応じたように、静かに光を放っていた。
「……拙者も、参る」
ヒノエ・マユの声音は低く、しかし澄んでいた。
刀に添えた手が、ごく自然に柄を押し出す。その瞬間──風が止まった。
かしゃり、と。金属が鞘を裂く音が、静寂を断ち切る。
「《緋閃流・早影──
刃が抜かれたと同時に、地を這うような紋が発動する。彼女の足元に朱の光が走り、紋様が瞬時に脚部へと食い込むように展開した。
次の刹那──
風が“逆巻いた”。
足元の草が一斉になぎ倒され、土が吹き飛ぶ。彼女の身体を中心に、まるで空間そのものが跳ね上がるような圧が広がった。
右脚、左脚。膝から爪先へ。
鬼人の血に応じて練られた戦技の“陣”が、彼女の動きを獣のごとく鋭く変えていく。
瞳に、光が灯る。
「斬り結ぶのに、理由は要らぬ。拙者の剣は、ただ“道”を開くために──振るうのみ!」
風が鳴った。
いや、彼女自身が、吹き荒ぶ風となった。
そして、呼応するかのように、トシオの胸元で──名刺ホルダーが、震えた。
封がひとつ、静かに外れる。
光がにじみ出る。封の奥から、一枚の名刺がふわりと浮かび上がった。
見たことのない職業。けれど──どこかで感じたことがある気がした。懐かしさと、確かさと、不思議な安堵が、同時に胸を打つ。
名刺を掌に受けながら、トシオは小さく、けれど確かに呟いた。
「……これは……」
そして、もう一度。
「これがこの世界の現実なら──この力、せめて誰かを生かすために……使わせていただきます」
風が、静かに吹き抜けた。
戦いは、今、始まった。
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