天邪鬼 弟の憂鬱 6

 もし今夜紅葉が現れなかったら、俺は三和への仕打ちを自分で止めただろう。

 こんな事は何度となくあったからだ。厚かましい態度もずうずうしい欲望も三和だけのものではない。毎晩毎晩入れ替わり立ち替わり現れる人間の女どもは皆同じだ。

 あの手この手で俺を独り占めしようとする。

 妖怪に身を落した今でも心が残っているとしたら、俺の心はサキのものだ。

 人間の女になど興味もないし、関心もない。

 だが妖怪も生きていくには金がいる時代だ。駅の構内で寝泊まりするホームレスの中には不器用でどうしようもない妖怪達の顔も見る。働く事も出来ず、帰る故郷ももう存在しない哀れな妖怪達がもぞもぞとうごめいている。

 サキと二人、人間界で生きていくには金がいる。サキに不自由な思いはさせたくない。

 食う物に困って親に売られたあの時が俺達の始まりだとしたら、俺達はもう二度と飢えたりしない。サキを食わせる為なら俺は何でもするだろう。

 だから人間の女の相手は簡単なものだった。笑って優しい言葉を言ってやるのも、もう慣れた。三和はいい客だったからこれからも金を搾り取れただろう。

 なのに俺は三和に手を出してしまった。

 紅葉の言葉を信じたわけでもないが、俺は少しばかり興奮していたんだと思う。

 サキの呪いが解けるかもしれないと思っただけで胸が熱くなる。

 胸が熱くなる、などという感情も久しぶりだった。

「機嫌、よさそうじゃない? どうしたの?」

 その夜、仕事から帰った俺は三和から奪った生気をサキにたっぷりと分け与えた。

「いいや、別に。久しぶり極上のエネルギーだろ?」

「そうね、でもこれだけの生気を吸い取ったんなら、相手の女の子は大丈夫なの?」

 サキは心が優しい。いつも被害者の心配をしてやり、申し訳なさそうな顔をする。

 だがそのサキの優しさは、時々俺を苛立たせる。

「さあな、明日には冷たくなってるかもしれねえ」

「良太!」

 サキはちゃぶ台に手をついて俺の方に身を乗り出した。

 俺はコートと上着を脱いだ。ネクタイもワイシャツもズボンも靴下も下着も。

 身に付ける洋服が煩わしい。裸になって大きく息をするとようやく生き返ったような気になる。

 サキはちょっと困ったような顔で俺を見下ろしている。

 久しぶりに吸い込んだ人間の生気はサキの顔を変化させた。

 ほそりとした白い肌、黒曜石のような双眸。

 豊かな量の髪の毛もカラスの濡れ羽色って奴だ。

「ずっとこのままだったらいいのに」

 と俺が言うと、

「でもなんだかいつもの姿に慣れちゃって、こっち方が恥ずかしい気がするわ」

 と言ってサキが笑った。

「サキの本当の姿を見たら、この辺りの妖怪どもはびっくりするだろうな」

「そうかしら」

 サキは小首をかしげて見せた。

「そうさ、あの鬼の大将だってな」

「闘鬼さん? 闘鬼さんは知ってるんじゃないかしら」

「え?」

 俺が身体を起すとサキは俺にTシャツを投げかけた。

「だって、妖怪にしておくのはもったいない、って言ってくれたわ」

「何!」

 あの鬼め! 猫又だけ可愛がってりゃいいものを!

「でもね、良太、私はこの顔も気に入ってるのよ」

 サキがそう言ったので、俺はふいをつかれて笑い出した。

「気に入ってる? その不細工な顔が?」

「そう。この顔でも友達になってくれる妖怪はいるわ。それでいいじゃない。珠子ちゃんやクチメちゃん、鎌鼬さん達だって。良太だって側にいてくれるわ。それで充分よ」

「け、馬鹿馬鹿しい。あんな不細工な面で長すぎる時を生きていくのか? 俺達の寿命は短かくねえぞ」

「……」

 パタパタと小さい音がしたのは天井裏に住んでいる蔵ぼっこどもだろう。こんなぼろいアパートにも住み着いている。鎌鼬のバーのぼっこと違うのはこちらの方がよく太っている事だ。サキが食い物を与えるからすっかりなついてやがる。鎌鼬のバーのぼっこどもは数十匹もいるがこちらはほんの数匹だから、十分な食い物にあずかれるってわけだ。

