第3話 変容



喉の奥に、


あの甘さの記憶がある。


雨が降るたびに、


身体のどこかが──


それを探しはじめる。


たいていの雨は、ただの冷たい水にすぎない。


けれど、ごく稀に──


まるで誰かの意図が混ざったように、たった一粒だけ、異様に甘い雨がある。


舌に乗せた瞬間、


喉の奥が熱くなり、


首の裏側がぎゅっと締めつけられるような感覚に包まれる。


それが、甘い一粒。


見た目に違いはない。


音も匂いもない。


だが、舌はそれを忘れない。


一度知った感覚を、次もまた味わおうとしてしまう。


雷が落ちた場所を地面が記憶しているように、

身体が次の一撃を待ち構えている。


---


そして、あるときから気づくようになった。


雨粒だけではない。


地面に留まった雨は、


空気の匂いや、近くに落ちた木の葉、泥、埃……


そういうものを、ゆっくり少しずつ、吸い込んでいく。


何時間も、静かにそこにあり続けることで、


その水たまりは、周囲の“気配”を飲み込んで、変質していく。


言ってしまえば、発酵みたいなものかもしれない。


目には見えない。


色も匂いも、ほとんど変わらない。


けれど、確かに変化している。


熟していない果実の皮のような──


瓶の奥で静かに発酵しかけた蜜のような──


直接ではなく、鼻の奥にじわじわとまとわりついてくる、あの“甘くなる前の香り”。


それだけが、微かに立ちのぼってくる。


それが、


熟成された水たまりだった。


---


ある日、ふと思った。


もし、あの「正しい一粒」が──


この熟成された水たまりに、落ちたら。


その瞬間に、何かが完成する。


完璧な甘さが。


ただ甘いだけじゃない。


一度でも味わえば、


それ以前の人生すべてが、無味だったと気づいてしまうような──


比べるもののない、極点の甘さ。


おそらく、あの女が這っていたのは、


そういう場所だったのだ。


単なる濁り水ではない。


時間に寝かされ、空気に熟され、


誰にも気づかれないまま、


じわじわと“気配”を濃くしていく。


そうして、ようやく形を得た水たまりに、


奇跡の“一粒”が落ちる──


その瞬間だけ現れる。


“特上の蜜の壺”。


それを知ってしまった者は、


もう、他の雨を甘いと思えない。


---


女は──


知ってしまったのだろう。


はじめは、おそらく、自分と同じだった。


雨の中、


たまたま唇に触れた一粒に、


奇妙な甘さを感じて、


ほんの少しだけ、舌で確かめてみた。


その程度のことだったはずだ。


けれど、ある日、


その水たまりの匂いに惹かれて、


とうとう──舐めてしまった。


口に触れた瞬間、


舌の奥から、喉の管、鼻腔の裏側まで、


体の中の“味を感じる場所”という場所が、全部震える。


ねっとりと、痺れるように。


痙攣に似た快楽が、


舌から、じゅわって滲んでくる。


その瞬間を味わった身体は、


もう、“それ以外”を甘いとは感じられなくなる。


今まで生きてきた人生を否定される、それくらいの甘さを味わって


雨のたびに、身体の奥が疼きはじめるようになる。


それ以降、彼女は考えて行動しているのではない。


舌が、鼻が、喉が……彼女を動かしている。


**あの味を、もう一度。**


ぺちゃ……


ぺちゃ……ぺちゃ……


---


その日も雨は降り続いていた。


遠くで自転車のベルが鳴り、


車の水をはねる音がかすかに聞こえてくる。


制服姿の女子高生が、商店街の裏手を走っている。


「ちょっと待ってって、靴、滑るから!」 「やば、もう最悪〜〜……!」


駐車場の脇を通りかかったとき、

1人がぴたりと足を止めた。


「……え、ちょっと……あれ、なに?」


もう1人も、歩みを止める。


しばらくの沈黙。


濡れたアスファルトの上に、

黒い服を着た男が這いつくばっていた。


顔は見えない。

髪も、服も、全身びしょ濡れで地面に貼りついていた。

両手は前に伸び、指先が泥の中に沈んでいる。


その口元が──

ゆっくり、なめらかに、アスファルトの濡れた面を這う。


舌が、地面を撫でるように、音を立てて動いていた。


ぺちゃ……

ぺちゃ……ぺちゃ……


「見ちゃだめ。」


「……うん。」


そう言った彼女自身が、自分でもその理由を説明できなかった。


ただ、


目を逸らさなければ、自分もいつか同じことをする気がした。


2人は口をつぐんだまま、小走りでその場を離れていった。

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甘粒を舐める女 @sasasa6

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