鬼女紅葉と天邪鬼弟

 珠子が無事に逃げ出したようだから、俺はほっとした。

 もちろん俺は取り残されてしまったが、珠子が無事ならまだましだ。俺は自業自得だが、珠子には何の責任がない。鬼の権力争いに巻き込むのは可哀想だ。

 あの後、紅葉が戻ってきて見張りの鬼達はこっぴどく怒られていた。もちろん俺もかなり折檻された。そして紅葉達は場所を移動した。闘鬼さんに居場所を知られてしまったので、潜伏場所を変えたようだ。俺は縛られて、袋に詰められた。車のトランクらしき所に放り込まれ、何時間も車の中にいた。

 殴られたせいで、頭はがんがん痛むし、気分が悪い。挙げ句の果てにまた結界の中に転がされた。そこも同じようなマンションの一室だった。

 もうサキに会えないかもしれないと思うと、どうしようもなく胸がきゅーと痛んだ。

「色男が台無しね」

 紅葉が入ってきて、俺を見下ろしながら言った。

「自分がやらせたくせによく言う」

「仕方ないじゃない、大事な猫又を逃がすんだもの。ったく、使えない雄ばっかりね」

「俺を人質にしても無駄だぜ。誰も助けに来ない」

「あんたが人質にならない事は分かってるわ。でも他に使い道はあるんじゃない?」

「?」

「例えば、あんたを解放してやる代わりに、あの猫又を殺すなんてどう? サキちゃんでもそれくらいは出来るんじゃない?」

「やめろ! サキにそんな事はできない。サキは心優しい女だ。誰かを傷つけたりはしない! 例え、俺の為でもそんな事はしない!」

 紅葉は俺の言葉がたいそう気に入らなかったようだ。縛られて転がされている俺の身体をどかっと蹴り飛ばした。骨が折れたかもしれない。身体の中で何かがどろっと動いたような気がした。

「ふん、生意気な天邪鬼ね! 大層な口をきくじゃないの! 妖怪のくせに心優しいですって? だからあんた達は出来損ないって言うのよ!」

 俺は大きく息をした。

「そんなに総大将の地位が欲しいのか? あんたはかなり妖力が高くて、配下の鬼も大勢いる。人間界でも成功しているから、暮らしの心配は何もない。住処を追われる心配ももうない。なのに、まだ欲しい物があるっていうのか?」

 紅葉は俺の頭元で片足を踏み下ろした。どんっと響いて、俺の頭も痛んだ。

「だから出来損ないと言うのよ。喰う物、住処の心配するのは下等な妖怪のする事よ。あたし達は妖怪なのよ。それも妖怪の中でも優れた能力を持つ鬼族よ? 人間の影に甘んじて生きるなんて我慢ならないわ。なのに闘鬼ときたらいつまでものらりくらりとして! やる気がないなら、総大将の地位をあたしに渡せばいいのよ。そして好きなように暮らせばいい。あたしなら鬼族を支配して素晴らしい妖怪の世を作ってみせるわ! あたしは本の中で伝説になってるなんてぞっとする。人間のいいように扱われるのはもうたくさんよ。ねえ、知ってる? 人間はあたし達に憧れてるのよ。優れた能力を持ったあたし達にね。そうよ、妖怪だから闇に生きるなんて、人間の戯言よ。ねえ、こう思うのはどう? あたし達が新しい人間種になるの。素晴らしい能力を持った新しい種族。人間はそういうのにとても憧れてるのよ。自分達が持てない不思議な力をあたし達は持ってるんだもの。そして長い寿命と強靱な生命力! あたし達が新しい人間になるのよ!」

 紅葉の言い分は夢物語を聞いているようだった。

 それは俺が元は人間だったからなのか、下等な妖怪だからなのか、分からない。

 けれど紅葉の望みは儚い夢のように思えた。

 俺は人間が嫌いだ。だからかばうわけでもないし、褒めるわけでもない。

 だが人間は進化する。俺達をお化けと呼んだ人間はもういないのだ。

 人間は本当の事を知っちゃいない。妖怪が実在し、霊魂も実在するのに、人間はそれを自分達の世界から締め出した。妖怪はただの伝説で、霊魂はエネルギーの一種だと。

 人間に忘れられた存在は無なのだ。人間界ではゼロの存在なのだ。

 闇に生きようと、物語の中で生きようと、人間が信じなければ俺達は無だ。

 妖怪の世を作ろうなんて、馬鹿げている。

 人間がいなくなった後の世界で俺達が人間になるだって?