 一日中時間をもてあましているサキはぼっこどもに洋服まで作ってやり、着せ替え人形をして遊んでいるようだ。おかげでどこのぼっこどもよりこのアパートの蔵ぼっこが一番立派に見える。一時、よそのぼっこがここへ引っ越してくるという騒動があった。誰だって食い物と衣服が簡単に手に入るのなら、そっちへ行きたくなるだろう。

 数でこられれば勝ち目はないと思ったここのぼっこは小さい脳みそで考えたらしい。

 サキに相談して、猫又を訪ねた。これこれこういう理由で、どうぞ助けてください、と訴える。小生意気な猫又が二、三日ここへ泊まり込み、よそのぼっこどもを鋭い銀色の爪に引っかけると恐れをなしたぼっこどもはいちもくさんに逃げていく。

 それで終演と思われたが、数でならいくらでもいるぼっこどもがまた押しかける。猫又はまたぼっこどもを追いかける。逃げていく。押しかける。

 猫又とぼっこのイタチごっこだ。

 しびれをきらしたのは、猫又でもぼっこでもなく鬼の大将だった。

 遊び歩いている猫又の尻尾をつかみ、そこいらにいたぼっこどもをひと睨みすると、数十匹いたぼっこの大半は鬼の妖気に消滅した。残ったぼっこは二度とアパートには近寄らなかったし、その噂が広がると騒ぎは収まった。結局最初にいた数匹のぼっこだけがサキのごちそうを食う権利を得たのだ。

 サキは毎日ぼっこやクチメの為にごちそうを作って食わせてやっている。

 奴らががつがつと物を喰らう姿を見ては嬉しそうに笑っている。

 このアパートは日当たりもよく、すぐ側を流れる川は昔と違って澄んだ水だ。

 ここにアパートが建った頃は濁った臭いどぶ川だったらしいがこのアパートに一匹、二匹と人の姿をした妖怪が住み着くようになってから、水に住む妖怪達が水路にしてやって来るようになった。

 やがて川は昔のように綺麗な水質になった。水の跳ねる音がするのはぼっこどもが水遊びをしているからだ。

 綺麗な月夜にはみんなで川につかって涼む事がある。サキはその時も肉を焼いたり、酒を用意したりする。噂を聞いてふらふらとやってくる得体の知れない妖怪達にも、サキは酒を振る舞ってやる。そしてサキはそんな時とても楽しそうだ。

 俺や猫又の前では誰もサキをいじめる奴はいないし、のんきなこのアパートの連中もこの不細工なサキと仲良くしてくれる。

 サキが今の生活で満足しているのは見て分かる。

 だけど俺は嫌だった。不細工なサキは見ていられねえ。

 サキは本当に本当に綺麗なんだ。

「良太は……良太が嫌なのよね。不細工な私が」

 とサキが言った。

「そんなんじゃ……」

「いいえ、良太が嫌なのよ」

 とサキがもう一度言った。

「あんたは……綺麗な顔が好きなのよ。あんたは自分が綺麗だから……不細工な私が嫌いなんでしょ」

「そんなんじゃねえ!」

「恥ずかしいんでしょ? 不細工な女を連れて歩きたくないんでしょ? そういう所、人間的感情が残ってるわね」

 そう言ってサキはふふふと笑った。

「だから、私に家から出るなって言うのよ。不細工な姉が恥ずかしいんでしょ?」

「違うって言ってんだろ!」

 俺はついサキに向かって手を上げて、そして、危うくサキの顔を叩くところだった。

「どうして……そんな風に考えるんだよ」

「私はもう妖怪でも人間でもどっちでもいいわ。ただ楽しく暮らしたいだけ。みんなで楽しく暮らしたいだけ。もうこの顔で生きていく決心をしなくちゃ」

「じょ……冗談じゃねえ。そんな醜い顔で!」

 サキは俺の方に振り返って、また笑った。

「ほうら、やっぱり、不細工な顔が嫌いなんでしょ。あんたは綺麗な顔が好きなだけなのよ。私じゃなくても綺麗な顔ならいいのよ」

 身体が動かなかった。サキの言う事が理解出来なかった。

 俺がサキの綺麗な顔だけを愛してるって、サキはそう言ったのか?

