第2話 誘惑



雨の日になるたび、耳の奥にあの音が戻ってくるんですよ。


ぺちゃ……ぺちゃ……って。本当に嫌な気分です。


思い出したくないのに、濡れた地面の黒っぽい光り方を見ただけで、気持ち悪いくらいはっきり蘇ってきちゃって。


ある日のことなんですけど、2限が終わって家に帰ってきて、


洗濯物を取り込もうとベランダに出たら、急に風が変わって。


横から雨がバーッて吹き込んできたんです。


そのとき、雨粒がちょうど一粒だけ──


唇の端にぽとっと落ちて、それをペロッと舐めてみたんですよ。


その瞬間、なんて言うんですかね……


甘さが広がったんです、口の中に。


いや、味っていうか……香りに近いんですけど。


でも、それだけでもなくて。


腐った果物っていうか、皮だけ残った熟れすぎたやつを、


ゆっくり歯の裏でこすったような、ぬるくて密な感じの甘さでした。


気持ち悪いのに、喉の奥が熱くなって。


変に、ふわっと浮き上がるような感覚があって。


すぐに消えたんですけど、気づいたら、


舌が口の中をぐるっと回ってて。


その粒の痕跡を、探してました。


……やべ、って思いました。


舌が勝手に、その場所を探して動いてる感じがして。


自分の体なのに、自分の意思じゃないというか。


唾液がやたら出てきて、しばらく止まらなかったのを覚えてます。


---


それからですね、雨の中を歩いてるときに、


自然と口元が緩むようになってきて。


いや、意識してないんですけど。


どれか、またあの“変な一粒”みたいなのがあるかもって思っちゃって。


頬とか額に当たる雨粒に、変に期待してるんですよね。


首筋に水が落ちて、背中を伝ったりすると、喉の奥がピクッと反応するんです。


で、あるとき。


バイト向かう途中に気づいたら──


口が少し開いてて。


雨がまた舌に当たるのを、待ってるような感じになってて。


「あっ」ってなって、すぐやめたんですけど。


なんか……あとから急に恥ずかしくなってきて。


「なにしてんの、俺」って。


いや、舐めてないし、口もそんなに開けてないし……


でも、「してた側」になりかけてたんですよ。


意識してなかったのに、身体が……そっちに行きかけてて。


それがいちばん気持ち悪かったです。


---


雨の匂いも、変わったように感じるようになってきてて。


前はただの湿気とアスファルトのにおいだったのに、


今はそこに、なんか……甘さが混ざってる気がするんですよ。


マンゴーの皮とか、そういう濃い果物を剥いたときの指の匂い?


それを一晩放置してから嗅いだみたいな、くたびれた感じの甘さ。


気持ち悪いはずなんですけど、なんか心地いいんですよね。


落ち着くっていうか。


最近ほんと、気づいたら地面見てること多くて。


アスファルトの端っことか、水がちょろっと流れてるとことか。


なんかね、口がうっすら開いてたりするんですよ、自分でも気づかないうちに。


で、ちょっとだけ息吸ってみたりして。


「あるかも」って思ってるんですよね、あの一粒みたいなやつ。


そこに。


自分でも、なにしてんだって思うんですけど──


でも、やめられないんですよ。


---


たまに思うんですよ、「俺、まだ地面は舐めてないな」って。


で、その瞬間、すげえ安心するんですけど──


同時に、「あ、やば……」ってなる。


だって、“いつか舐める側”の視点で考えてるんですよ、それ。


自分でも引きます。


安心してる時点で、もうラインの外側にいるんじゃないかって。


---


あの女のこと、最初に見たときは、


本当に気持ち悪いとしか思ってなかったのに。


今は、ふとした瞬間に思っちゃうんですよ。


「あのとき、あの女、なにを味わってたんだろう」って。


あそこまで夢中になって舌を這わせてたってことは──


あの水には、俺がまだ知らない、とんでもない何かがあるんじゃないかって。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る