甘粒を舐める女
@sasasa6
第1話 遭遇
「最初にあの女を見たとき、
溺れてるんじゃないかって思ったんですよ。助けなきゃ、って。」
あれは、去年の六月のことです。
雨がやたら強くて、よく覚えてます。
たしか、火曜日でした。
その日、大学で講義を終えて、バイトに向かう途中だったんです。
大学からバイト先までは、歩いて5分くらい。
いつもその道を通ってました。
大学を出て、まっすぐ行って。
公園を右に曲がると、住宅街があるんです。
信号もなくて、人通りも少ない裏道。
音楽を聴きながら、そこを歩いて行くのが、
いつものルーティンでした。
その道の途中に、ちょっとした駐車場があるんです。
その日も、そこを通ってたんですけど──
ふと、駐車場の端に、
人がうつ伏せになってるのが目に入って。
しかもそこ、けっこう大きな水たまりができてて。
女性が、その中に倒れ込んでたんです。
真っ黒な髪が広がって、
まるで水の中に、溶けていくみたいに見えました。
ヤバいって思って、傘なんて放り出して。
すぐに、走りました。
完全に、溺れてると思ってたんです。
でも近づいてみたら、
ちょっと様子が違ってて。
肩が、上下してるのが見えたんですよ。
ああ、息してる。
大丈夫かも。
そう思って、少し安心したんですけど──
服はびしょ濡れで、
肌にぴったり貼りついてて。
声をかけようとしたけど……
言葉が出なかったんです。
なんか、躊躇ってしまって。
だって──
その女性、両腕で水たまりをゆっくりかき混ぜてたんです。
腕を広げて、
ぐる……ぐる……って。
意味が、わからなかった。
何かを探してるようでもなくて。
ただ、水を撫でてるような感じで。
顔は、見えませんでした。
でも、首の角度からして……
ずっと、水たまりを見てるみたいでした。
それから──
唇を、水にそっとつけてたんです。
ぴったりと水に触れて、
そのあとで……
舌が出てきたんです。
赤黒くて、細くて、尖ってて。
ゆっくり、少しずつ伸びて。
水をすくうみたいに動いた。
……ぺちゃ……
ぺちゃ……ぺちゃ……
舌が、水の表面をかすめる音。
すごく柔らかくて。
でも、どこか粘ついていて。
それが──
妙にリズムよくて、気持ち悪いのに、耳に残ったんです。
その女は、水たまりの真ん中で。
腕でかき混ぜながら、
舌でなぞるように、舐めてました。
僕、そのとき、動けなくなって。
怖い、っていうのとも違ってて。
ただ……意味がわからなかったんです。
頭が止まって。
体も、動かなかった。
髪が、頬に貼りついてて。
その隙間を、雨が伝って……
顔の輪郭をなぞるみたいに流れてました。
見てるうちに、ぞわっとしてきて。
気づいたら、
その場を離れてました。
走ったわけじゃないです。
でも、ずっと背中がゾワゾワしてました。
バイト先に着いて、トイレで制服に着替えるとき。
シャツを脱いだら──
裏地が肌にべったり貼りついてて。
あの女の服とそっくりだったのが、気持ち悪かったんです。
その夜、雨音の中に──
あの舐める音が、混じって聞こえた気がしました。
……ずっと、気持ち悪かったですね。
---
数日後。
また、雨が降って。
また、あの道を通ったんです。
また、いたんですよ。
駐車場の隅に、同じ女が這っていました。
でも、その日は水たまりはできてなくて。
代わりに、アスファルトの表面を──
細い雨の流れが、すーっと流れてたんです。
その流れに……
女は、舌を這わせてたんです。
顔は、やっぱり見えなかった。
濡れた髪が、顔に貼りついてて。
服もまた、びちゃびちゃに濡れて。
肌にぴったりと、張りついていました。
両腕を、前に突き出して。
指が、アスファルトに沈むくらい、
べたーっと地面に、力をかけてて。
雨は──
女の背中を伝って、ゆっくり流れていました。
背骨のあたりで二筋に分かれて。
肩や腰を、ゆっくり這って、地面へ落ちていった。
ぼーっと見てたら、ある考えが頭に浮かびました。
なんていうか……
適当に舐めてるんじゃなくて。
“この水だけ”って、選んで舌を這わせてるように見えたんです。
そういう“意志”が、
舌の動きから、伝わってくるというか。
---
ぺちゃ……
ぺちゃ……ぺちゃ……
……
なんであんなことしてるんでしょうね。
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