 五百年だ。そんなに短い年月じゃなかった。

 俺達はあまんじゃくの呪いを解く方法を探しながら、五百年生きてきたんだ。

 二人で。

 俺の目に映ったサキの顔は美しかったがひどく意地の悪い顔だった。

「もうすぐ元の不細工な顔に戻る。私はあの顔で生きていくわ。あんたはあんたで好きにすればいい。もう、私の為に人間から生気を奪うなんて危ない真似はしなくていいわ。綺麗な女の子を見つけて楽しく暮らしなさい」

「本気で言ってんのか?」

「ええ、そう」

 サキから別れを告げられるとは思わなかった。

 サキは俺がいないと何も出来ない。今までずっと俺が守って、助けて生きてきたんだ。

 サキは俺がいないと生きていけないはずだ。食う物も住む場所も俺がいないとどうにもならない。

「人間界で生きていくには金がいる……んだぞ」

「私だって働くわ」

「お前に何が出来るって言うんだ!」

 サキはにっこりと笑った。そんな嬉しそうな顔は久しぶりに見たような気がする。

「お総菜のお店を出すの」

「はぁ?」

「私の料理、おいしいでしょ?」

「……」

「みんな、店を出せばいいって言ってくれるわ。ね、いい考えでしょ? 気軽にみんなが立ち寄れるお店。食事とお酒も少しならいいわね」

「……」

「お料理に顔は関係ないもの。不細工な顔に慣れちゃったし、みんなだってそうよ。今更綺麗な顔に戻ってもたいした差はないわ。前から考えてたの。ね、いいでしょう」

 確かにいい考えだ。サキの料理は旨い。妖怪達にも好評だし、客もつくだろう。

 しかし。

「許さない」

 と俺は言った。

「え?」

「今更、許さねえ。お前一人、人間界に馴染もうなんてよ!」

「良太!」

 俺は立ち上がって、部屋を出た。

 サキが何か言ったようだが、聞こえなかった。

 夜風に身震いして、裸だった事に気がつく。

 俺は走った。闇の中を走るのは気持ちがよかった。

 自分が飛んでいるのか、走っているのか、笑っているのか、も分からない。

 両足で走っていたはずが、いつの間にか手をついている。四つん這いで走った方が速く走れる事に気がついた。

 深夜だ。川沿いの土手には何の気配もなかった。

 俺はずっと走り続けた。

 腕と足がやけに重くなった。白いはずの手が黒いのは固そうな毛が生えてきたから。

 爪は尖って固くなり、黒いアスファルトにがつんがつんと跡を残した。

 尻尾が生えてきたのが分かった。バランスが取れて走りやすくなった。

 そして。

「随分急いでどこへ行くんでえ」

 下品な声がして、俺の身体は何かにぶち当たった。

 すさまじい痛みが全身を走り、気がつけば天を見上げて道ばたに転がっていた。

「だ、誰だ!」

「紅葉ネエサンがお呼びだ」

 下品な声の主は巌鬼だった。

「ネエ……サン?」

「おうよ。手を貸してくれるんだろう? ボウヤ」

「……」

 巌気は俺の身体をひょいと担ぎ上げると、とんっと宙高く飛んだ。

 痛む顔を上げて見ると、ゴリラのような顔に角が生えている。

 頭ががんがんと痛んだ。

 もうどうでもいい。

 目を閉じると意識が遠くなるのを感じた。

 サキの顔が目の前に浮かんで、そして真っ暗になった。


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