 紅葉が人間を襲えば人間界はめちゃくちゃになるだろう。人間が作り上げた物は全て壊れて消える。そうしたらサキが悲しむだろうな、と思うから俺は賛成はしない。

 けれど俺には少しだけ紅葉の気持ちは分かるから、反論もしなかった。

 もし俺にサキがいなかったら、紅葉についていったかもしれないな、とふと思った。

「そうだ、あんたのサキちゃん、綺麗な顔に戻ってたわよ」

 と紅葉が言った。

「ほ、本当か!」

「ええ、会いたいでしょうね?」

「……」

 俺は唇を噛んだ。サキの呪いが解けたのか? 五百年も呪いを受けた姿で生きてきたんだ。サキは喜んでいるだろうな。もう一度会いたかった。

 俺はもう二度とサキには会えないような気がしていた。

 サキの綺麗な姿なら人間界でも十分一人で生きていけるだろう。もう誰にもいじめられたりしない。友達も出来るだろう。

 俺はやっと肩の荷が下りたような気がした。

 もうサキには俺は必要ないかもしれない。

 そう思うとまた胸が痛んだ。そんな現実を見る前に紅葉にやられてしまうのもいい。

 俺は目を閉じた。

「どうしたのよ? 嬉しくないの?」

「嬉しいさ。五百年だぜ。長かった。とても長かった」

「サキちゃんに会いたいでしょ? もう一度協力してもらうわよ」

 と紅葉が言った。

「あんた、闘鬼さんと戦える力を持ってるなら正面から戦いを挑んだらどうなんだよ」

 紅葉はふんと鼻を鳴らした。

「馬鹿ね。闘鬼と五分なら相打ちじゃないの。鬼神の仲間を呼ばれたらこっちが不利に決まってるじゃない。闘鬼だけでもうっとうしいのに鬼神には四兄弟がいるし」

 そこで紅葉は言葉を切った。

 四兄弟? 闘鬼のだんな以外にも強い鬼がいるんだな。

「でももう遅いんじゃないか? あんたの企みはもうばれたんだ。今頃、闘鬼さんはあんたとの戦いに備えてるんじゃないのか? 四兄弟も来てるかも」

 どかっとまた俺は紅葉に蹴り上げられた。息も出来ないくらいに、内臓が痛んだ。

「お黙り! おしゃべりな男は嫌われるわよ!」

「生憎、ホストなもんでな、しゃべっていくらの商売なんだよ」

「ふん、小生意気な! それはそうと、あの猫又が鬼の血を持っているというのは本当の話なの?」

「さあな、珠子が自分でそう言っていたからな。本当じゃねえの? 闘鬼さんの血だって言ってたけどよ」

「闘鬼の……」

「なんだい妬けるかい?」

 紅葉はしばらく黙って俺の顔を見下ろしていたが、

「せっかくサキちゃんが綺麗な顔に戻れたっていうのに、今度はあんたが二目と見られない顔に切り刻んでやろうか?」

 と凄んで見せた。俺は背筋がぞっとした。この女ならやりかねない。

 紅葉は酷く怒ったような顔をしていたが、やがて部屋を出て行った。

 俺は息を大きくついた。

 結界は二度と解かれないだろう。逃げるのは無理そうだ。

 紅葉は闘鬼さんに戦いを挑むんだろうか? それとも退却するか。

 俺はそんな事を考えながら、じっと転がっていた。

 窓から光が差し込んでくるのを眺めたり、少し眠ったりもした。

 そして夢を見た。

 まだ幼い俺とサキが河原で遊んでいた。

 兄弟もいた。親父とお袋もいた。みんなで弁当を食っていた。

 サキが幸せそうに笑っていた。

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