ep.4 名前のない原稿

「書いている」


嘘だった。誰に言うでもないその言葉が、今日も喉に引っかかった。


原稿用紙は、白いまま机に置かれている。


夏目漱石を名乗って、この店に座るたびに、俺は少しずつ、自分を見失っていた。




ペン先が止まるたび、机の上の湯呑みからは、静かに湯気が立っていた。


書けない自分を映すように、茶の表面は揺れていなかった。


書けないことに、慣れてはいけないと思っていた。


でも、握られなかったペンの重さは、もう湯呑みよりも軽い。


誰も俺を責めてはいない。


ただ、白紙だけが“漱石”という看板を無言で映し返してくる。


鴎外は黙って読んで、紫琴は黙って書いていた。


コーヒーを一口飲んで、気持ちを整理する。


俺だけが、黙って白紙を見ている。


何が書きたいか、じゃない。


誰として書くかが、わからなくなっている。


書けなかったのは、言葉がないからじゃない。


言葉にしてしまったら、“本当の自分”が見える気がしたからだ。




「まだ書けてないのか」


「……書いている」


「嘘だな」


「…」


「でも、嘘を書くのも作家の仕事だ」




「漱石さん、今日もここ来てくれてうれしいな~」


「……俺は、逃げに来てるだけかもしれない」


「漱石さん、ここ来るとちょっとホッとするって言ってたじゃないですか」


「……あの頃は、まだ書けてた」


「今は“溜めてる”だけですよ。いつか、それで書く日が来ますって」




「筆名、変えてみるのもひとつの手ですよ」


「それは、夏目漱石を捨てるってことか」


「いえ。夏目漱石を、いったん“休ませる”ということです」




「……このまま何も書かないなら、名乗る意味すらない」




「もう一度、最初の一文から始めてみる」


「名前は……あとでいい」




『私は、今日も自分が誰なのかわからない』


原稿用紙の一行目に、静かに記された文字。




ペンを置いたあと、俺は、名前の欄だけを見つめていた。


書かないまま、そっと原稿を閉じた。




いつもより長く、灯りがついていたカフェ。


そこでは、マスターが白い本を静かにめくっていた。







あとがき


今回は、漱石目線のお話でした。

夏目漱石は誰もが知っている作家なので、背負う荷物もきっと大きいのでしょうね…

「名前に潰される作家」の葛藤と回復の一歩、お楽しみいただけましたでしょうか?

評価と感想、お待ちしております!

では、また次のエピソードでお会いしましょう!

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Lie Stage:名を借りた者たちの物語 ことのは @s25

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