第4章 天邪鬼 姉の後悔
「お忙しいところすみません」
とその女の人は言った。
「いえ、でも、あの、良太は今おりませんけど」
「そうなんですか」
手をあごにあてて思考している瞬間がとても似合う知的な女性だった。
差し出された名刺には、大手化粧品会社の名前と彼女、槻田倫子の名前と開発課課長の肩書きが書かれてあった。ぷうんと匂うのは化粧品の香りだろう。きつすぎずさわやかな香りだった。ふと、うらやましいと思った。
きっと彼女はキャリアウーマンという女の人で、仕事をして、恋をして、そんな充実した生活を送っているのだろう。限られた人生だからこそ、若々しい今、精一杯楽しんでいるんだろう。
「リョータさん、もう何日もお店に出てないから、心配になってしまって」
ぽっと頬を染めて、いいわけのように倫子さんは言った。
「ああ……あの……ちょっと……」
私の方が口ごもってしまう。喧嘩して飛び出してから、良太はアパートに帰ってこない。
連絡もなく、私の方が途方に暮れていた。
「遠くの親戚の家へ行っていて」
まごついた私に倫子さんは疑わしそうな目を向けた。
「いつ戻られます?」
「それは……むこうでの用事がすみ次第と思うけど」
「そうですか」
私はもう少し人間の女性と話してみたくなり、
「立ち話もなんだし、よかったらどうぞ」
と言った。
女性が良太を訪ねてくるのは昔からよくある事だった。そして良太は家まで押しかけてくる女性とは二度と会わない。聞いているこっちが悲しくなる言葉を並べて追い返してしまう。それでも良太を慕う女性は後を絶たないのだ。
倫子さんは物珍しそうに部屋の中を見渡した。
今時、こんなぼろいアパートがあるのだろうか? と思っているのかな。
私は小さなキッチンで湯を沸かし始めた。昨日作ったチョコレートケーキがあるのでそれを切り分けていると、
「欲しいよ、欲しいよ」
と天井裏に住んでいるぼっこの小さな叫びが聞こえた。
「ずるいよ」
台所スポンジの横から別のぼっこが顔を出す。しょうがないので、少し切ってやる。
「見つからないでよ!」
「うん、分かったよ、サキちゃん」
流し台の中でチョコレートケーキにかぶりつくぼっこに布巾をかぶせてから、倫子さんにも紅茶を出した。
「狭いアパートでお恥ずかしいわ」
と言ってみた。もちろん本気じゃない。建前という奴だった。私にはこの妖怪だらけのアパートが理想そのものだ。
倫子さんは、
「そうですね」
と言った。
「リョータ君、超売れっ子なのにね」
大きなお世話だけれど、最近は人間もあけすけに物を言うのね、と思った。
「ええ、まあ」
倫子さんは座布団に正座をしていた。クリーム色のスーツが上品で、手や足も綺麗だった。けれど倫子さんは四十近いだろうと思った。
なのに彼女は良太の事が好きなんだろうか? 人間の恋愛事情はよく知らないけれど、昔から女性が年上なのはあまりいい結果を生まないような気がする。十も二十も年の差があると難しいんじゃないのかしら。もちろん、五百年も生きている良太相手では年なんか全然関係ないけれど。
「お姉さん、おいくつなのかしら?」
紅茶を一口飲んで倫子さんが言った。
「私は二十八です」
という事に決めている。そして良太は二十五歳と言う事になっている。人間界で働くにはそれくらいがちょうど良かったから。
「あの、ごめんなさい。本当にお姉さんなのかしら?」
よくある質問の中で一番多い質問だった。もしそれを否定して、恋人ですと言ったらどんな反応を示すだろう。驚いて、そして、私を傷つける言葉を必死で探すに違いない。
「ええ、ちっとも似ていないでしょう?」
「本当にね」
倫子さんはほほほと笑った。
彼女はきっとばりばりと仕事をして、上司にも部下にも受けがよく、輝いてる女性なのだと思う。けれど恋はその道を歪めてしまう。
どんなに素敵な女性でも愛や恋は人間性を変えてしまうものだ。
倫子さんは私が良太の姉だという事がとても嬉しそうだった。
そして私に取り入れば良い結果が出るんじゃないかと考えたようだった。
「私、リョータ君に頼りにされてて、いろいろ調べ物をしてるんです」
「調べ物?」
「ええ、うち、実家がお寺なんですよ」
「お、お寺……」
「ええ」
倫子さんは驚いた私を不思議そうに見た。
「ええ、妖怪の事で何か文献が残っていないかって」
「妖怪……」
「そう、妖怪が人間になったとか、人間から妖怪になったとか、そういう記録を調べてるんだって言ってたわ。お姉さん、ご存じなかったの?」
「え、ええ、まあ。そ、それで、何か文献は残ってました?」
「それがあまり参考になりそうな物はなくて」
「そうですか……妖怪なんて……」
「お姉さんもそう思うでしょう? 妖怪なんているのかしらって!」
「え、ええ」
天井でぼっこ達が、「いるぞ! ここにいるぞ!」と叫んだので私は余計にびっくりしてしまった。けれど倫子には聞こえていないようだ。
「リョータ君はずいぶんとがっかりしていたみたいだったけど」
「そうですか」
良太は何を探していたんだろう? 良太が人間になりたいはずもなく、私達のような人間から妖怪になった仲間を捜していたんだろうか?
「でも見つけたんです!」
倫子さんが嬉しそうに言って、高価そうなバッグから巻物を取り出した。
「これ……寺の庫裏で見つけてこっそり持ってきちゃったの」
倫子さんは巻物の紐をほどいてちゃぶ台の上に広げた。
ずいぶんと古そうな巻物で、丸まった部分からほころびが広がっている。
「ここ読めます?」
倫子さんが指さした部分には、
「天から……落ちた……鬼……あまんじゃくと……人間……仲間に……」
それだけしか読めなかったし、その読みも正しいかどうかは分からない。
「ね?」
と言って倫子さんが嬉しそうに笑った。
何が「ね?」なんだろうと私はぼんやりと考えた。
「リョータ君の参考になるだろうと思って!」
ああ、そういう事か。私は顔がひきつるのを精一杯我慢して笑って見せた。
「天邪鬼は妖怪だけれど、現代ではあまりいい意味で使われていない名詞になってるわね。
へそ曲がりとか、意地っ張りとかそういう意味よね? でも元々は神様の仲間だという説もあるわ」
「神様……」
「そう、へそまがりだけどちゃんと願いを叶えてくれる神様。意地っ張りなんだけど、優しい」
まるで……と私が心に思った瞬間に、
「まるでリョータ君みたいじゃない?」
と倫子さんが言った。
「良太?」
倫子さんはこの上ない優しい笑顔をした。ああ、この人は本当に良太の事が好きなんだなと思った。そして私はわき上がってくる黒い感情を押さえ込んだ。
私は長い長い時を生きてきた。その中で一番嫌な私が出てくる。
大事な弟を誰かに盗られやしないか、と思う自分だ。
良太には別れを告げたはずだった。
なのに、良太が誰か他の人の物にと思うだけできゅっと胸が痛い。押さえても押さえても大きくなるこの感情をどうすればいい?
嬉しそうに笑う倫子さんを私はただ見つめた。
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