第38話「善行なんて、してなくても」

「こっち、どうです?」


駿が指差したのは、駅近くの古びた喫茶店。レトロなフォントで「COFFEE & TEA」と書かれた看板が、雨に滲んで揺れていた。


「……ここ、入ったことないです」


「僕もないです。だから、入りましょう」


そんなノリで入っていく国民的アイドル、軽率がすぎる。


とはいえ、雨は強まるばかり。沙織も観念して後に続いた。


中は思いのほか落ち着いていて、昭和の空気が残っている。BGMはカーペンターズ。天井から吊るされた扇風機が時折カタカタと鳴る。


「……すごく落ち着きますね」


「わかる。こういうとこ、好きなんです」


駿がメニューを見ながら言う。


「サンドイッチとミルクセーキ……て、セーキって何?」


「ミルクセーキ知らないんですか?」


「飲んだことないです」


「……じゃあそれ、頼みましょう」


「えっ、僕がですか?」


「当然です。人生の経験値、広げてください」


いつの間にか、こんなふうに冗談を言い合えるようになったのが、不思議だ。


二人でオーダーを済ませ、木のテーブル越しに座る。


「ここの椅子、ちょっと沈みますね」


「それ、昭和あるあるじゃないですか?」


「え、そうなの?」


「いや、知らないけど」


笑い合う。なんでもない会話が、こんなに心地いいなんて。


少しの沈黙の後、駿がふと顔を上げた。


「……桐谷さん」


「はい?」


「どんな経緯があったかはもちろん知りませんが、なんとなく……ずっと無理してたんじゃないかなって、思ってました」


思わず息が止まった。


「え?」


「ほら、顔に出るタイプですよね? わかりやすいっていうか」


「……やば、全部バレてたんですね」


「いや、ぜんぶはわかりませんけど。けど、いつも頑張ってる人だなって、そう見えてました」


「……そうだったんだ」


駿はコップの水を少し飲んで、優しく言った。


「もう、十分頑張ったと思いますよ」


沙織はしばらく黙って、それから小さく笑った。


「……でも、まだ誰かに優しくしたいんです。たぶん、それが私の幸せだから」


その瞬間だった。


胸の奥で、何かがふっと軽くなる音がした。


(ああ、そうか。善行なんてしなくても、優しくなれる)


《現在の数値:50/100》


変化はない。でも、それでいいと思えた。


***


ミルクセーキは、予想以上に甘かった。


「これ、飲みきれます?」


「……正直、無理かもしれないです」


「ふふ。最初はみんなそう言います」


店を出る頃には雨はほとんど止んでいて、夕方の空が滲むように茜色に染まっていた。


「……ねえ、」


沙織がぽつりと呟く。


「こうやって、ちょっとデートっぽいことして、悩みとか相談して。相手は国民的アイドルで。私は平凡以下のただのOLで。……これ、ありえる?」


「ありえてますけど?」


「いや、冷静になって考えると、ありえなさすぎて理解が追いつかないです」


「考えすぎると、たぶん無理になりますよ」


「うん、わかってる……だから、考えるのやめます」


「それが一番です」


笑ってうなずいた彼の顔を見て、思わず聞いた。


「……ていうか、春日さん。あなた、こんな町中に出没しすぎじゃない?」


「え、そうです?」


「そうです!どこにでも現れる妖精か何かですか?」


「妖精!?いやいや、そんな……」


「めっちゃ出没してますよ。しかもわりと自然に。おかしいって」


「でも、こうしてまた会えたんだから、よかったじゃないですか」


「うっ……それは、まあ、そうですけど……」


「考えすぎずに、感じたままでいいと思いますよ」


「うーん、そうですね。考えだすとキリがないので……寝ます」


「え、今?」


「いや、今は寝ませんけど!もう、心の中では布団に入りました」


そんな会話をしながら、夕暮れの道を並んで歩く。


奇跡みたいな瞬間。でも、それを“普通”にしていけたら。


ほんの少し、未来に期待してもいい気がした。

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